見出し画像

I.D.



この世界には選ばれた人間に天使がついている。
そのことを啓はこころよく思っていなかった。
啓には天使がついていない。
正確には自分専任の天使が見えない――天使が顕現しなかった人種だ。
人間は原則として誰にも一人ずつ天使がついている。
天使は人間に生まれてから死ぬまでついているが、そのうちのある一定の割合が「実存する天使」として顕現して人間と共に生きる。その天使は世界のあちこちにある「鍵穴」と言われるいくつかの歪んだ時空から現れ、専任するべき人間のもとへ飛び、一生をその人間と共に暮らす。
この世界は不公平だ、と幼い頃から啓は感じていた。
天使つきの人間は生まれながらにして天使から予知や預言などの啓示を受けてエリート、つまり富裕層となる。天使付きの人間が血縁に居れば、預言を伝手で尋ねには行けるので一ランク下がるが庶民層でいられる。そして、自分にも血縁にも天使が居ない家系は、自然と貧困層へと組み込まれていた。
啓には家族がいない。同じ歳の頃の友達とバラックを共にしている。啓は十五歳になるが、学校にも十分に行く機会がなくて、なんとか読み書きと簡単な計算ができるくらいだ。
「啓」
この場所に座って考え事をしている啓に後ろから声を掛けたのは、バラックを共にしている整だ。整は啓と同じく今年で十五歳になる少年で、黒髪と褐色の肌が特徴的だった。
「ここにいると思った。そろそろ寒くなる。帰ろう」
ここはバラックの端に当たり、少し開けた視界が目に入ってくる。遠くに見えるのは、高く聳え立つ高層ビル群。あの世界には天使付きの人間だけが住まい、その周りの住宅街には庶民層の家々が広がる。そしてその家々も途絶え、離れたところにこの貧困層の住まうバラックが所せましと並ぶスラムがある。
「おまえが天使をすきには思えてないのは知ってるけど、仕方ないだろ。おれらには生まれたときに天使がやってこなかった。家族も親類もいない者同士。どうにもなんねぇよ。せいぜい、おれらが庶民のおこぼれを得られるように運を天に祈ることくらいができることさ」
「整。おまえだって子どもの頃に聞いただろう、この世界の成り立ちの話。大昔、天使はいなかったんだ。『鍵穴』が空に浮かんでできてから、天使は鍵穴から生まれるようになったって」
「『鍵穴』からも生まれるけど……天使付きの人間同士だと、その天使同士も子どもを身ごもって、付いている人間の子どもの天使を産むらしい。天使付きの人間は一生もその子どももずっと天使付きだ。なのに、おれらは一生その見える天使を拝めるところにすら行けない。なぁ、なんでこんなに世界は不公平になったんだろう」
「啓」
整は啓の腕を軽く掴んで、座っている場所から動くように促した。
「ここはおれらから向こうがよく見えるってことだけど、向こうからも見えるってことだ。変なことされないためにも、あんまりここに入り浸るのやめとけ」
「あいつら、おれらのことなんて眼中にないよ。視界にあるのは、財力と権力と、天使、天使、天使のことばっかりだ」
啓も整も、写真で見たことしかない、この世界に混在するという天使。後光が差しているから一目で人間じゃないって分かるという。そして生まれたときから死ぬときまで、天使は年を取らない。
「家で茉莉花も啓が帰ってくるの待ってるぞ。今頃は夕飯作ってくれてるから、さっさと帰って食べることにしよう」
整のさり気なく、しかし繰り返される促しに、啓は小さく溜息をついて従った。
「……茉莉花の料理はうまいもんな。帰るか」
「ああ」
薄汚れたTシャツに同じく薄汚れたジーンズ。サンダル履き。髪は少し癖っ毛で茶色く、目の色は翠をしている。背は高い方とは言い難い。それが啓だった。スラムに幾らでもいる孤児たちの一般的な姿だ。細い体躯は、栄養が足りてないことを表している。
「ほら、行こう」
「……」
整に促されながら、啓はもう一度振り返って高層ビル群の蜃気楼を見た。夕焼けの始まる空に突き刺さるように、高く鋭く聳え立つ高層ビル群の中に居る存在が、天使も含めて自分を見降ろしているような気がした。

啓は、孤児同士四人でスラムのバラックに暮らしている。ひとりは同い歳の整、一つ年上で十六歳の姉貴格の茉莉花、そして一つ下、十四歳の凛。庶民の中でも天使付きの血縁の末端で天使からの啓示を受ける伝手を失ったような家庭から、幼い彼らは捨てられる。あるいは、生まれながらにしてバラック生まれバラック育ちも数多くいた。なのでスラムには多くの大人も住み、治安もよくない。
「茉莉花、ただいま」
「おかえりなさい、二人とも。もうすぐご飯ができるから、凛と一緒に待ってて」
バラックにいい香りがする。カレーの匂いだ。
「今日はカレールーを買えたのか、そりゃラッキーだった」
「うん、塩味ばかりじゃ、さすがに身体に悪いしこの間啓と整で仕事してきてくれたから」
茉莉花はカレーをよそいながら、凛を手招きした。
「啓も整も食べる時間までには帰ってくるの、えらいわ」
凛が笑いながらそんなことを二人に言い、二人は頭を掻いてきまり悪そうに笑顔を作った。
「だって、お腹すいてるから、飯ははやく喰いたいんだよ」
「そうそう、働いてるとすぐに腹減る」
庶民層には、デジタル端末でもあるAIが支給され、生活に困ることがないという。貧困層でAIを入手しているものは一人もいない。それは明確なヒエラルキー特権だった。
天使は現実と現在の生活をフォローアップするAIよりもずっと希少で重要な存在だ。
天使付きが富裕層になるというのは、この世界では必然であり自然でもあった。
時々啓は考えてしまう。
誰にでもついているのだというなら、全ての天使が顕現すればいいのに。
「あ、今日のカレー、トマトも入ってる。豪勢だな」
「うふふ、お裾分けもらったの。今日は本当にラッキーなのよ」
日々の代わり映えしない暮らしから、ないものねだりをしたくなる。

天使付きはその預言的啓示を人間にもたらすことによって、人間は健康に暮らすことができるそうだが、スラムには病も怪我も老いも死も身近にあった。
その日、啓はたちの悪い流感に罹った。はじめのうちは咳をしていただけだったが、だんだん具合が悪くなり、啓は、茉莉花や整、凛とは離れた空き家のバラックに移って療養をすることにした。
「大丈夫なの? 確かに感染しないようにするに越したことはないけど……時々見に行くわね」
「食べ物も持っていくし、ゲホ、うつしたくないからな。ゲホ、凛は身体が丈夫じゃないし、一週間しても連絡なかったときには、死んでるかもしれないから見にきてくれ」
「死ぬなんて縁起でもない。じゃあおとなしく待ってるから早く回復して帰ってきてね」
「ああ」
啓も茉莉花も風邪くらいに思っていたのだが、実際にはもっと重い症状が出てくるとは思いもよらなかった。
着いて翌日には、動けないほどの倦怠感と、高熱、激しい咳が出てきた。咳の苦しさで食べること寝ることに困難をもたらすほどの脅威だ。三日三晩、四〇℃を越える熱が延々と続いた。啓は、高熱にうかされながら、もうだめかもしれない、と思うくらいの重度な流感だった。
そして、夢を見た。見たこともない父と母が啓の誕生を祝う夢だった。啓は目覚めたときにあまりにも悲しくて少し泣いた。泣いても咳が止まらなかった。
四日目、速やかに熱が下がった。突然の解熱だ。啓はおそるおそる病床から起き上がる。昨晩までひとりきり、咳も苦しかった。もうだめかと思ったが、きれいさっぱり楽になっている。
「一体、なんなんだ……?」
とりあえず顏を洗おうと洗面所へ行った。
「え……!」
鏡の中に居る自分だったはずの人影に、啓は思わず驚愕の声を漏らした。
「髪が真っ白だ……え……」
三日三晩高熱を出していたせいなのか、啓の癖っ毛の茶髪は真っ白な色に抜け落ちている。
あまりのことに、しばらく啓は声を出せず、ただじっと自分の顔を見ていた、そのときだった。
『啓、あなたは高熱で死に掛け、そして改めて生を得たのです。これはあなたが生まれ変わってしまった印のようなものです』
聞き慣れない声が頭に響いて、慌てて啓は周りを見回した。このバラックには、茉莉花も整も凛も来ないように言い含めてある。来るはずはない。
そして、果たして啓の目に映った者は……うつったものは、半透明のホログラムのように向こう側が透けて見え、頭部は後光が差し、背中に羽根の生えた人間とおぼしき得体のしれない何かだった。
声も出ないで、啓はただしばらく彼あるいは彼女を見ていた。景色が透けている。存在しているのか、いないのか。これはなんだ。
『啓』
「……なんだよ、おまえなにものだよ」
頭に響く声に、啓が返答した。すると、彼或いは彼女は、うっそりと微笑みを返す。
『やはり聞こえるのですね。受肉もしていない私の声が』
「じゅにくってなんだ。おまえ? なに? いきもの?」
『わたしはあなた専用のIDです。ああ、失礼、IDという言い方では分からないでしょう。私はあなた専任の天使です。受肉していない、天使としてあるがままの』
「天使⁉」
今度こそ、啓は飛び上がるような衝撃を受けた。
これが? 天使?
急いで鏡を見直す。天使は鏡に映っていない。また目線を向けると天使はそこにいる。
「…………」
しばらく、啓はことばが出なかったが、やっと出た言葉はありふれたものだった。
「おまえが幽霊じゃなくて天使っていうなら証拠みせてくれ」
『その前に、おまえではなく、私は『ルエル』です』
啓は、吸い込んだ息を無意識に深く吐き出した。落ち着け、おれ。

結論として、啓はこの天使「ルエル」の実在を認めた。否、まだ認めてはいない。この得体のしれない存在は確かに写真で見た天使とよく似ているが、天使とは写真にも写るし人間と同じように肉体を持っているのを知っている。このルエルは、半透明で触れないし、鏡にも写らない。肉体はないようなのだ。なのに啓には見える。この「ルエル」とはなにものか。短時間の間に、走馬灯が流れ直すくらいの勢いで啓は考えをめぐらせた。
天使。ひとりに一人つく、専任の天使。
こいつ……「ルエル」は、おれの専任の「天使」なのか? たしかに?
首を傾げて眉間にしわを寄せた啓に対し、ルエルは気軽に声を掛けてきた。いや、正確には頭の中に声を響かせた。
『啓、わたしは確実にあなたの天使です。わたしはあなたの運命と宿命の出力端末であり、あなたの疑問に答えるためにアカシックレコードにアクセスして預言、予知も含めて啓示を伝えることができます。あなたが生まれ落ちてから、ずっと共にそばにいました』
「ところでなんでちゃんと声でしゃべらないんだ? 頭の中に声が反響して気持ち悪い」
『それは、私が不可視の天使のままのために、『声』として啓とお話できません。あなたは、死に掛けるような体験をした人間のうち、息を吹き返すように魂のモードが切り替わったのです。わたしはそのあなたの変化を祝福します』
啓にとっては聞きたいことは山ほどある。
おまえは一体どこから現れたのか。そして、どうして半透明なのか。おまえは、他の人にも見えるか。エトセトラ、エトセトラ。
『わたしは、ずっとあなたの傍にいました。そして、わたしは啓以外の人間には見えないでしょう。半透明に見えていませんか? わたしは受肉はしていません。つまり顕現して理いるわけではないのです。私ではなく啓が変質したのです』
「なんか得体が知れないな、おまえ。天使の身体が透き通ってるなんて聞いたことない。ここにおとなしくいろよ、おれはもう自分の家に帰るからっていうかおれ以外の人間には見えないのならおまえただの幽霊だよ」
『移動するときは私もお供します』
「だから来るなって」
話しながらすっかり良くなった身体で荷造りをすると、そそくさとバラックの家を出て即座に粗末な扉を閉めた。あんな幽霊、はじめからここに居たに違いない。ただ啓が気づかなかったのだ。
(おれ、あんな幽霊と三日三晩もいたから髪が白くなったのかな)
そう思ってバラックの建つ隙間の小道を歩いていく。はぁ、無事離れたなと思って振り返る。
……『ルエル』は少し距離を置いてずっと啓の後をついてくる。
(うわ……)
周りを気にするが、周りを行き過ぎる人たちはまったくルエルには視線を寄越さない。認識できていないだろう。
(まじかよ、まじで幽霊か)
啓は(そうにちがいない)という結論を出した。
そういう類を撃退するような伝手はない。そもそも今のご時世、子どものおとぎ話のなかでしか幽霊という単語自体聞いたことがない。
啓は走り出して振り切ろうとした。全走力で走る、間もなく四人の共同バラックが見えた。
そのまま振り切るようにバラックへ入って急いでドアを閉め施錠した。
「えっ、誰⁉」
驚いたような茉莉花の声に啓が振り向く。
「! どうしたの、啓! その髪!」
これから干す洗濯物を抱えていたが取り落とすようにそこに籠をおくと、茉莉花は慌てて啓のもとへ走り寄った。
「髪が白くなっちゃうくらい、流感重かったの……? 行けなかったけど、そんなになるなら、わたしたち行けばよかったわね」
「いや、うん、流感流石に思ったより重かった、けどいまはそれどころじゃない、幽霊だよ!」
「はい?」
「だから幽霊! そいつとあの空きバラックで居たから俺の髪はきっと白くなったんだ」
「ええ……?」
茉莉花は困惑した表情だ。
「しかもその幽霊、自分は天使だなんて話すんだ。わけわっかんねぇよ」
「落ち着いて、啓」
「この家に入ってこないようにしないと」
「落ち着いて、啓!」
喝を入れるような茉莉花の大きな声が響いた。はっとして啓は茉莉花を見る。
「啓、こんな髪になるくらいだから、ひとときのせん妄になってるのかしら。きっと夢をみたのよ。起きても見えるならそれは幻覚ではなくて? 美味しいごはんを作るわ。沢山食べてたくさん寝て、体力回復すれば、髪も元通りになるわ」
「茉莉花、いや、そのって、あ!」
茉莉花は真摯な表情で啓を説き伏せようとしていたが、啓はその茉莉花の傍に立つ『ルエル』の存在に気付いて思わず大声が出た。
「ほら、茉莉花、そこにいるんだ。ルエルって天使? 幽霊? まぼろし? まぼろしなのか?」
『私は幻ではないですよ』
「何を言ってるの、啓。ここには私と啓しかいないわ」
「うわぁぁ……」
「何をしているの、二人とも」
そこに近所に言っていた凛が帰って来て、訝し気に啓と茉莉花に声を掛けた。
「凛!」
「一緒に出た整ならもう仕事探しに行っちゃったけど、茉莉花の声が外にまで聞こえたわ」
「だって、啓の髪が」
「うん。啓、一人で乗り切るの、すごく苦しい病気だったのね……」
静かで聡明な凛は、自分よち一つ上の啓の髪の色について話すときどこか苦しそうな顔をした。
「私がいたから、感染しないようにってあそこへ行ってくれたけど……引き止めればよかった」
「いや、うんそれは多少は当たってるんだけど、いまのおれの問題はそうじゃない」
「聞いて、凛。啓が天使か幽霊かわからない何かが見えて、うちにいるっていうの」
「なにそれ」
茉莉花はもう一度首を傾げた。
「凛、おれいま幽霊みえるみたいなんだけどさ、その幽霊が自分は天使だっていうんだ」
「? 私にも、茉莉花にも何も見えてないよ」
「そうなんだよ。おれだけ見える。透けてて、おれの天使だっていうやつが」
「……啓」
「そうそう、凛からも何か言ってあげて」
「啓は、啓の天使を見てるってことでいいんじゃない? 病気から回復して、啓の天使が啓だけに顕現したんでしょう。そしたら私たちに見えてなくても、それは啓の天使。啓だけに見える天使が、どんな力があるかは分からないけど、もしかしたら啓はバラックから抜け出せるかもしれないし、凛は啓を信じるよ」
「え……凛……おま、」
「啓がバラックで一人で病気と闘ってる間、わたしたちここで祈ってたの。啓のいのちをおすくいください、って。そして啓が元気になって、このバラックから出て行けるほど元気になって、しあわせになる人生を啓におあたえくださいって。だから」
凛は、真直ぐに啓を見た。
「啓を信じる。その天使は天使だよ、このバラックから出ていけるんだよ、きっと。啓は」
啓は、目を見開いて凛の言葉を聞いていた。
「わたしは信じないわよ、啓。それは啓が一時的に幻覚を見ているだけ、まだ少し混乱しているのよ。少しゆっくり暮らしましょう」
茉莉花はその話はもう終わりという風に、啓を椅子に促した。
「わたし洗濯物干して来たら、何か啓に食べさせるわ。凛、お手伝いして」
「うん」
茉莉花の後ろをついていく凛がもう一度だけ振り向いた。
「啓、啓のいうこと、凛はいつでも信じてるからね」
凛の言葉と、椅子に座り込んだ啓、そしてその後ろにはルエルがゆらと立っていた。

「なぁ……おまえ」
一人きりになって、恐る恐るもう一度啓はルエルへ話しかける。
『私はルエルですよ』
「わかった、ルエルさん、見えないけど見える天使については頭の悪いおれにはよく分からないんだ。もう帰っていいよ」
『帰るところはありませんよ。それにルエルでいいです。啓。』
「……ルエルって、ほんとに天使なのか?」
『天使ですね』
「じゃ、おれ専任の天使なら、おれに関して啓示とか預言とかできるのか?」
『できますね。ほかの顕現しているよりは多少詳しく話しましょう。今日、庶民層の近くまで行ってください。道案内します。人手が必要になっています。その手伝いをするとお金がはずみ、継続的な働き口にもつながります。滅多にないラッキーだなと周りはいうでしょう。ですがそれがあなたの明日の予定です』
「人手……? まぁいいや、今日の過ごし方次第ではルエルが天使の一種だってことは証明されるわけだ」
『そうですね』
「そうとなったら飯食お」

その日、午後一時ほどに啓は家を出た。凛も茉莉花も啓の健康を心配していたが、啓はすっかりぴんぴんしている。バラックの所せましと並んだ曲がりくねった細道を、ルエルは先導していった。いつも通りの道と一本ちがうが、向かう先は知っている。
「あれ、こっちって病院があるんじゃ……」
啓のような貧困層には支払えない医療費を払わねばならない「病院」。
病人がでて人手が必要になっている、といっても病院には人材は確保されている。
(ルエルやっぱり適当なこと言ったな)
そう思いながら病院へ近づくにつれ、いつもと違って病院が殺気立っているのがわかった。
「誰か、天使付きの人間と連絡を取れる伝手はないか! 治療のキャパを越えてる人数だ! 誰も啓示を受けていたものはいないのか。それともこれも啓示のうちの一つか⁉」
『近所で工場から爆発して、怪我人が沢山でてしまっています。これは今朝早くのことで、啓と話す前なので意図的に隠していたわけではないですよ』
「啓示をさぼったわけじゃないってことか。てゆうか天使から危機的な啓示なら勝手に教えてくれるもんじゃないのか」
『ここに居るのは、みな天使付きではない庶民ですね。天使は、基本一問一答式でしか答えられないのと、基本専任の人間にまつわる範囲でしか啓示は降りないので、誰も啓示を受けていなかったのでしょう』
「そんなことって……」
病院には二十人以上の怪我人が溢れている。怪我人の移動ひとつとっても人手が足りていないのは啓の目にも分かった。
『啓が手伝わなくても、この人たちはそれぞれの運命で生きています。でも、啓が手伝うことでこの人たちの役に立つことはできますよ。どうしますか』
「……人の不幸に付け込むようで嫌だけど、怪我している人の手伝いができるなら、するよ」
そう言うと、啓は病院の看護師のような指示を出している人に声を掛けた。
「ぼく、五体満足です。手伝えることがあるなら、人の移動くらいでもできますので、何か指示してもらえませんか」
「ああ! 助かる! 今はとにかく治療に人を割きたい。人の移動や案内とかを頼むよ」
「わかりました」
「軽傷者は二階へ案内して、歩けない者には手を貸してくれ。重症者で一階はもういっぱいなんだ」
「はい、わかりました」
その日、夜がとっぷりと暮れるまで啓は病院で手伝いをした。ほどけた包帯を巻く作業、脱脂綿を作る作業も頼まれて、久しぶりに忙しく半日を働き通した。
「啓君と言ったか? 今日は通りがかったときに声を掛けてくれて助かった。ひとときに患者が溢れたから、雑用をしてくれる人がいてくれて、ひとりでも治療に回る時間が増えたこと、ほんとうによかったと。ぼくたちにとってラッキーだった。ラッキーなぼくたちから啓君に提案したい。しばらくこの病院で雑用係として働かないか。給料は、きっと今の啓君の収入よりはずっといいだろう」
「いいんですか⁉」
「ああ、きっと今日助けられたひとたちも啓君が続けて働いてくれたら嬉しいと思う」
「ありがとうございます!」
「賃金は日払いがいいだろう? いやすまん、きっと君は庶民層の町のひとじゃないと思ったからなんだが、気を悪くさせたらすまない」
言われながら渡されたのは、金貨五枚と銀貨三枚、銅貨八枚だった。金貨なんて啓は初めて見た。
「わたしは杉原という。これからは君の上司だ。ずっととはいかないだろうがしばらくの間だけでもよろしく」
「よろしく」
杉原と握手した手が温かかった。啓の心も温まるような気がした。

「ただいまー」
「おそーい! どうしたんだよ、心配したんだぞ、啓。いつものところにも現れないし」
「整、ごめん。今日ちょっと違うところ行って、人助けの手伝いしてきた」
「人助けの手伝い?」
「ほらー! ご飯、啓の分だけとっておいたのよ、食べて食べて」
茉莉花が啓と整の話に割って入る。凛がにこにこと座ってその三人を見守る風景はいつものことだ。
「うん、あの、庶民町のほうに病院あるだろう? あそこで今日は人が沢山怪我して運ばれてきてたんだ。だから、人の移動するとか、案内するとか、そういう仕事もらってやってきた。一時的だけどどしばらくの間雇ってくれるっていうから、本当にありがたいよ。おれが病み上がりだって話したら、栄養剤くれた。安くて消費期限きれてるから少しだけどって。みんなで飲もう」
「なに、栄養剤? そんなの高価で手には入らないよ。飲む飲む」
「で、いくら稼げたんだ。銀貨三枚くらいは行くのか、あんなすごいところの手伝いだったら弾んでくれてもいいだろ」
「うん、銀貨は三枚。あと銅貨が八枚」
「え、それは弾んでもらったな」
「そして金貨五枚」
「金貨⁉」
三人が目を丸くして啓の周りに集まる。
「すごーい、本物はじめてみた」
「弾んだというレベルじゃないわね」
「啓、明日おれも行ってみていいか。また人手が足りないかもしれないからおれも行ってみたい」
茉莉花も凛も整も興奮した声を上げる中、啓は少し複雑な気持ちで笑っていた。

翌日、啓は整を連れて朝から病院へ行った。ルエルに相談してみたら整も連れて行っていいと啓示をもらったので、啓はちょっと安心と自信をもって整を連れて行った。
「杉原さん、おはようございます」
「やあ啓うん。お連れの人は啓君の友達かい?」
「はいそうです。まだ仕事あったら整にも分けてほしいと思って」
「ああ、整君の分の雑用もあるよ。二人の後にもう一人って言われると困るけど、今なら二人いると丁度いいくらいだ。整君、よろしく、杉原です」
「整です、よろしくお願いします」
「じゃあ二人はぼくの後ろをついてきて」
「はい」
病院での仕事はベッドからトイレに行く人の手伝いをしたり、患者の話し相手になったりしていたかと思えば、倉庫の整理をしたり、使用済みシーツを剥がしたりしていた。洗った清潔な包帯を巻いたり、消毒綿を作ったりもしているうちに、あっという間に一日が過ぎた。
「今日は半日じゃなくて一日だから」
と二人にそれぞれ渡されたのは金貨八枚、銀貨八枚だ。啓もそうだが、整も今まで手にしたことのないような大金を一日で得て、頬が興奮で紅潮している。
「すごいな、啓。凛が『啓にだけ見える天使ができたんだよ』って言ってたけど、もしかしてそのせいなのか?」
「茉莉花は信じてなかったけど、今日の稼ぎで少しは信じてくれるかな」
「お前自身も信じてなかったって凛が言ってたぞ」
「ははは……」
帰り道にこんな雑談をしながら、二人はほくほくとバラックへ帰宅した。
「おかえり」
「おかえりなさい、二人とも」
茉莉花と凛が出迎えてくれる。茉莉花は家事全般の担当、凛は近所の手伝いで日銭を稼いだり内職をしたりして日がな過ごしている。
「すごいよ! 啓の口利きでおれも病院で働けることになったんだ。ずっとじゃないとは言われたけど、期間限定の仕事としても超破格だ。啓すごいな、でかした」
「ありがとう整。なんか、変な気持ちだな」
二人の今日の稼ぎを合わせて十六枚の金貨はそのまま貯金にすることにした。いつまでも働けないのなら堅実に生きたほうがいい。
その部屋の片隅にはそっとルエルが立っている。
「ねぇ、啓の天使の話を聞かせて」
凛が言い出すと、茉莉花も整も頷いた。
「この部屋に、その天使はいるの? いろいろ啓を通して質問することはできるの?」
「ルエル、そのあたりはどうなんだ」
「ルエルっていうの? 天使の名前?」
『私は啓の天使なので、啓に関わるすべての事柄については啓に話すことができますね。
直接に関わらなくて間接的にであっても、ある程度は話すことができるでしょうね』
「ルエルが返事くれた。おれが関わってることに限るけど、それなら間接的でもある程度啓示をくれるって言ってる」
「わー! わたしたちにも天使の加護がいただけるのね!」
茉莉花と凛は手を取り合って喜んでいる。
「その天使はどうしておれたちには見えないんだ? 啓。おれたちには姿や声は見えない」
啓は、この間の病で自分が死にかかったために自分自身が変質して、自分の天使を見られるようなったらしいと説明をした。
「そうか……天使がおまえだけに顕現してるとか、そういうのならおれらも見れたりするのかなと思ったのに」
『私には、三人それぞれに付いている天使の存在も分かっていますが、これは啓に関係ないことなのでこれ以上は話せません。でも、やりとりをできないだけで、あなた方一人ひとりには天使がついています』
整が啓伝てにそれを聞いて口を尖らせた。
「その、やりとりをできるってことが大事なんだよなぁ」
「そうそう、知りたいことについて間違いない預言を貰えることで、未来が変わるものね」
そんなことを三人は熱心に話し合っている。
啓は少し複雑だった。ずっと自分にも周りにも天使はいなかったから、自分の身体があらゆるものの資本だった。それは運も含めてではあるのだが……啓は思っている。
おれに見えるのなら、茉莉花や凛や整の天使も見えるようになって、それぞれと話ができるようになればいいのに。

啓は少しずつルエルとやりとりするようになった。
頭の中の声で話すので周りには聞こえないが、雑談めいた感覚でコミュニケーションを図る。
啓だけでなく整も病院で働くことが決まったとき、まだ啓は安堵半分不安半分だった。
しかし、啓のそんな気持ちとはお構いなく整は身体能力があり手先も器用なので、介助補佐中心にお願いしたいと主に二階を担当することになった。話の最中、啓がちらりとルエルを見ると、ルエルは何も啓に言わない代わり、小さく頷いた。それを見て、啓はいったん何も言わないで自分の担当を頑張ることに決めた。整が二階担当になったのと対照的に、啓はいったん事務室や使われていない倉庫に保管されていた古い大量の書類をシュレッダーする仕事と、一階の患者の様子を見てほしいとも言われ、その仕事をすることになった。啓は一時間のうち、シュレッターを四十五分ほど行うと残り十五分を患者の雑談や小さな用事の用足し手伝いなどをすることにした。一階と二階を交互に、一日三回ずつ見回りする。
啓はルエルに聴きながら自分では手に負えないくらい具合の悪い人はすぐに杉原に伝えたり、患者の痛みの訴えや雑談に付き合うことで日がな過ごした。一方で、整も介助者として教えられると覚えも早くよくやっているように啓には見える。結果、整は整の能力で給料が弾み、啓は啓の方法で給料が弾んだ。十日~せいぜい二週間くらいの仕事しかないけれど、苦しくなったらまたおいで、と杉原には言ってもらった。
一方で、茉莉花や凛も啓を捕まえた。
「啓、整の仕事だけじゃなくて、私たちの仕事の悩みについても相談に乗ってよ」
「茉莉花……相談に乗るのはいいけど、凛までなのが意外だな」
「わたしだって、できたらご近所のお手伝いだけじゃなくて、少しでもお賃金を貰いたいわ。みんなの生活費にそれも入ったら、全体としてみんなの生活が楽になるでしょう?」
茉莉花は、一日中家事をしていてそれが担当のようになっているが、繕いものが上手で裁縫が得意だ。
「どうしたら、私の得意なことが少しでも仕事に繫がるかしら」という相談をしてきた。凛は凛で小柄で幼いほうなので、仕事があまりなかった。
「近所の誰かの家事の手伝いをして僅かな日銭を貰ってくるだけの一日より、いい内職ってある? どうしたらそういう仕事を見つけられる?」と真剣な顔で質問してくる。
「それって、ルエルからの啓示を求めるってことか?」
少し困惑して啓が返した。今まで二人はこんなこと言わなかったのになぁ。
一方で整は二人の味方なのか、「いーじゃん、啓」と啓に向かって言った。
「おれ、二人とも前から少しでも稼げたらいいなって悩むって言うか、ぼやいてるのは知ってる。おれたち二人が仕事探してくる担当だけど、二人も少しでも仕事したいんじゃないか? おれたちだって、手伝えるときは家事を手伝いたいなって思うのと同じ感覚じゃないかな。それって特別な気持ちじゃないだろ、啓」
思いもかけない整の言葉に、啓は「うっ」と言葉を飲み込んだ。
「そ、そうなのか……? 二人とも……」
「うん。思い切って言ってみた。啓にはあんまりこぼしたことなかったかもしれないね。別に啓の天使の啓示が欲しいってことではないの。でも、啓が相談に乗ってくれるとしたら、打ち明けてみたいなぁって思ったの……」
「そっか……おれが知らなかっただけだったんだな……」
啓はしばらく天井を見上げる。
「あ……啓、そんなに思い詰めなくてもいいんだけど、気持ち、正直に言っておきたかっただけだから……」
「うん、分かってる。そのうえで」
啓は二人の顔をかわるがわる見た。
「おれの今の伝手って、病院の杉原さんと患者さんたちくらいしか、庶民層に繫がる景気のいい仕事を訊けるひとっていないな。でも明日整と訊いてみたいと思った。どう思う整」
「それいいんじゃないか? 啓が考え付いたのか?」
「考えられるなら自分の頭で考えたいだろ」
「まぁそりゃそうだ」
「明日、行ってみたら訊いてみよう」
「ああ」
果たして、翌日整と啓は病院で杉原と口の利ける程度に敬称の患者に仕事がないか訊いてみた結果、仕事が見つかった。
ひとつは病院で足りないおむつ入れを縫う仕事、もう一つは入院している人が退院するまでの間の補填で入ってもらう高級品の箱のラベル貼りだ。
問題はどっちも十日ほどで終わってしまう仕事、ということだった。
短期の仕事だからすぐに人手が必要なのも分かるが、四人が四人ともあと十日くらいで終わってしまう仕事ばかりでいいのだろうか。
(ルエル、……これでいいのか?)
自信がなくなって、懐疑の気持ちで聞いてみたが、ルエルはなぜか何も言わない。
そのとき、整が言った。
「短い期間だけの仕事ばっかりしてきただろ、今更仕事の選り好みすることない、啓。仕事がないよりあったほうがいい。茉莉花と凛には仕事の話を伝えてやる気があれば明日から来てもらってさ、やろうぜ四人で。仕事」
啓ははっとした。それもそうだった。天使がいることで無意識的に「継続的に稼ぎのいい仕事を安定してできないか」と自らおもねっていたことに気付いた。ルエルに訊くまででもないことだ、と思ったそのときだ。
(それでいいでしょう)
ルエルがそれだけ言った。
啓は帰宅したら茉莉花と凛に話をすることを決めた。

四人の生活は劇的に改善していった。茉莉花は家事の中で得意だったお裁縫の仕事を得た。凛は近所の手伝いから内職へと内容が代わり、賃金が大きくアップした。
啓と整は病院で働き、毎日大きな金額を日雇いで手に入れている。
面白くないのはその周りに住んでいるバラックの住人たちだ。
「あいつら、最近随分羽振りが良くないか?」
「大方、盗みでもやってるんじゃないの」
「盗みをやってるならまだしも、人殺しとかしてないだろうな」
近所同士でひそひそ話をしていて、四人の誰かがバラックから出てくるとささっと隠れる。あるいはこれみよがしに、盗んだ金で贅沢するやつらもこの辺にはいるからよ、と言い出す輩もいた。
「最近、なんとなく住みにくくなってきたな……」
「噂立てられてるみたいなの、ここの家は盗みや殺しをしているって」
「何言ってるんだよ! おれたちはちゃんと働いて対価を得ているだけだろ!」
「それが、啓示ももらってないのにいい仕事ばっかりついてるって」
「――――……」
整も啓も答えに窮した。今は貧困層から抜けられるかもしれない瀬戸際だった。
庶民層に四人で暮らしていくことも夢ではない。
そんなときに事件は起きた。

「あ―腹減ったなー。はやく茉莉花の弁当手に入れなくちゃ」
啓と整は予定通り朝から病院に来ていたが、朝ばたばたしていて茉莉花の弁当を持ってくるのを忘れてきてしまった。二人で取りに帰らなくてもいいか、と整だけがバラックへ戻ってきていた。
扉を開けようとして、整が異変に気付いた。扉の鍵が壊されている。
(えっ……空き巣、か⁉)
稼ぎは半分を個々人が管理し、半分は家の秘密の場所に置いてある。だから空き巣に入られても簡単に見つかるはずはないが、問題は茉莉花や凛だ。
「茉莉花! 凛! いるか?」
ばたんと扉を開けると、大声を家の中へ向かって投げた。
果たして、茉莉花と凛の代わりに、一人の覆面の男が家の中の引き出しを漁っているところで、振り向いて整の姿にぎょっと目を見開いたところだった。
「何してるんだよ! この、泥棒!」
「茉莉花と、凛を、どうしたんだよ! くそ! この野郎!」
「お前たちこそ、羽振りよくしてんじゃねぇよ! コソ泥野郎は、お前らだろ!」
男の声には聞き覚えがあった。
「お前、もしかして」
「くそ! 退け」
男が整に飛び掛かって殴りかかってきたので、整も応戦する。
つかみ合いになって、男の覆面を掴んだ整が覆面を引き剥がす。
「おまえ、やっぱり近所の……‼」
整に顔を見られた男は、今度は整の顔を殴り倒すと、倒れた整をバラックから引きずり出して、更に蹴りを入れようとする。整も殴り蹴られながらなんとか立ち上がろうとした、そのときだ。
「整! 大丈夫か!」
啓が二人の間に飛び込んで来た。
「お前、いつも凛が手伝いに行ってる家の親父じゃないか、整に何するんだ」
「むかつくんだよおまえら、何羽振りよくしてるんだ、盗みで手に入れた金ならおれが貰っても文句ねぇだろう」
「何言ってるんだ……⁉ これはおれたちが働いて得た金だ! 盗みなんかじゃない!」
二対一になって不利になってきたところで、「空き巣だ! だれか警察呼んでくれ!」と整が叫ぶ。
「くそ、おまえら、黙れ」
「おう、何やってるんだ? 喧嘩だ喧嘩」
「喧嘩じゃない、こいつか空き巣に入ってきたんだ」
その場は騒然となり、啓と整の二人がかりでも大人一人相手にするのには苦労した。何度か腹や顏を殴られ、また殴り返すうちに警察がやってきた。
当時に、近所に行ってきた茉莉花や凛も騒ぎを聞きつけて戻ってきた。
「どうしたの⁉ 啓、整! やめて!」
「お前たち何やってるんだ」
「退け退け、やめろよ小競り合いは」
二人組で来た警察が大人と啓たちを引き剥がす。
「おまえたちも来い」
「おれたちは被害者だよ! 放せよ、こいつがおれたちの家に空き巣で入ってきたんだ!」
「何か盗られたのか?」
「こんなぼろいバラックに何もあるわけねぇよ!」
「じゃあなんで入ったんだよ!」
「まあまぁとりあえず、黙れ。三人とも」
警察が介入したが、何も盗られていなかったので、相手の男はそのまま「もうやるなよ」と放免された。啓と整は抗議したが「お前たちだって相手を殴ってるだろう」とたしなめられ、その場はだたの喧嘩・小競り合いの仲裁のような形でうやむやに終わった。
「整……! 啓……!」
「ごめん、もっとはやくおれが整の危機に気付いていたらよかったのに」
「ルエルから何か聞いたのか?」
「うん、整が出て行ってすぐ、ルエルが『整と、啓の財産が危険に晒されそうです。追いかけることが啓に必要かと思います。仕事を断わって今すぐ行った方がいいです』って言ったから、杉原さんを探し出して午後は休みにしてほしいって話してから走ってきた。でもおれがもっと早く来たらよかった。すまん……」
「いいよ、啓。おれたちがちょっとぼこぼこになったって、啓もぼこぼこなんだからさ」
あたふたと二人の怪我を冷やしたり手当したりする茉莉花と凛に「ありがとう、ごめん」と言いながらも、ぼろぼろになった二人は夜まで横になって過ごした。

「出て行きましょう。このスラムから」
夜、四人が集まった場所で茉莉花が何でもないことのように声に出した。
「出て行きましょう。丁度四人の仕事がそろそろ終わるでしょう。誰にも迷惑を掛けないで出て行けるわ、今なら。どう思う、啓。啓に訊いてしまって悪いけど、啓がこの四人の家族の大黒柱でもあるから」
「茉莉花、ここはもともと茉莉花が両親と暮らしていたバラックだ。なのにここを出て行くなんて」
茉莉花の気持ちを考えると、簡単にこのバラックを引き払うなんてことはできない。
「だからこそ私が言うの。ここに縛られていたらいけないわ」
皆が啓の顏を見る。啓に『ルエルに訊いてほしい』という気持ちがあることは、三人の視線から明らかだった。
「……ルエル、教えてほしい。茉莉花の決断におれは乗りたい。みんなが悪く言われるのは嫌だし、空き巣にまた入って誰かが危険に晒されるのもいやだ。出て行くのも屈するみたいでいやだけど、貧困にあえぐスラムの全員を助ける術はおれにはない。ルエルにはあるか?」
『今のルエルには全員を救うための答えはありません。でも茉莉花の意見に賛成する啓と啓たちには祝福があるでしょう。たとえ一時は困難があっても。どうしますか? 膠着したこのスラムになお留まりますか?』
「いや、茉莉花の意見で行こう」
「私も茉莉花の案に賛成」
「じゃあ、決まりだな」
「行こう」
「新天地へ」
次の日の朝、啓と整は病院に行って、今日限りで辞めることを杉原に伝えた。
「そうか……二人の怪我の具合を見るにつけ、何日か療養したら行くんだろうな……痛い思いをして、なおきみたちが旅立つ理由なんてないと思うけれど、きみたちが決断したなら仕方ない。またこの街に戻ってくるようなことがあれば、また訪ねてきなさい。待っているからね」
「ありがとうございます……!」
杉原は、いくつかの消毒薬や軟膏を「これはわたしの私物で持ってるものだから」と渡してくれた。啓と整は杉原に頭を下げて病院から帰って来た。
数日のうちに、四人は荷造りに専念した。そのまま、三日目の夜、四人でバラックを後にした。
夜が白んで朝になるころ、四人は街道を歩いていた。
「あー、別の町に行くのかあ。解放感半端ないなぁ」
「ルエルが黙って南を指すから、南へ向かうこの街道を選んだだけだけど、いい幸先になるといいな」
「ほんとね!」
振り返ると、昨日までいた町が遠くの蜃気楼のように見えた。正確にはバラックなど見ることは叶わず、その中心血である高層ビル群の蜃気楼なのだが。
感慨深くなる気持ちを抑えて、四人は生まれ育った町から離れる。
少し前までははしゃいでいたが、だんだん無口になった。
地図なども買っていない急な野宿旅だ。
危険極まりないかもしれないが、そこはルエルの存在がある。
しばらく四人は黙々と歩き続けた。
放浪の旅の始まりだった。

天使付きである衛(まもる)は、高校の天使学と天使教育の宿題のために、専任天使のセルエルと問題に取り組んでいた。最新の天使付きはこの鍵の国最大の都市=此処はたしか九十名。この鍵の国で三百ジャスト。全世界では九百四十九名。……だった気がするけど、時々誰かが死に、誰かが生まれる。
「セルエル、レポートのために必要なんだけど、今日の最新の天使付きの人数は何人なんだ? あ、ええと。この街の天使付き、国全体の天使付き、世界の天使付きの人数を教えてくれ。メモるから」
「この街の天使付きは九十名です。鍵の国全体では、顕現していない天使付きが一人増え、一人が死にました。顕現している天使付きは二百九十九名、顕現していない天使付きが一名、よって天使付きは三百名この国にはいます。全世界の増減も、」
「今、なんかなんとなく訊いた質問に、よくわからない答えが入ってたんだが?」
「衛、原則的に天使付きは顕現している天使付きですが、一人顕現していない天使付きが現れました。これは一種の奇跡かもしれません。本人だけが本人の天使を見られる天使付きのことです」
「は? え? 奇跡? おれ、今まで奇跡なんて初めて聞いたけど。本当なのか? セルエル」
「私はいつも真実を衛に届けていますよ」
「本人にしか見えない天使付き? それって誰がそいつを天使付きだと見分けるんだ?」
「天使付きかどうかは天使同士で理解できます」
「天使付きで理解するって、目には見えないけど天使付きなら天使は判別できるのか?」
「できますね」
「名前とか、居場所とか、何をやってるとか、年齢とかは……分かるわけないか」
「そうですね、天使は知っていますが、それを人間にお教えすることは叶いません」
衛の専任天使セルエルは、衛の問いひとつひとつに律儀に答えている。
「何が違うんだ? 見え方だけか?」
「私たち顕現している天使ではなくエーテル体のため啓示の制約が少ないです」
「啓示の制約が少ないってどういうことだ?」
「声による一問一答的な啓示ではなく、ある程度天使が自由な発言……啓示が可能です」
「えっ」
衛は、思わず机から立ち上がった。
振り返ってセルエルのほうで慌ただしく歩み寄る。
「それって、自分が天使付きなのを人に気付かれないで、自由に啓示を受けられるってことじゃないのか⁉」
「落ち着いてください、衛。その解釈には悪意がありませんか。天使は悪意や嫉妬、詮索に対して正確な啓示を言いません。私は衛のこころが曇ってほしくはないです。もっと中立的に、思考を変えてほしいです。」
衛は真ん中分けの髪をかき分けると、「あ~~~~~……」と頭を掻いた。
「……そうだな、天使付きとして、今のはよくなかった。嫉妬が入ってた。そういう利用の仕方を、顕現してない天使付きの本人はしていないってことでもあるな」
「はい、そうですね」
「……いや、赤ん坊か、……いや、赤ん坊か? 奇跡なんだろ? え、……わからないな、それは分からないことだらけだ、宿題どころじゃないぞ」
「衛、落ち着いて。宿題を終わらせたら、ゆっくり話せます。まずはレポートを」
衛は天使付きの人間の中でも優秀な成績を誇っていて、両親はそれもまた誇らしく思っている。ちなみに衛の両親も天使付きだ。衛の両親の天使から、衛の天使セルエルは生まれた。生粋の天使付き、と言われる人種だ。
「分かった……「奇跡」だなんて、おれの知る情報として手に余るよ。あとで陽菜といずるに連絡する。陽菜はここだけど、いずるは違う都市だからそっちにいないかも知りたい。大人の天使付きには……問題がおおきくなりそうだから、自然と気が付かれるまでそっとしておく」
「承知しております」
「ありがとう、セルエル」
こうして、啓の存在は、偶然の形をとって天使付きの衛に知られることとなった。

野宿はバラック暮らしをしていた四人には若干慣れない暮らしなのだと気が付いた。
野宿みたいな暮らしと大差ないと思っていたが、屋根があり、収納があり、台所があり、道具も多くあるダイニングやベッドの寝心地と、本当の野宿とは相当勝手が違うのだ。
火起こしにも肉類の材料の調達にも苦労したので、今夜は一部持ってきた保存食を食べた。
啓に訊いてみると、ルエルはこれを食えって、とたくさんの葡萄を摘んできた。
薄手の毛布に各々包まりながら、荷物を枕代わりにして眠る。夜の番は啓が名乗り出た。
「危ないことがありそうならルエルに声かけてくれって頼んだ」
啓がそう言ったので、皆安心してすやすやと眠っている。
「ルエル」
焚火に枯れ枝を投げ込みながら、啓が聞いた。
「スラムのみんなはどうしてあんな風に言ったんだろうか。おれらが働いてたのは分かってるはずなのにな」
『聞きたいですか?』
「……聞きたくない、なんとなくわかってる。おれらの生活が明るくなってくのがあいつらには面白くなかったんだ」
『そうですね』
「だから肯定すんなって――そういや、ずっと気になってたんだけど、天使をときどきIDって言いかえるときあるよな? IDってなんだ? 天使は天使じゃないのか?」
『IDは私たちにとっては識別番号の意味があります。いわゆるIDナンバー。けれど、他にも幾つかの意味を孕んでいます。一つには『知性ある設計者』のIDナンバーという誇りです。そうですね、先ほど話した話より、もっと前の時代の話をしましょう』
「ルエル、なんでも知ってるんだな」
『わたしたちは『知性(インテリ)ある(ジェント)設計者(デザイン)』の数ある各端末にすぎませんよ』
「『知性ある設計者』って、なんだ? 神さまなのか?」
『「知性ある設計者』とは、ID本体のことを言いますが、神……とは少し違うでしょうね……神は全知であり全能でありながら、もっと深淵でありもっと普遍で、IDはその片鱗でしかありません』
「……何言われているかわからん」
『分からなくていいですよ』
分からないなりに啓の分かったことがひとつある。
遠い昔には、この世界には確かに天使がいない世界だった。その世界を人間は生きて来た、ということだ。
『啓、今夜はうたた寝しても大丈夫です。少し寝ましょう。すぐ起きますし、何事もありません。これは私から自発的に言う数少ない啓示です。啓は眠るといいでしょう』
「うん……ちょっと眠いから寝るよ。何も起こらないなら、それを信じる」
啓は薄手の毛布を体に巻き付け、荷物の上に頭を乗せて横になった。
火が暖かい。消えないうちに目覚められますように。そう祈りながら、啓は瞼を閉じた。

「――っているの、起きなさい、啓。起きて」
はっとして啓は粗末なベッドから飛び起きた。今だれかと話してた気がするんだけど誰戸だっけ。
「啓、いつまで寝てるんだ。今すぐ起きて身支度をしなさい。父さんと母さんとで天使付きの方のところへ行ってくるから、今日は一日家でおとなしく家事をやっているように」
そうだ、ぼくは昨日九歳になった。父さんと母さんは、ぼくがこれから「なにができる人間になるか」を知りたくて天使付きの人から何か教えてもらえないか聞きに行くという。
「啓が天使付きに生まれてくれたらよかったのにって母さん思うのよ。生活も楽になるし、啓も幸せになるし……けど、そうじゃなかったから、啓についての神託があるかどうか、天使付きの人のところに行って訊ねてもらってこなくては」
いそいそと外出していく父母は、大抵夜になる前にぐったりとなって帰ってくるのだ。
「なんで天使付きのひとは、それは答えられません、とか、多いんだろうね。私たちは悪意で話しているわけでないだろう。ただ、啓がどんなところに秀でていて、どんなことをさせたら一番になるかが知りたいのに。一番にさせたら啓も幸せだろう。ライバルになる子の名前とかで飯が食えるわけではないのだし、そのくらい教えてくれてもいいのに……」
夜遅くまで、食卓に父母二人が話し合ったり時には声を荒げたりしながら話し合っているのを啓はドアの翳から見ていた。自分のために天使付きのところへ行くが、質問があまり天使の気に召さなかったのか、回答が少なかったのだという。それがどういうことを意味するのか、啓も、父母もよくわかっていない。天使のことをよく研究した天使学や天使研究学、天使教育学などは、全て天使付きのものが履修する特別な修練勉学コースだ。啓はそういう教育の事情などは知る由もなかったが、天使付きでは知ることもない知識を知っていないと一番にはなれないのではないか、と漠然と考えていた。
啓はドアを閉めると、隣の自室へ入った。部屋の中には昨日両親には内緒で拾った仔猫がいる。毛皮が何色かわからない色をしている変な猫だなと思ったら、こういう毛並は錆猫っていうんだ、と通りすがりの人が言うので、啓は子猫を「サビ」と名付けた。
サビは入ってきた啓の所へ来て足の間を八の字を描くようにするりするりとすり寄る。ほとんど鳴かない。啓は台所から小皿にくすねてきた牛乳を足元に置いた。ぺろぺろと牛乳を舐める様子をみるにつけ、いつまでサビと一緒に居られるかなぁと思う。
サビは、ときどき啓の顔を見ていたが、舐め終わるとにゃーんと小さな声で鳴いてまた啓にすり寄る。
「どうしたんだ、サビ。寂しいのか。サビなんて名前つけちゃったから寂しがり屋になっちゃったな。サビ」
サビはといえば、なおなおと小さな声を啓に投げかけつつ、一生懸命啓の名前を舐めたり、ごろごろ喉を鳴らしながら頬を擦り寄せたりする。
(あ、そうか。サビが寂しいんじゃなくて、おれが寂しいからサビが慰めてくれてるのか)
啓はそう気づくと、今まで無意識に溜めていた涙が、うっと込み上げてくる気がした。
啓の家は庶民層の崖っぷちをなんとか暮らしているか、天使付きの親類ももう高齢で大病が長い。寿命はあと一年未満という啓示は出ている人で、今後どうするのか庶民の親戚中が走り回っているようだった。啓には誕生日に拾って来た「サビ」が全てだったが。
「あんなに祈ったのに、啓が天使付きじゃないなんて」
両親の言葉はずっと耳に残っている。おれだって天使付きで生まれたかった。世界はうまくいかない。いつだって不公平にできている。どうしておれの家が。
そういえば、サビはどうなっただろう。サビ、すごく大事にしてたのに、一週間で両親に見つかってどっかに持っていかれてしまった。サビ。初めての友達。サビ、初めて守ろうと思ったのに。愛する対象をしてぼくはサビを選んだしサビも僕を選んでくれた。なのにぼくはサビを間もなく手放してしまって……あれから……サビは……生きていられただろうか……。
啓の家は天使付きの親類が死んで間もなく一家離散になった。ばらばらになって最後にひとりきり今のスラムに行き着いた。茉莉花十一歳、整十歳のとき、そこに啓も加わった。その後凛が加わり今に至る。

(おれの家は、ばらばらになってお互い音信不通になってしまった。たぶん、父も母も死んでると思う。生きてるのかな。でも天使付きになったおれをよろこぶとも思えない。だったら、探しちゃいけない。今のおれの家族は、茉莉花と整と凛だから)

暖かい。心が温かい、というか顏が熱いと思って目を開けると、焚火の火が燃え盛りすぎていた。
「わ、わ、わ」
慌てて焚火の様子を見る。大丈夫、今燃え盛って朝には灰になっているケースは避けられそうだ。
(昔の夢を見たな……)
ルエルからはるかな昔話を聞いたからなのだろうか。自分の昔のことも思い出してしまった。両親から天使付きに生まれなかったことについて恨み言を言われながら育て上げられた。なんとか暮らせていたけれど……均衡が保たれなくなった一瞬で生活は瓦解した。
溜息をついて火の調節をする。目の前のことに集中したかった。ルエルは知ってか知らずか、近くの樹の翳に留まったまま近づいてこないので啓は少し安堵した。
(天使は何でも知っているっていうけど、言いたくないこともあるもんな)
周りの三人の様子を見ているが、三人ともぐっすり眠っているようだった。
夜は白みかけてきていて、啓の今夜の見張り番ももうすぐ終わるだろう。

「顕現しないのに啓示ができる天使? そんな矛盾が起きるわけがないだろう」
天使付きの衛とタブレット端末で話しているのはいずるだ。いずるは衛と同じ十八歳で、いずると衛は違う都市に暮らしている。いずるも昔は衛と同じ都市に暮らしていたので、離れ離れとは言え幼馴染の縁で今も付き合いがある。二人はAIであるタブレット端末で通話していた。正確には十六歳で衛と同じ都市に暮らしている陽菜も通話に参加していて三人だが。
「いや、本当だよ。お互い天使に確認してみるといい。セルエルが言ったことだ」
「わかったわ、ちょっと通話はこのままにしてて。今私の方からも幾つか質問してみる」
「ぼくもだ」
「ああ、陽菜、いずる」
じゃあ十分後に通話再開ね、と三人は示し合わせて一旦通話をミュートにした。
「セルエル、何度も訊くが、顕現してないけど啓示を行う天使がいるんだよな」
「ええ、受肉してないので肉体を持っていません。エーテル体のままですが、その専任天使をみられるようになった人物がひとりいます」
「それってどんなバグで起こり得るんだ? 何が起きればそんなことが起きる? その世界のバグみたいなものは直るのか? 奇跡っていうけど、奇跡は神の御業としか聞いたことがない」
「バグ、ではありません。滅多にはありませんが、わたしたちの大元である本体……『知性ある設計者=ID』の全体の変革、更新がときどきあります。ここからは引用として「奇跡」を説明します。前兆として、何かしらの世界設計上のバグ、物理法則等を無視しているとしか思われない矛盾を孕んだ事象が起きますが、それを我々天使自身は「奇跡」と呼んでいます。もともとは「奇跡」とは、そういった世界の法則で解明し得ない不可解でありながら解決を見せる神の御業をいいました。知性ある設計者は、その「奇跡」も含めたうえでのIDです。更新を見せる前兆に、今まで有り得なかったことが起きることはこれまでにも何度かありました。顕現する天使を生んだときのように。引用を終わります」
「そんなことがおれたちが生きているうちにあるなんて、なぁ……『知性ある設計者』の更新、だなんて。このタブレット端末の更新と同じように言うけど、そういうこととはまた違うんだろ。
「違います」
衛の質問に、セルエルは簡潔に答えた。
「どう違うんだ……?」
「物理法則から変わる可能性や、大きな地殻変動、天変地異、あまねく世界のあらゆることに、どんなことが起きてもおかしくありません」
「うーん……」
頭を抱えてしまった衛の回線で、一つミュートが外れた。陽菜だ。
「衛、衛、私のサナエルに訊いたわ。ちょっと興奮してる。これってもう「奇跡」レベルのことだってサナエルが言ってるわ。奇跡! 今のこの世界で「奇跡」なんてことが起きるのね。わたしたちの目には見えない奇跡だけど、天使たちは知覚できるみたいだから判別はできるわ」
衛もミュートを外す。
「だろ? 陽菜、だから本当なんだって」
「わたし、この人物と会ってみたい。この国には居るみたいだし、いまどこにいるのかしら。楽しみだわ。わたし、会えるか会えないか教えてほしいって願い出てみたら、サナエルからの啓示は「会える」なのよ! その<見えない天使付きの人間>と会えるの! これで興奮するなってほうが無理じゃない?」
「会ってみる!? なんて啓示を貰ってるんだ、陽菜。」
「ねぇ、衛、いずる、二人とも<見えない天使付きの人間>と会えるかどうか、話せるかどうか啓示を頂いてみて! このニュースは今のところどこにも流れてないから、私たちが天使付きの中で最速で気付いたのかもしれないわ。だったら、初めに<見えない天使付きの人間>と会う権利やそのためのルートを開拓する時間や余裕があるんじゃなくて?」
最後のミュートが外れて、少し低い男声が割り込んできた。
「衛、これってちょっとすごいことなんじゃないか? ぼくも啓示聞いてみた」
「いずるまで」
「ユリエル、ぼく――いずるは<見えない天使付きの人間>と会う運命があるだろうか、会って話したり、交流したりすることを彼あるいは彼女と、していくようになるか」
『はい』
「わ~~~~~! ぼくもだよ!陽菜、もしかしたらぼくと一緒かもしれない!」
「……なぁ、セルエル、おれもこいつらと一緒に、あるいはひとりで会うとかあるか?」
「あります」
「……あるのか……」
がっくし、と肩を落とす衛と、ガッツポーズをするいずると、頬を紅潮させる陽菜。
三者三様に心の声が身体表現に出る。
この三人は、ひとところに住んでいるわけでもないのに、全員「会う」って啓示だ。いっぺんにでも、ばらばらにでも、啓示として会うことは決まっている。
「……今、あいつたちは何処にいるんだろう?」
『正確な場所をお答えすることはできません』
「そうだよな、個人情報に当たるし」
「でも三人は三人とも会えるのね。三人がその人と会える日と場所を教えて。それと持っていくべきものや装備」
『いずると私ユリエルは、今から三日後この『命名の街』にて初めて目標の人物と会えるでしょう』
『衛と私セルエルは今から三日後この首都『時間の街』にて初めて目標の人物と話せるでしょう』
「陽菜と私サナエルは、衛と行動を共にし、同じく初めて目標の人物と話せるでしょう」
「えっ、ぼくだけ先に会うのか? えっ、ネゴシエーター?」
「そうね、いずるはそんな役目よくやってるし、丁度良いと思うわ」
「陽菜とおれが一緒にそいつに会うのか……楽しみ半分、緊張するの半分だ」
「そうと決まったら、何を質問して討議するのか、考えましょう」
「そうだな……何を考えてるか、会うまで分からないっていう難しさもあるからな……」
陽菜といずると衛は、それぞれタブレットの前ですぐにやってくる邂逅のときを三者三様に考えることを始めた。

道を歩いていると、ルエルが立ち止まった。
気が付いた啓がふと振り返る。
『どうしたんだ? ルエル』
『まだおおごととは言えませんが、天使付きの人間と天使の中に、私たちの存在に気付いた者がいます』
『……それって、これからおれたちが動きにくくなるってことか?』
『そうとは限りませんが、現状から少しずつ現実に向き合う必要はでてくるでしょう』
『そうか……わかった。ありがとうルエル』
「啓、どうしてぼんやり立ってるの。何か見えるの? あ、ルエルと話してる?」
「うん、ちょっと。今度休憩したらみんなに話すよ」
「うん、お願い」
「まだ歩き始めたばかりだし、休憩はちょっと先だな」
四人はめいめいに話しながら、マイペースに前へ前へ進んでいく。
もう高層ビル群も街の景観も跡形もみえない。地平線の向こうにいってしまい、気づくと森林からも抜け出して、農村地帯に入ってきた。
広い農作地にぽつんぽつんと灌木がある程度で道の日陰が少なくなっている。
「うわぁ……陽射しが暑そう……」
「この道を歩いていくとしても長い道のりになるのかしら」
「近くに村か何かあるといいんだけど」
四人はそれぞれ道の左右を見回して、集落らしいところがないか確認しながら歩いて行った。
「街の外がこんな風景なんだってこと、初めて知ったわ」
「おれも。スラムと庶民層の家々と、高層ビル群と、それしかおれらは知らなかったんだな」
「こんな風に、農地……? でいいのかしら、作物が植えてある景色、初めてみるわ」
「ここに天使付きの人たちとかは、どんなふうに暮らしているんだろう……」
「ほんとねぇ……」
どこまでも続く作地。点在するしかないだろう家々。あるいは集落になっているか。
「あっ、あそこに家がある」
「ルエルに訊く?」
「いや、家の人に訊いてみるのが先だ。ルエルに頼り過ぎても楽しい日々にはならないだろ」
「まぁ、自分や自分たちで決める楽しみっていうのもあるからね」
家、と思った建物は留守……というより、空き家だった。家の戸も壊れているし、家のあちこちに綻びがある。埃っぽいこの空き家に、少しの間休憩がてら滞在することにした。
「空き家っていっても、木の家でしっかり作ってあって、ここに住みたいくらいだな」
「手を入れたらすぐに住めそうだものね」
「少し休憩するか」
木の箱を立たせて座ったり、もとからある古い椅子に腰掛けたり、机に寄りかかったり、壁際に佇んだりとめいめいに家の中に座る。
「みんな、ルエルからさっきちょっと話があって、みんなとも共有しておこうと思うんだけど、今手を休めてもらっていいか?」
「いいぞ」
「はい」
「いいわよ」
三人は神妙な顔で啓を見た。なんだろう? これは神託のひとつなのだろうか、雑談レベルで済むのだろうか。
「ルエルが言うには、おれの存在が天使付きの誰かに気付かれたらしい」
「えっ……」
「それって……」
「どう思われてるだろう、やはり啓は天使付きに分類されるのか? でも天使が周りには見えないことで迫害されたらそれはそれで手放すことになるおれらは嫌だし……」
「そもそもおれだけ天使付きの暮らしをするのは嫌だな。血縁のつながりじゃないけど、茉莉花も整も凛も、全員おれの家族だよ。おれは今までのように四人で暮らしたい」
「うーん、どうなのかな……」
三人は顔を見合わせながら複雑そうな表情を浮かべている。
「三人はどう考えているか知らないけど、おれは三人と離れて暮らすのは嫌だ。天使付きだからって、ひとりきりで生活するくらいなら、スラムでの四人の暮らしのが快適だし天国だよ」
「わたしたちも……三人とも、啓と離れて暮らすのは嫌だわ……暮らすことで、啓が変わってしまっていったりしたら、色々後悔もしそうだし」
「おれが変わるってことはないだろうけど、……天使付きとして暮らすのは、抵抗があるな。できたらスラムじゃなくてこんな風にちゃんとした家に住みたいとは思うけど」
啓の脳裏によぎるのは、スラムの端からよく見ていた高層ビル群の風景だった。ぼんやりと見上げながら、あのビル群の中に暮らす人たちはこちらを見降ろすことすらろくにしないで、自分たちの生活を満喫してるんだろうな、という確信にも似た想いだった。
視界の隅にも入らない自分たちのいのち。視界の隅にも映さない幸せな天使付き。
高層ビル群の暮らしに入って、慣れたくはない。
「ルエル、おれたちがこれからも一緒に暮らしていける方法ってないのか」
『漠然とした祈りには、漠然とした形でしかお応えできませんが、一緒に暮らしていけるように四人でしていくことはできるでしょう』
「おれたちの意志と行動次第ってことか」
「天使なんて、啓示はするけど具体的に関わったりしないよな。姿はあるけど飯は食わないっていうし、生きてるようで生きてない。天使っていったい何なんだろうな」
「気づかれたってルエルは言ったけど、具体的に何に気付かれた? 天使付きが気づいたことで、なにかおれたちに起きたりするのか?」
「具体的には、わたしと啓の関係のような天使付きが一人新しく現れたことを気づかれました。そして、そのことで、天使付きと会うことにはなるでしょう。いつ、どこで、だれとについては天使に任せてください。相手は受肉した天使を連れているので、他の三人にも見えます」
「みんな、ルエルが今大事なことを教えてくれた。おれたちはいずれ天使付きと顔を合わせることになるらしい。そのときはみんなにも見える天使だから、分かると思う」
「ええ……」
三人は顔を見合わせた。明らかに困惑した顔をしている。
「こっちからは天使付きは見えるけど、相手からはこっちの天使は見えないでしょう? 名乗らない限り分からないんじゃない……?」
「ルエル、どうなんだ?」
『天使には天使が見え、相手の天使は私の存在とIDナンバーを認識しています。視認されたら運命は繋がるでしょう』
「運命は繋がる……か……」
「……そう……これからどうなるのかしらって今一瞬思った。けど、考えるのよしましょう。啓が天使付きなら、天使付きと関わらないままに暮らしていくのはすでにできてないし、そこに見える天使付きのひとが加わったところで大して変わらないわ」
茉莉花がさっぱりと言った。茉莉花は判断が早い。しかも白黒つけることと違う形で判断が早かった。直感が鋭いのかもしれない。三人とも茉莉花の判断には信頼を置いている。
今回も、茉莉花の言葉には説得力があった。
「そうだな。すでに啓は天使付きだったんだ。見えないだけでさ。こっちにも天使が付いてるなら、そんなに怖がることもないだろう」
「それもそうね。わたしも、天使付きのひとと会ったら笑ってこんにちはって言おう」
啓は思うが、この四人で暮らしてきてつくづくよかったと思っている。
不安になったり疑心暗鬼になったりしたとしても、他の三人が別の受け止め方や考え方で誰かへの猜疑心をやわらげたり打ち消したりして、お互いに誰も恨まないように導いているように思う。スラムはむしろ不安と猜疑心、疑心暗鬼の巣窟だったから、この四人が集まってそんな風に暮らしてきたことが奇跡のようだなと啓は思っている。
「じゃあ、話しはここまで。歩きながら人の暮らす村とか集落とかを探していこう。治安が悪そうなら、関わり合いに会いたくないから避けていけるなら避けていけたらいいし、入り込んだらそれはそれまで。じゃあ行こうか」
「うん」
「はい」
「行くかぁ!」

四人なりに考え始めていた。
一人だけが天使付き。しかも見えない。そして見える天使付きに存在を知られた。
啓はどうなるんだろうか? 守れるのか? わたしたちにできることなどあるのか?
四人一緒にいるためには努力が必要なのかもしれない。考える、考える。
「あそこに集落が見える。ちょっと誰か居ないか、声を掛けてみよう」
整が少し足早になって先頭に立って集落に向かっていく。啓はその後ろ姿を見ながら、これからどうしたいのかあまり自分が考えてこなかったことに気付いた。
スラムからは出てきた。逃げ出したと捉えるものもいるだろうし、その判断をしたのは正確には啓だとも言えなかった。啓は、自分の手に突然握らされた運命に戸惑っていた。
「人がいた! 四人で旅中なんだって言って、子どもだけって知ったら今夜納屋で泊っていいって」
「やった! 行く行く!」
走り出した三人の後を追って、啓も後を追う。
巻き込んでしまった三人だが、家族のような三人と一緒に居られて、おれってしあわせだな、と啓はふと思った。

村人が貸してくれた納屋は、きれいに掃除が行き届いていて別棟の一室のようだった。
電気も引かれている。自家発電だろうが、ランプ生活よりずっと快適だった。四人は、部屋の中に用意された大きいクッションや古びたソファにめいめいに寛ぎ、眠る算段をする。
「街から出てみて思ったけど、農家が点々とあるくらいで天使付きのひとの話とか会うとか、ないね」
「ないね」
「この辺は集落になってるけど、天使付きの人居たりするのかな」
「どうだろうね、今日は歩き疲れて頭が回らない」
「歩いても歩いても畑とか牧場とか、そういう土地が延々と広がっててびっくりした」
「スラム住宅地と高層ビルがぎゅうってある街とは全然違うよな、出てみないと一生知らないままだった。天使付きじゃなくても、こんな風に暮らせるなら農家いいな」
そんなたわいのない話をしていると、こんこんこん、と扉をノックされた。
「はーい」
「こんにちは、もう夜になってきたからこんばんは、かな」
別棟を貸してくれた村人だった。
「夕飯、よかったら野菜シチューだけど召し上がれ。振舞えるものはこのくらいしかないけれどね。子供だけで長旅なんて大変だ」
「私たち、街から南へ歩いてきたんですけど、街から出たのが初めてで。ここはそれなりに村みたいにまとまっておうちがあるみたいですけど、天使付きの方がいらっしゃるところですか」
言葉は失礼のないように丁寧を心がける。仮にもご飯を持ってきてくれたひとだ。
「いやいや、天使付きなんてこの辺にはどこにもいないよ。天使付きが生まれたら、市場のある町に引っ越すだろうし、市場のあるようなおおきめの町なら天使付きは二、三人はいると思うよ。街から来たって言ったけど、街ってことは、ここから一番近い街なら『経済の街』から来たのかな」
「そうです、わたしたち『経済の街』から来ました」
『経済の街』。そこがおれたちが暮らしていた街だった。
「これからどこへ行こうかなって思ってるんです」
「そうか、『経済の街』もこの国で時間の街に次ぐ大都市からだから、天使付きはさぞかし多いだろうね。ここはもう片田舎だから天使付きなんて見ることはないよ。ここから次に近い街っていったら『命名の街』になるだろうね」
「『命名の街』……ってこの街道をずっと南に行けば着きますか?」
「途中から東へ進路を変わることになるけど、丁度市場のある町がそこにあるから東へ行くタイミングは分かると思うね。じゃあ、今日は四人でごゆっくり」
「ありがとうございます」
「いただきます」
村人はシチューを渡すと扉を閉めていった。
四人は一旦食べることに専念することに決めた。

衛といずると陽菜とで、あれからAIの遠隔端末を使って話を続けていた。
両親などの天使付きにはまだ言わないことに決めたし、衛といずるはもう十八歳だ。この世界では成人に分類される歳になっていた。身分はまだ生徒ではあるが。
「いずる、あれから分かったことはあるか」
「うーん、やっぱり自分と会ったことない人間については、あんまり分からないな」
「おれも。詮索するつもりではないはずなんだけど、あんまり分からないままだ」
「あ、でももうすぐぼくはこの『命名の街』で相手と会えるわけだし、それから話し合えるか打診してみてもいいかと思う」
「そうだな……専任の天使が顕現してないから天使付きとして名乗らないのかもしれないし……立場としても気持ちとしても複雑かもしれない。生まれてからずっと天使付きのおれたちとは、訳がちがうし、境遇も違う。生まれた時に「鍵穴から天使がやってきた陽菜が比較的相手の気持ちとか分かるかもしれないけど」
「会える、か。どこで、どんな風にぼくたちと会うことになるのか分からないけど」
「そうだなぁ……まぁ、あと二日後、いずるは朝から出かけてうろうろしているしかなさそうだな」
「そうなるか……図書館と市場には行こうと思っているけど、会えるなら市場、か?」
「かもな」
「陽菜はどうしてる?」
「浮かれてる。その日何着ようかなって」
「そりゃ前向きだ」
「それで、合流できたあとの仮定の話なんだけど」
「ああ、その話も決めておかないとな」

朝起きて、四人は納屋を貸してくれた村人に御礼を言い出発した。
「これから昨日話に聞いていた市場のある町へ行って、それから『命名の街』へ行く。もし、『命名の街』が暮らしにくかったら、どこか郊外の適当なところを探して四人で昏そう。仕事は農作業は点で分からないけど、市場の近くとかを見つけられたら、仕事を貰ってお金を手にすることもできると思うし」
昨日の夜、啓たちはそんな結論を出していた。
『命名の街』かその周辺で目立たないように四人で平穏に暮らしていく。それが四人の目標だ。『経済の街』にいた頃と何が変わるかは分からないが、似たような都市ならスラムもあるだろう。スラムは、都会とはいえ治安も悪い。不便の極みだろうと思っていた農村部を歩いてみて、農村部が思っていたのとはだいぶ違う現実なのだと四人は知った。
「確かに、仕事はほとんど農家か酪農みたいだし、点々とある家も木造が多くて平屋ばっかりだ。都会の構想ビル群や庶民層の住宅街の世界とはまるで違う。けど、おれらはあくせくしなくてもいいんじゃないかって思うし、少ないけれど今はまだ資金もある。酪農も農業も今のおれらじゃできない。けど、市場のある町がちょこちょこあるっていうなら、そこで仕事を貰って働いていけるってことでもある」
啓たちは、そんな風に話し合った。そして最後にルエルに「おれたちの考え方で合ってると思うけど、ルエルはどう思うか」と聞いた。
『私が思うことは、四人で話し合って決めたことに異議を唱えることはないということです。それとは別に、近いうちに啓に会いに来る人がいるでしょう。わたしに今言えることはここまでで、そこから先はまた会いに来た人と啓が決めることだろうということです』
「会いに来る人? それって誰だ?」
『今は啓の知らない人、とだけ答えておきましょう』
「どうした? 啓。何話してるんだ。ルエルはなんて?」
「……いや、四人で話し合って決めたことに異議は唱えないって」
「なんか他に今話してなかった?」
「……話してないよ」
啓は、誰かが啓に会いに来る、というのは三人に言わないでいた。なんとなく不安にさせそうだったからだ。
(事前になんでも知っていたって、それでかならずいい方向を選べるとも限らないものな)
啓はふとそんなことを思い、じっと自分の胸に仕舞うことにしたのだ。
そして出発して半日歩き通した。一番年下の凛が休憩したいと音をあげそうになったとき、街道の先に家々が見えた。
「あ、あそこが市場のある町じゃないか?」
整が目敏く見つけて、三人へ指さした。
目を眇めて三人が確認すると、俄然足に力が篭もる。
「あの町のこともよく見ておかなきゃね。仕事がありそうならここに戻ってきてもいい」
茉莉花が自身に言い聞かせるように言う。三人はその言葉に頷いた。
どこであっても暮らしていかねばならない。市場がある町ならどこであっても仕事があればいいと思われた。
「まずは市場で買い物してくる。啓と凛は町のはずれで待ってて。町に何人かいる天使付きに見つかったら、啓がなんて言われるか」
「なんて言われるんだ? なぁ、ルエル」
『啓のことは天使付きに数えられています。別の天使付きに見つかったら、何か言われるかもしれませんし言われないかもしれないですね』
「でも、おれが天使付きだとはその人間には分からないだろう?」
『天使同士で、相手が天使付きかどうかは理解しています。同じID本体に接続している端末同士ですからね。そのときの天使の反応は私には分かりませんが、相手の天使は私が唯一顕現していないで天使付きをしている天使だと理解していますよ』
「なにそれ、なんかちょっとめんどくさいな……」
「どうしたの?」
「天使付きの天使には、おれが天使付きだってのはバレてるらしい。会うと厄介かもしれない」
「えっ……じゃあ、なおさら町の中で入らないほうがいいわね、ここで待ってて」
(隠れて暮らすのは性に合わないけど、おれだけじゃなくてみんなと一緒だからなぁ)
啓は、これからのことをどうしたいのか、あまり考えていなかった自分を改めて自覚した。そして、そのままではいられないだろうということも、頭の片隅で感じてきている。
(おれは中途半端だけど天使付きになっちゃったんだな……)
どうやって生きて行ったらいいのだろう、と啓は思う。
答えはまだない。
「市場で足りなくなったものを買ったら休憩して、そのまま『命名の街』へ行きましょう。二日後までには『命名の街』に辿り着いて、そして郊外に家を探してみましょう。うまく行かなかったら別のところでまた探すことになるけれど」
茉莉花は少し先を急ぐようなそぶりを見せる。無理もない。金はまだあるがもっとあっても困らない。むしろ旅の途中で路銀が尽きることのほうが心配だった。
「じゃあ、整と茉莉花で行ってきてくれ。凛と待っているよ」
じゃあね、と二人は先の道を急いでいくのに対して、啓と凛は日陰を探してその場に座り込んだ。
「啓、啓が天使付きに見つかると、どうなるの」
凛は二人きりになった途端、核心を突いた質問をしてきた。前々から気になっていたのかもしれない。
「わからない。相手はおれをどうするんだろうな。無視かな。それとも、天使付きのところへ連れていかれるか」
「嫌だわ、連れて行かれる、だなんて」
「でも、天使付きに生まれた子どもの家庭は、できるだけ天使付きの区画に近いところに暮らすだろう。おれらは血が繋がっているわけじゃないから、引き離されるかもしれない。だからおれ、今のところちょっと身を隠すような選択をしているんだ。……みんなと離れ離れにされたくはないからな」
「うん、それはわたしも一緒」
啓の言葉に。凛は大きく頷いた。
「でもいつか、会う事になるのかもしれないな」
(おれに会いに来る人がいる……天使付きが来るのか、おれの身柄をどうにかしようと思ってるのか。相手は何人なのか。いつどこで会うのか……)
「啓、何を考えているの? いつか、啓は連れて行かれちゃうの? ルエルと話してる?」
「いや、でもちょっとルエルと話したい」
『啓が思っていることなら、ある程度は予知が正しいです。けれど、具体的に相手が何人でどうしたいのか、いつどこでどういう話をするのか、そういうことは会ってもいない人間との未来のことなので、私の口からは言えません』
(おれが知ることができるのは、おれに会いに来る……相手が天使付きだったことだな)
『この条件は相手もほぼ同じです。誰なのか、どこにいるのか、何人で動いているのか、そういうことまでは啓示することではないと判断しています』
(そっか。わかった。天使付きといずれ会う事だけでも分かっているなら、心づもりするからいい。ありがとう)
『どういたしまして』
(あとひとつ、こういう訊き方してもいいか? この町で、天使付きとおれは会うか?)
『いいえ』
(そっか。わかった、ありがとう――この町では会わないのか。じゃあ早くて、『命名の街』だな)
よく考えておこう、と啓は思った。
自分自身の身の振り方と、三人の身柄の安全について。

啓は、ここでは天使付きに遭わないと分かると、凛に話して整と茉莉花の後を追った。
「天使って未来のことも分かるのね、なんだか少し怖いくらいよ」
凛はそんなことを言いながらも、啓と一緒に茉莉花たちを探す。
市場と思しき場所に踏み入れると、啓たちの身なりが貧しいからだろうか、市場の人間たちはよそよそしい。
(なんか感じ悪い……整や茉莉花たちがなんでもなく買えてるといいけど)
啓はそんなことを思いながら市場の中を凛とうろついていた。
そのときだ。
「小僧、パクろうとしてるんじゃないだろうな! うちは高級食材も扱っているんだ! こんなところに来ないでもっと安い店へ行っておくれ」
市場の奥が少し騒然としている。啓たちは顏を見合わせた。ピンときた。整と茉莉花だ。
「ちょっと、通してください。通して」
啓は凛を連れて必死に人垣をかき分けた。
「お金はちゃんと働いたお金を持ってます。旅に必要だから欲しいの。お願いします!」
「じゃあ、うちじゃなくてもそれは買えるよ! 小汚い恰好でうろつかないでおくれ」
目の前に飛び込んで来たのは必死に食い下がる茉莉花と、それを守るように立つ整、そして、その二人を煙たがるような動作で追い払おうとする女店主だった。
「ちょっと……!」
啓がその場に入り込もうとしたそのとき、ふと横から一人の大人が割り込んできた。
「あんたもちょっと冷たすぎやしないかい。相手は子どもじゃないか。身なりだけでなんでも決めつけるのは止しなよ」
「じゃあ、あんたんとこで買わせればいいだろう。うちじゃごめんだよ」
「そうかい、じゃあ、坊主、お嬢ちゃん、うちも扱っているからうちで買いな。ちょっと庶民仕様だけど、使うのに困らないよ」
「本当ですか⁉」
「ありがとうございます、そちらで買います」
付いていく茉莉花と整を慌てて啓たちも追う。
「ルエル、あの人信用していいのかい」
『あの人は善意から言っています。もちろん、まれに人さらいのつもりで声を掛ける者もいますから、注意はしてください』
「ありがとうルエル。じゃあ付いていって大丈夫だな」
啓はルエルと話すと、整たちに声を掛けた。
「おーい! 整! 茉莉花!」
「えっ、二人ともなんで来ちゃったの……⁉ だめじゃない、ちゃんと郊外で待っててくれなきゃ」
「心配事はここでは起こらないらしい。だから二人に付いて市場に入ることにした」
「もう、二人とも勝手なんだから。でも啓が大丈夫っていうなら大丈夫なのね」
「おや、あと二人も増えたな。子供たちだけ四人で旅でもしているのかい」
男の店主と思われるさきほどの男性が、後から来た啓たちに気付く。
「そうです」
「あちゃぁ、二人ならおれの弁当分けてもいいかと思ったけど、四人じゃちょっと足りないな。まぁ、男二人は我慢してくれ。ご飯についてはレディーファーストだ」
「いえ、そんなそこまでよくしてもらっても、わたしたち返せるものが……」
「いいさいいさ、子どもが遠慮するもんでもない」
男は本当に気のいい店主らしかった。四人はありがたくパンを二切れ貰い、茉莉花と凛がいただきますをした。
啓は、店の近くで食べている二人を見ながら、何かできないかルエルに訊いてみる。
『そうですね、啓の相談に私も応えましょう。今日は遠くから商人が来ていますから、いつも売れないでいるものが売れるでしょう。あの店の、目立たない奥においてある、あの果物などです。あれは高いうえになかなか売れないのでどこの店も少なく置いてますが、あの店は何かの手違いで多く仕入れたのでしょうね。今日はそれを店頭に置けば飛ぶように売れます』
「分かった、ルエル、教えてくれてありがとう」
『それを啓がちゃんと伝えることで、啓たちにも恩恵がありますので』
そこまで教えてくれなくてもいいし、恩恵なんてあってもなくてもいいよ、と啓は笑った。
「大事なのは、お礼に教えることを相手が信じてくれるかどうかのほうだ。おれに付いているルエルは、他の人には見えないんだから」
そう言ったのち、啓はさっきの男の店主に声を掛けに行った。
「すみません、さっきは連れにごちそういただきありがとうございました。あの、奥に積んでいるあの果物たち、今日は軒先の目立つところに出しておいたほうがいいですよ」
「おや、うちの売り上げを気にしてくれているのか? あの果物はちょっと仕入れ間違ってしまって赤字になりそうなんだけど、そうだなぁ、ちょっと今日は軒先が地味だし、あれも置いてみるか。たまにはちょっと売れると、黒字になるからな」
「はい! ぜひ置いておいてください」
啓は、聞き入れられたことが嬉しくて、スキップしそうな気持で三人のところへ戻った。
「どうしたの、啓。さっき何を話しに行ったの」
「実は、ルエルと話していていいことを教えてくれたから、あの男の人に伝えてきたんだ」
「まぁ、それは天使の啓示を伝えたってこと? きっとあの人にもいいことがあるわね」
「そうなるといいな。ほら、おれたちはおれたちで買い物を続けよう」
それから二時間ほど、四人は市場の隅々を歩いて必要なものを買いそろえた。大抵の店主は四人を胡散臭いもののように見たが、金を出すと何も言わずに品物を渡した。
「大体買いたいものは買えたわ。じゃあ、宿を探して、泊まれたら泊まって、無理ならもう出発しましょうか」
「それでいいよ。茉莉花」
そんな話を四人でしている時だった。
「お、こんなところにいたのかい、君たち! やっと、見つけた見つけた!」
二時間ほど前に啓たちに良くしてくれた男性の店主だ。
「さっきは、果物の置き場について一言言ってくれてありがとうな。あのあとすぐに大きなキャラバンが通ったときにうちの果物の気づいて、買い占めたうえに「まとめて買えたから探し回る手間が省けた」って弾んでくれたんだよ。いや、今日は大黒字だ。きみたちに気持ちばかりだけど御礼がしたくてね。これを持ってきた」
小さな袋を啓に握らせようとする。いやいや、いいです、と啓が手を退くと、凛に持たせようとした。凛が困惑した顔を啓に向けたので、啓が店主に行った。
「御礼をいただけるなら、半分だけいただきます」
「ええ、半分でいいのかい? 大した額じゃないから全部受け取っていいんだよ」
「じゃあ、残りの半分は、初めに茉莉花たちと揉めた女店主に上げてください」
啓の申し出に、男店主だけでなく三人も「えっ」という顏をする。
「なんで、あんなやつに御礼を渡そうっていうんだ、啓」
「いや、分からないけど今唐突に閃いた」
「閃いたってお前……」
「ああ、今日はあの店の売り上げが悪かったのは聞いたよ。きみたちが来たからだとかなんとか愚痴っていた」
「なんだ、そんな嫌なやつに御礼を譲る必要ないぞ」
整が口を尖らせて女店主の悪口を言うが、啓はその整に向かって別のひらめきを話した。
「おれ、突然閃いたついでに言うけど、おれたちを悪く思う人たちだから、おれたちと関わると益があるって思ってもらってもいいんじゃないか。おれたちをよくしてくれたこの男性にはいい商売ができたことがいいことだけど、おれたちをこの店主と会わせてくれた女店主にもお裾分けすると、きっとおれたちが来た事自体を悪く思わなくなるような気がする」
それを聞いて、ぐぬぬ、と整は反論が言えなくなった。
「店主さん、そういう訳で、あの女店主に残りはあげてください。そして、次におれたちみたいな人が来ても、ちゃんと売ってあげてほしいって伝えて」
「まだ子どもなのに、面白い発想するんだな。あの女店主に本当に分け前渡していいんだな?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
「了解だ。きみたちの旅がすばらしい結実となることを祈るよ」
「ありがとうございます」
四人は頭を下げて男店主を見送った。手を振りながら男店主は人混みに紛れて行ったが、なんとなく四人は気持ちが清々しかった。
「じゃあ……宿探しますか」
「さがしますかー、見つかりますように」
「さっきの店主に訊いてみてもよかったね」
「そういやそうだ。抜けてるなぁ、おれら」
笑いながら四人で旅を続けるのだ。
スラムから出てきてしまったけれど、四人が揃っていたらそれはそれで楽しい日々だと啓は思った。


あれからあっさりと二日過ぎてしまった。何事もなかったかのように四人は町から離れ、予定通り『命名の街』へと向かっている。予定ではもうそろそろ『命名の街』が見えてもいい頃だ。
「ここ一週間くらいほんと歩き通したなぁ……それも終わりそうだと思うと助かる……」
整が徒歩の旅が大変なことをぼやくと、凛も茉莉花も「そうね」と同意した。
「思ってたより足腰がたがたになりながら歩いてきたものね。『命名の街』についたら、ちょっと落ち着くといいなと思っているの」
「うん、そうだな」
啓も言葉少なに同意した。元はと言えばこの旅の発端は啓が天使付きになってしまったからなので、啓はなんとなく肩に荷を背負ったような気持ちがしていた。負い目と言い換えてもいいかもしれない。
「あっ、もしかしてあの蜃気楼みたいなの、『命名の街』のビル群じゃない?」
「え、どこどこ」
「あそこよ、あれ」
遥か地平のかなたに、高層ビル群が揺らめいて見える。
「あれか! まだ遠いなー」
「あと一、二時間もあるけば着くわ……がんばりましょう」
四人はあと一時間半を黙々と歩いた。いよいよ街が近くなる。見えてきた門をくぐれば、きっと『命名の街』だ。
気づいたのは、門にだいぶ近づいてからだった。門の下に二人の人影が立っている。一人は門に寄りかかって本を読んで俯いている。午前中だから東の方向へきていたものの、もう陽は南中にちかい。なのに、もう一人も逆光でよく見えなかった。
そのときだ。
『会いに来ましたね』
ルエルが啓に簡潔に言った。直感的に、啓はその二人連れがひとりの天使付きが立っているのだということを理解した。
「天使付き……!」
思わず啓から零れた言葉に、凛が顏を上げる。
「啓? 天使付きって? どこ?」
「なに?どうしたの凛」
「なぁ、あそこに二人立ってるの、人待ちじゃないのか?」
整が門の二人を指さしたのと、逆光で顏が見えないと思っていたひとりが此方を向いて、後光が差しているのだという事実に気付いた。羽根は見えない。畳んでいるのだろう。
「え……天使付き……? あんなところで人待ち? どういうこと?」
「おれを待ってるんだ」
啓が少し硬い声で茉莉花の疑問に答えた。
「あいつ、おれに会いに来たんだ。ルエルが言ってる」
「え……?」
にわかに三人に動揺が走った。
「啓を捜しにきた?」
「四人いるから誰かは分からないんじゃない?」
そんなことを話しながら、しかしじりじりと歩み寄っていく。
向こう側の、顏を見えない方の背の高い人物がこちらを真直ぐ指さした。
(天使が動いた)
唇をきゅっと噛み締め、覚悟を決める気持ちで四人は門へ近づいていく。
本を読んでいたほうの一人も顔を上げた。四人より背が高く、眼鏡を掛けている。
ぱたん、と本を閉じる音が聞こえる気がする距離。
四人は天使付きの一人と相対していた。
眼鏡を掛けた彼が、正確に啓と目を合わせた。
「一人じゃなかったんだな。はじめまして、奇跡の天使付きくん」
「……はじめまして。天使付きの人に出迎えてもらうなんて生まれて初めてです」
「いや、驚いた。見た目は普通なのに。本当に天使が付いているのか」
『顕現するのには私は出力が足りませんね。せいぜい半透明な姿を短時間見せることができるくらいです』
「え、見せられるのか⁉」
ルエルのこの場においての爆弾発言において、啓は思わず声を出した。
相手の天使らしき人物が、眼鏡の彼に耳打ちする。彼も一瞬目を見開いたが、すぐに平静な顏をした。
「ぼくはいずる。いずるって呼んでくれていい。きみたちの名前を教えてもらっていいか?」
「……おれが啓です」
「おれは整」
「わたしは茉莉花」
「凛です」
それぞれに名乗る。
「自己紹介も終わったところで、移動しよう。ここは郊外とは言えまだ目立つ。郊外の宿をとってあるんだ。人目につかないところで話したい。なんせぼくの天使は見えなくなることがないからね」
いずるはそう言うと、四人に後を着いてくるように合図した。
顔を見合わせたあと、頷き合って四人も後を着いていく。
ここは庶民街の間を通っていく道のようだった。左手に高層ビル群があり、右手がだんだんと寂れていくとスラムへと繋がっていくのだろう。
初めて入る、別の街の様相に四人は圧倒されながら歩いた。そもそも庶民層を歩くには身なりが貧相なうえ、同行して先導していくのが天使付きなので、ひとびとは自然とぶつからないように避けて通る。目立っているのは嫌でも分かった。これでは高層ビル群に入るともっと目立つだろう。郊外の宿、と言っていたことに四人は僅かな安堵を得ていた。
「ここだだ。部屋はツインを一部屋しか取ってないけどデイユースで取っているだけだから、全員で泊まるところは別に用意してほしい。とりあえず入ってくれ」
宿、と言ったが、ホテルに相当する堅固できれいな建物だった。庶民の中でもアッパーな層が使いそうな高そうなホテル。
「わたしこんなところ入ったことない……」
肩身が狭そうに、茉莉花が小さな声で告白した。
「いや、おれもっていうか、全員こんなところ入ったことないだろ……」
「ここは庶民層も使うホテルだよ。どっちかっていると、天使付きと親しい血縁が使う。天使付きとその血縁が一緒に行動するときとか。両親が天使付きじゃない場合もあるからね。ビジネスホテルみたいな、特別高くないホテルだよ」
「十分すごくて高いホテルだよ……」
小声で啓は反論した。こんな世界は、自分にそぐわない気がする。
何階かエレベーターで上がった。四人はエレベーター自体初めて乗るので、乗り込むのもおっかなびっくりだ。
開いたフロアへ出て行くいずるたちに必死で着いていった。迷子になったら捕まるレベルで貧富の差のある恰好をしている自覚がある。はっきりと、居心地が悪い。
一室に通されると、小ぎれいで広めのツインベッドと、ソファが向かい合って二脚、ほかに長ソファもある。そしてテーブル、いす、机など一通り揃っている部屋に着いた。
「手狭で申し訳ないけど、適当に座ってくれ」
そう言ったいずるは、机の椅子の向きを変えて座った。天使はその脇に立つ。
こんな機会ではなかったら、凛も啓も全員がベッドにダイブしていただろうし、キャッキャはしゃぎまわっただろうと思うが、今は緊張でそれどころではない。
啓と茉莉花は向きを整えて一人掛けのソファに座った。整と凛が長ソファに座る。荷物は手元に引き寄せて置いている。
「さて、準備ができた。天使付きのみなさん、いや天使付きは一人か。でもご一行さんこんにちは。ぼくたちより少し年下かな。ここならゆっくり、そしてじっくり君たちと話せると思ったんだ」
「ぼくたちは、天使付きと話すことは特にないです。四人で暮らしたいから」
啓はいずるの言葉を簡潔に牽制した。
「へぇ? いきなり結論を言われるとは思わなかった」
いずるは驚きを隠しきれないようだった。
「天使付きなのに天使付きだと言い出さないのは、天使が顕現してないからってだけかと思ったら、なんかちょっと見解が違うんだな」
「あなたこそ、どんなつもりでおれたちを呼んでるんですか」
「ぼく、っていうか、こっちも『ぼくたち』なんだけど、他の二人も話に混ぜてもいいかな。タブレット端末からホログラム立ち上げるから、ちょっと待ってくれ」
「え、ちょっとよくわかりませんけど、あと二人もここに来るんですか」
「あとの二人は、『時間の街』暮らしだからこっちに直接は来ていないよ。あれ、AIタブレット端末を知らないのか? きみたち?」
「ぼくたちは全員スラム出身だから、AIとかは手にしたことないです」
「……スラム出身……! 大抵の天使付きは庶民層から上がるから、ぼくもスラム出身者と会うのは初めてだよ。お互い、AIのこととか天使のこととかで分からないことは多そうだな……――とりあえず進められるだけ話を進めるか。二人は遠隔で参加する。いつもは音声だけだけど、今回は姿も見せてくれるよ。お互い顏を知りたいからね」
「え、あ、はい」
内心、どういうことだ? と四人は思っている。携帯電話すら持っていないレトロな暮らしをしていた訳で、遠隔で参加して姿を見せてくれる、という意味が分からない。
「まぁ見てれば分かるから」
テーブルの上に置いていたタブレット端末を二、三タッチすると、タブレットの上に二つ、待機中と書かれた小さめのホログラム画面が立ち上がった。
「えっ、なに……」
凛が驚いて小さく声を上げた。ほかの三人も声は上げなくてもこれから何が起こるのか、タブレット端末に見入っている。
「衛、陽菜、繋がってるか? <見えない天使付き>とは合流した。いやはや、おれたちより少し年下くらいのご一行だよ」
ジジ、と小さなノイズのあと、ホログラム画面が各々の顏を映し出した。
「繋がってるわ、いずる、お疲れさま! はじめまして、<見えない天使付き>さん……って、四人もいる??」
「おれも繫がってる。はじめまして、衛と言います。きみたちの、誰かが<みえない天使付き>なのかな?」
「陽菜、自己紹介くらいしてくれ」
「はーい、ごめんなさい。みんな私と同じくらいの歳かしら? 陽菜といいます。今日はよろしくね」
ホログラムからの自己紹介に驚いて四人は声も出せなかったが、三人の自己紹介が済んだところで我に返った。
「あ、もしかしたら、あなたたちが会いに来た<見えない天使付き>っていうのがおれです。啓です。十五歳」
啓はいち早く自身の手を軽くあげた。
誤解をさせてほかの三人に何か危害があっては堪らない。天使付きは平和主義だと聞いてはいるが、果たして本当にそうなのか、否か。
「あら、あなたが私たちと同じ天使付きなのね。わたしより一つ下かぁ。よろしく」
「陽菜、ほんと顔を合わせたばかりなのにフランクだな。とはいっても啓、これからよろしく。おれたちがきみたちに接触するにあたって、どうしてなのかは分かっていると思う」
「分からないよ、おれたちはただ四人で旅してきただけだぞ?」
「きみは誰だい? 名乗ってから発言してくれ」
一瞬整は口をへの字にしたが、すぐに画面と向き合った。自分たちのほうが分が悪いのは自覚している。
「おれは整。啓と同い歳だ。啓と座っているのが茉莉花で、そっちの陽菜さん? と同じ歳。多分ここで一番年下なのがおれと座っている凛だ。凛は十四歳。口を挟んで悪いけど、啓とおれたちで天使付きのことそんなに突きつめて話し合ってきたわけじゃないから、啓だけ質問攻めにするのは無しにしてほしい」
『啓、この場は天使を含めて十人の場なので、全員が口を開くと話が終わりません』
「わかってる、ルエル。整、大丈夫だ、一緒に来てくれただけでおれは心強い。あとこれはおれ自身の問題でもある。天使付き同士でおれと、ええと、衛と、陽菜と、いずる、の四人がメインで話していく形にしようと思うけど、それでいいか」
「……わかった」
整はおとなしく引き下がってくれたので、啓はほっとした。他の二人も目で頷く。
「その提案でいいよ、もちろん」
画面の向こうの二人は頷いた。目の前のいずるも。そしてこの場では天使の意志は関係がない。
「そもそも、ぼくたちは君がひとりで行動しているかと思っていたから、団体行動していることにびっくりした」
「そりゃどうも」
「おれたちで、きみに不利益が少なくなる選択肢を考えていたんだが、もしかしたらそれを採択するのは難しそうだな」
「例えば、どんなことを考えていたんだ?」
啓は「選択肢」という言葉に反応した。
「一人だったら、『命名の街』かこの国最大の都市、まぁおれたちが住んでいる『時間の街』の天使付きの世界に招き入れるための手続きを手伝うか、と思ってたんだ。天使付きからすると啓、君は特殊だ。天使付きとして見えないのに自由に啓示がもらえる。通常の天使付きであるおれたちよりもさまざまな意味で自由だと思う。例えば、ふつうのひとのように旅をしてくること一つとっても、ぼくたちは天使付きだから難しいと思うよ」
「おれを、天使付きの世界、に?」
「そう、高層ビル群のこちら側になるって意味だね。天使付きのどんな位置になるかは分からないけど。現実おれたちだけじゃ扱いかねるから、きみの意向を訊いたらおれたちの両親を通じて天使付き全体に情報を共有してもらおうと思っている」
「そんなおおごとでもないだろう」
「おおごとだよ。今まで見えないけれど天使付き、つまり自由に天使と話せる、なんてそうそう聞いたことない。すくなくともぼくらの世代では初耳だよ。奇跡の分類に値するって天使が言うくらいなんだから」
「奇跡? まさか。そんなすごいことじゃないよ。そもそも天使は見えなくても見えても人にひとりずつ専任がいるっていう話はあるぞ」
「そうだ。でも顕現しなかった天使はその人が一生を終えるまで顕現しないままだよ。それが、きみにはきみ専任の天使が見えるようだよね。今はきみの右側に立っている。視線がそっちを向くからなんとなくわかるよ。ぼくらにはきみの天使は見えないけど、さっき、見せられるか何かそんな話をしていなかったかい?」
「あ、そういえばルエルは短時間ならおれ以外にも見せられるって言ってる。まぁ透けてる幽霊だけど」
「そうなのか。それをきみからお願いすることはできるかい」
「うーん、今ここで?」
「そうだね、またの機会があるならまたの機会でもいいけど、ぼくたちにも確信がほしい」
「ルエル、そういう訳だけど、ちらっと姿を見せてくれないか」
『いいでしょう。ここで皆にわたしの姿を揺らめかせる(・・・・・・)ことは、必要のようです。出力を上げますが、ぼんやりと光がうかぶくらいにしか見えない人もいるかもしれませんよ』
「いいよ、それでも。ぼんやりと見えるなら」
『はい』
少しずつルエルが輝きだす。それと同時に、啓の目にも透けながらはっきりとした輪郭を結び始めていくのが分かった。
「で、できるなら初めからやってほしかった」
『聞かれていませんでしたからね』
「うわ、なんかぼんやり啓の横にも……ホログラム? なに? 透けてなにか、なにかが……」
凛が驚いて声を上げた。
「わ……これが……啓の天使……?」
『私の受肉した姿とまるで見え方が違いますね。エーテル体からの顕現ですから、わたしよりも光に満ちた、本来の天使の姿に近いです』
「一人の人というより、光の存在だよ、ユリエルも本来はこんな姿なのか?」
「まぁ、そうですね」
「きれい……画面越しに見ていても神々しいわ。天使ってもともとはこんな存在なのね」
画面の向こう側で、陽菜も衛も圧倒されている。
『ユリエルも、サナエルも、セルエルも、みんな受肉をほどけば(・・・・)、この姿になるでしょう、理論的にはどの天使もここまでの出力は可能です』
『そうですが、今は守護している人物のためにも、今のタイミングで受肉をほどく(・・・)ことはできませんよ』
『それもそうですね、ほどいたら、もう受肉の身体には戻りませんし、見えない天使になってしまう……』
「え、そんなことも初耳だぞ……! 天使学でも教わったことない」
『我々には我々だけのルールというものがありますからね』
「<見えない天使付き>と関わってあっという間に知らないことの情報だらけだ」
『で、みなさん、私を視認できましたね?』
ルエルが言う。皆にか細い声のようなものが届き、あわてて皆頷いた。
「聞こえる! 目でも見える! 啓には天使が付いているんだ!」
整が興奮気味に口走った。みなが体験したことのない事象に遭遇し、興奮している。
『では元に戻りますね』
「え、あっさり?」
『ええ、あっさりと啓にだけ見える状態に戻ります』
ひかりが揺らめいて(・・・・・)ホログラムがほどける(・・・・)ようにふわりと消えた。
「一瞬だけど、今のが啓の天使なんだ……」
「すごかった、これは奇跡だわ」
「きれいだよ、天使はひかりの存在なんだ」
啓たちが口々に興奮して話している。一方で天使付きの三人も、体験したことのないことに興奮を隠しきれない、紅潮した頬を見せた。
空間がまったく普通に戻っても、しばらく皆なにも声が出せなくなっていた。
「……いやほんと、びっくりした。見えない天使が姿を見せるなんて、ほんと奇跡だなと思った」
「わたしも思った……」
「ちょっと、すごかった」
「うん」
『啓、これで啓が天使付きだという事を証明したので、話を先へ進めてください』
『いずる、話を先に進められますか。気持ちが落ち着いたら改めて話をしましょう』
ルエルとユリエルが、それぞれ啓といずるに伝えた。
「そうだな……これで啓が天使付きだってことはこの七人の共有認識になった。これから啓とほかの三名の計四人がどうしたいと思っているのかを聞きたいと思っていたんだ」
「いや、だからおれらは今まで通りがいい」
「今まで通りって? スラムに戻ること? どうして四人はスラム育ちなのに出てきているんだい? 天使付きになって四人の生活に何も変化なかったわけじゃないだろう?」
「……」
四人は、いずるに見透かされたような気持ちになって、少しきまり悪く顏を見合わせた。
「ぼくたちは、きみたち四人――四人だとは思わなかったけど、この際四人で行こう、の希望を聞いて、天使付きの大人たちとの交渉を円滑にするサポートができたらいいなと考えている。単純にぼくたち、正確には「衛」がきみたちの存在を皆に先んじて気が付いたことが発端だけど。そしてこの奇跡には興味もある」
「さっきから、奇跡、奇跡って何度もいうけど、奇跡なら滅多に起こらない神の御業みたいなものだろ、興味なんて湧くか?」
「うーん、ぼくらもそんな風に思っていた。実際には天使たちの本体であり大元である「知性(インテリ)ある(ジェント)設計者(デザイン)」が進化・更新する予兆……みたいなものが、一見バグのように現れるのが奇跡、らしい。だから、きみたちの後に、新たに<見えない天使付き>が生まれる可能性はあるね。今後のその可能性を考えるなら、初めての予兆であるきみ、啓の処遇をちゃんと決めることが必要なんだ」
「処遇を決めるって言っても……」
「啓、いずる。これはおれからの提案なんだけど、いいか?」
タブレット端末のホログラムに映る衛が口を開いた。
「ああ、いいよ衛」
「きみたちの「今まで通り」っていうのは、今まで通り出来る限り一緒に、あるいは近くに暮らしていきたいってことだろう?」
「……まだちょっと、心は決まってないけどそういうことじゃないかな」
「じゃあ法的にある程度解決はつく。お互いに養子縁組というか、法的に家族の手続きを取るんだ。兄弟は難しいかもしれないけど、養子縁組なら可能だろうから。そうしたら、啓が天使付きの界隈に住んでも残りの三人もそこに近い庶民街に住めばいい。今の制度に組み込まれる程度のことだし、それで解決じゃないか?」
「養子縁組……?」
「法律のもとに、四人がほんとうの家族になるってことだね。実際には、啓が三人を養子に迎えることが、経済的な先行きも考えると一番いいと思う。まぁ、戸籍があることが前提だけど」
「戸籍……なんてあるのか? おれたち?」
「啓と整は、元々庶民街からスラムに流れてきた身の上だから、戸籍はあるんじゃないかしら。わたしと凛は、元々の生まれがスラムだから、戸籍なんてないと思うわ」
「そっか、じゃあ戸籍を作るところからかー……ちょっと手続きとか考えると面倒だな……」
「養子ってことは、おれたちが啓の子どもの枠に入るってことか? いやなんか変な感じだな」
「まぁ、法律上の問題だけだけどね。実際に住む四人が近くて安定して暮らせるってことになるなら、それがいいんじゃないか。啓示自体は、養子まで波及できるか微妙だけど長く一緒にいるならその分天使的に啓示してもらえる可能性は高いだろ。そしたら庶民層で困らないんじゃないか?」
「うーん……」
「どうした? 陽菜」
「衛の発案は、今の啓たちにはとてもいいと思うけど、根本的には解決させてなくない?」
「根本的解決ということは?」
「今度、第二第三の啓たちが現れたときにも、都度対処するでもよくないか?」
「ということは、見えない天使付きの啓は、見える天使付きの中に普通に入れられるけど、それに天使付きは差別しないでいられるかってことでもあるわ」
「うーん……」
なにやら分からない難しい話を天使付きの三人は始めていて、四人は座ったままただその三人の様子を見ているだけになってきた。
「まぁ、そうだよな。差別すること自体を天使が停めさせることできないし。天使自体は差別とか概念がないだろうけど、人間としてはなぁ」
「普通に考えて、見えない天使付きは見える天使付きより一段弱い立場になると思う。庶民層と天使付きの間くらい。でも、啓示の力は現実には通常の天使付きを凌駕するくらい……自由な啓示ができるとしたら、天使付きとしては一段上になるのよ。そしたら、啓の立場はもっと難しいわ」
「難しいな」
「そういう問題か……」
「そして、時を経ると今後啓だけでなく<見えない天使付き>が現れたとき……第二第三の啓が現れた時、彼らが迫害を受ける可能性はゼロじゃないから、今のうちにどうするべきか提案できたほうがいいわよ」
「そういう意味での提案かー」
「法律学の成績いまいちだし法的にどう対処すればいいかもよく分からないな」
「それは衛の学力の問題でしょ、頑張って」
「……その。いいか」
三人が白熱して話しているところに、おずおずと啓が手を挙げた。
「おれ、なんでこの世界に天使付きと天使がつかない人間――顕現しない人間、に分かれているんだ? なんで全員天使付きにならないんだろう?」
天使付きの三人が、啓の顔をまじまじと眺めた。
「……スラムの人間は、今の世界の成り立ちみたいなことは知らないままなのか? いや、失礼なこと言ってたらごめん。そういうことは天使教育学の中で習うから、なんで知らないのかぼくたちのほうが不思議だ」
「茉莉花は知ってるか? 整は? 凛は?」
「ううん」
「いや」
「いいえ」
その三人の反応に、天使付きのほうが驚きを隠しきれない表情をする。
「……おれでよければざっくり話すけどいいかな」
「オネガイシマス」
ホログラムの衛が、えーと、と話し始めた。
「もともとこの世界は誰の天使も見ることはできなかった。そんなある時、天使学上のアダムとイブが現れた。それまで受胎を経験していない天使が、ひとりで天使を生んだことがきっかけで、世界の物理法則が歪み、それまで存在する次元が違っていて人間たちに干渉できなかった天使の一部が受肉して現れるようになってしまった。次元が混ざってしまったんだ。でも全部の次元が混ざってしまったわけではないから、すべての人一人一人についている専任天使が全員顕現できるって世界なわけじゃない。一部の天使が顕現しているっていう今の世界は、世界として歪んだ結果としての形なんだ」
「なんで、歪んだ世界を戻さないんだ? あるいは、全部の次元を混ぜちゃえばいいんじゃないのか?」
「うーん……、歪んだ世界を、戻す……?」
「天使が再び見えない世界にするか、全員の天使が見える世界にする」
「えっ」
天使付きの三人は絶句した。
「天使付きの居ない世界? ある程度、天使がいるから戦争も起こらないのよ?」
「実際、天使付きが極端に少ない鉛の国の周辺は紛争が絶えないしな」
「天使付きはある程度世界を回すのに、必要不可欠じゃないの?」
「おれもそう思う」
「ぼくも」
啓は、その三人に言葉の一石と投じた。
「それは天使付きとしての都合であって、世の中の大半は自分の専任天使の声を聴かないままで暮らしている、って現実を考えたことはあるか? 天使がいなくても助け合ってるひとたちもいる。たしかに天使の啓示があることで日常が有利に進むことはあるかもしれない。それも認めるよ。でもそれは誰に対して有利なんだ? 庶民層やスラム層から富や機会を吸い上げていないと言い切れるのか? おれ、短いけど旅をしてきて、誰にでも天使が付いているか、誰にも天使がついていないか、どっちかがいいなと思った」
「それは極論だろう。〇か一〇〇かじゃない」
「これって〇か一〇〇かの考え方なのか?」
「天使が必要が不必要か、なんて考え方は、極論だろう」
「ええ、そうなの……?」
茉莉花と凛は少し困惑した表情を浮かべ、整は眼を閉じて上向いた。何と言っていいかわらかないという表情だ。
「後ろの三人は、なんかちょっと違う意見なのか?」
「わたしたちには、はじめから天使がついてないし、専任天使がいると言われても実感したことはまずないわ。わたしたちはわたしたちの力と判断で未来を切り開いていくのよ」
「それが、当たり前だと思って生きてるからなぁ……」
「専任天使がいたとして、私はそばにいてくれてるって信じることが嬉しいなって思うけど、話し合えるなら嬉しい……かな。でもずぅっと啓示が欲しいとか、誰かより有利になりたいってことじゃないし、よく分からないな」
「少なくとも、おれたちからみて天使付きは天使がいない人間より「有利」だ」
「生きる上で、富としても、機会としても、知識的な経験値的にも、あらゆる意味で「有利」に思える」
「天使付きじゃなくなったら、きみたちはどんな風に生きたいって思うんだ?」
この質問に、三人の天使付きは絶句した。
「天使付きじゃなくなったら……? 啓示がなくなったら?」
「そんなこと考えたこともないな」
「生まれてから相談事は天使にしてきたし、死ぬまで居る存在だし」
動揺した声で天使付きの三人は返答する。
「でもわたしたちには居ないんだよ……そういう人のが大半なんだ、現実として」
「……」
「その人たちの上に立っていることが、あなたたちにとっての「世界を回す」ことじゃないの?」
凛の言葉は、天使付きの三人の心に突き刺さったようだった。
顔色も悪く、じっと黙り込んでしまっている。
「……なんて返していいんだろうな」
ぽつり、と衛が言ったあとは誰も声を発しなくなった。その場を沈黙が支配する。
「……考えたことがないなら、考えてみてほしい。天使が居ない暮らしを」
「……天使付きに天使が居なくなったら……世界的に大混乱になるだろうな」
「そう思ってるのも、天使付きだけだと思う」
整が駄目押しの一言を放つ。
「天使付きに天使がいなくなったら、天使付きが困る。それだけだ」
「……」
「その感じだと、天使付きが天使を手放すことはなさそうだな」
「……きみだって、天使付きになって、もう自分の専任天使を手放せないだろう?」
いずるが、声を絞り出すように啓に言う。
「おれ?」
おれかぁ……と隣のルエルを見た。
「おれは、ルエルが見えなくなってもいいかな。それで啓示が受けられなくてもいいよ。おれも自分の力と判断で暮らすほうが生きている実感がある。それに、別に天使が離れるとかじゃなくて、見えなくて話せなくても、変わらずおれの隣にいるんだろ? ルエルはおれと共に在るんだったら、それ以上を望まなくていいんじゃないか。それが天使っている存在というか」
天使付きの三人は、啓の言葉に揃って頭を抱えたようだった。
「啓は……天使付きになった人間が、天使の実存を否定する側になるなんて思わなかったな……」
「啓の考え方はわたしたち天使付きには衝撃的すぎるわ。でも一理ある。どうしたらいいのかしら、今この場では結論は出せそうにない」
陽菜といずるが困惑のままに呟いたのち、衛が口を開く。
「啓は、このまま大人の天使付きと話し合うと、命の危険があると思う。だったら、まずおれらと話し合ってみる気はないか。おれらと話し合って、おれらが変わるか、啓たちが変わるか、決裂か融和か」
「え、じゃああれか、ぼくエアシップでそっちへ向かおうか」
「おれもそれを考えてた。いずるはもう普通形態のエアシップ免許があるだろ? エアシップなら五人くらい楽勝だし、半日か一日足らずで俺らの住む時間の街まで来れる」
「七人で会って、顔を合わせて話してみるってわけか」
「そういうこと」
「問題は、ぼくのエアシップがないから親から借りなきゃならないってことだよ。事情を話したら父さんも母さんも絶対啓の反対側になる気がするし」
「するねぇ、おれもいずるも両親が天使付きだからな」
「うーん」
天使付き三人の話し合いを見ながら、啓たち同士で目配せし合っていた。
このまま、この三人まで巻き込んでしまっていいのか。少なくともこの三人は敵になろうとするのではなく、啓たちの味方になりたいと思って、そして考え方の相違に戸惑っているといった感触がある。
「おれたちのこと放っておくってことは、できないんですか」
啓が控えめに口を挟む。『経済の街』のスラムから出てここまで来れた、これからもなんとなくそのままで行けるような気もする。それは儚い希望であってゆめまぼろしかもしれないのだが。
「言いにくいことではあるけれど、放っておいたらきみたちいずれ……おそらく命を狙われるかもしれないよ。放っておくってことは今のぼくらにはちょっと選択肢にないな」
「そうなんですか……」
「とりあえずぼくは家からちょっとエアシップの鍵を拝借してくる。ここから近いし、両親は今は仕事ですぐには気づかないだろう。このホテルの最上階に持ってくるから、上で待っていてくれ」
『啓、そしてユリエル』
『そうですね、いずるには急いでもらうしかないでしょう』
「なに? ルエル」
『啓示として、いずるには急いでそうしてもらうしかない、ということです。そうでなければ、天使付きの三人が我々四人と一同に会することは難しくなります』
「どういうことだ? ぼくが鍵を急いで持たないとならないのか?」
『どこへ動いても同じです。丁度今は、いずるの両親が定期的に啓示を受ける時間になりますから』
「うわ、うちの両親が絡むのか。分かった全速力で行ってくる。四人は屋上で」
「わかった」
タブレット端末を啓に渡すと、そのままいずるは出て行ってしまった。
四人はどうしたらいいのか分からなくなり、タブレット端末の二人に視線を集めると、二人はそれぞれの天使と話し合っているようだった。
「ちょっと待ってくれ、というか啓たちは啓の天使を話してくれ。ここは鍵のカードを置いたままでいい。あと十五分で完全に屋上に移動する。結構シビアだ。きみたちの存在がいずるのご両親に開示された。詳しくはないが、天使付きと天使付きじゃない合計四人とぼくたちが接触したのが伝わっている。ご両親がいずるのことを案じていて、いずるがどうしたいのかを聞いている。下手したら飛び立てない。急いで荷物を持って、屋上へ」
「うん、ルエルも同じことを言っている。これは天使付き同士の情報戦的なところがあるから、実質的に動いたちょっとの差が未来を変えていくんだ」
「情報戦なんて言葉、おれたちは初めて聞くよ」
整の表情は、参ったな、と物語っているがちゃんと大きめで重い荷物を手に取り、部屋から出て行く準備を着々と進める。四人はタブレット端末を抱えて屋上へやってきた。
『いずるがエアシップの鍵を獲得しました。ご両親はエアシップの鍵があった自宅ではなく、ここに直行してきます。会っていた天使付きが<見えない天使付き>のことまで知っているでしょう。わたしたちがこの世界自体の「鍵」となっていることに気付かないとは思えません。屋上で会うかもしれませんが、とにかく乗り込むことに専念してください』
「ご両親に捕まったらどうなるんだ?」
『啓のいのちが危ぶまれる可能性が強まります。わたしを始め皆が全力で止めますが』
「うわ、じゃあ急がなきゃ」
「三人の影に隠すように啓を取り囲むのよ」
「エレベーターじゃ最上階まででRがないぞ」
「そこからは非常階段で行こう」
四人は屋上まで慌てるようにして上がった。
目の前には高層ビル群が広がり、反対側の眼下には庶民街が広がっている。遠くに、この『命名の街』のスラムと思われるバラックの区画も微かに見えた。
「風、強い……!」
茉莉花が髪を押さえる。ビョォォ、と高層ビル群からのビル風が吹き抜けてくるのだ。
「ここにエアシップ、到着できるの?」
『ビル風はあと三分で止まる気象予測です』
「エアシップの到着は?」
『四分後です。また七分後にはまた吹き始めます、今だけの凪です』
「マジか」
『そろそろいずるのご両親もこのホテルを目指して検索している頃ですね』
「マジかー」
そのとき、高層ビル群から小型のエアシップが現れた。ある程度の高度を保ち、ビル風に吹かれているだろうに流されることも少なくこちらの屋上へ向かってくる。
「いずるのエアシップだ」
『一分早く到着します、ご両親は予定より三〇秒遅く入られますね』
「そんな秒刻みなのか⁉ この展開」
『そうですよ、一瞬で決まるのです』
「うえぇ」
ぐんぐん近づいてくるエアシップ。その運転席にいずるが見える距離になったかと思うと、もう屋上に到着していた。小型ながら高速艇なのだろう。
屋上の上空に停止すると、扉が開いて梯子が降ろされた。
『これを上っていってください。屋上に着陸する時間はありません』
「まず啓から行かないと」
「いや、おれは最後に行かせてくれ。三人を危険に晒したくない。間に合うってルエルが言った」
「分かった、出来る限り急ぐわ」
タブレットを荷物に差し入れて持った茉莉花、凛、そして整が次々乗り込んでいく。
「おれが梯子を持ったらそのままホバリングから出発してくれって、天使に伝えてくれ」
『はい、啓』
「いずる! いずる!」
屋上の扉が開いて、二人の大人が現れた。続いて二人の天使。
「……! <見えない天使付き>、天使の言うのは、あなたね」
もう梯子に足を掛けるところだった啓が、振り向いていずるの両親を視認した。
「うちのいずるに関わらないで! あなたのような世界の「鍵」、奇跡のような存在は世界を大きく変えるのよ!」
「おれが関わりたくて関わったんじゃないし、おれはおれの四人の家族を一緒に居たいだけです」
エアシップがホバリングから発進に変わる。
何か両親が声を上げたが、梯子に足を掛けたままの啓を載せて、エアシップは屋上から更に上空へと浮かび上がり、飛び去って行った。
いずるの両親は、屋上のあと一歩というところで、エアシップを見送った。
「行ってしまったわ……このままにしてはおけないし、今あの子は何処へ向かっているの?」
『『時間の街』です』
「ありがとう、じゃあ、『時間の街』の高官に連絡をいれましょう。まだ<見えない天使付き>のことは上層まで情報が行き渡ってないないようですし、うちのいずるに何かあっても大変ですもの。あなた、今から『時間の街』の方へ連絡をつけて」
「ああ、そうだな……いずるがどうなるのかが心配だ。今後のことは天使に適時訊ねてみよう」

啓も無事にエアシップに乗り込んだ。
「このまま、衛と陽菜の居る、この鍵の国の首都『時間の街』まで行く。まぁ、夜には着くかな……暗いけど、うちの両親に見られたんだろう? 啓。そしたらうちの両親のもらう啓示が多分ちょっと増えるし詳しくなるし、『時間の街』に行くのもバレてると思うから、まぁ、衛と陽菜の両親とも連絡を取るだろうな」
「衛と陽菜に、タブレットを繋げたほうがいいか?」
「そうだな……いや、AIの居場所のほうの探知をしてもバレるより、天使を介して話したほうがいいような気がする。ぼくのユリエルと、啓のルエル? かな? が、衛のセルエルや陽菜のサナエルと話していったほうがいいと思う。ちょっと面倒だけどね」
「天使にも名前があると、おれたちが覚える名前が多すぎてあたふたする……」
「はは、気にしないでいいよ。それにしても、衛と陽菜と、合流できるかなぁ、ちょっと心配かな」
『いずるのご両親は、啓についての存在を国の天使付きの機関に連絡したようです。いずるは、見つかり次第保護されるかもしれませんが、手荒に捕まったりはしませんよ』
「っていうことは、ほんとにおおごとになってきちゃったってことか……」
『啓の考え方や、どうしたいかっていうことについては、啓からしか聞けません。天使が居ない世界に戻ってもいいのではないか、という啓の気持ちを知っているのは、この五人と、タブレット向こうの二人の合計七人だけです』
「それって、危険を遠ざける要因になるか?」
『……残念ながらなりませんね』
「だよな」
うーん、と啓が渋い顔をする。家族と思う三人も巻き込んでしまった。今日会った天使付きの三人まで巻き込んでいる。どうするのが一番いいんだ。
『啓は啓の考えを変える必要はありません』
ルエルが啓の考えを読んでいたのだろう、返答してきた。
『天使付きの人たちが考えているように、啓はこの世界にとっての「鍵」です。それをお伝えしておきましょう』
「鍵……? って、いずるのご両親も言ってた。奇跡のような存在は、この世界を大きく変えるんだって」
「そういう運命に、啓が飲み込まれたのか」
整が唸るような声を出した。
「おれにとっては、啓は同い歳だけど、弟みたいなものだからなぁ……啓が世界の運命みたいなものを背負わなきゃいけない必要なんて何もなかったはずなんだ」
「そうね、啓は普通に暮らしてきた普通の人でわたしたちの家族よ」
凛も頷く。
「それが、世界の『鍵』って言われるような……この国自体が『鍵の国』なのに、鍵の国の鍵って、もう世界をどうにかしそうじゃないか」
「怖いな、おれはおれだよ」
啓は、肩を竦めて一言だけ声を発した。
(本当に、おれはおれだよ。なんでもない、こないだまでスラムで暮らしていて、一念発起して旅に出たけど、おれはただのおれのままだよ)
啓は、ルエルという天使を見えるようになってからの激動の日々に食傷を感じた。決してルエルが邪魔だとも、そして便利だとも考えたことはないが、天使が見えなくてもいい。大事なひとと一緒に暮らしていけるのがいい、啓はそう思っている。
『啓、AIのタブレット端末を立ち上げられますか』
「なんだ?ルエル」
「ぼくのユリエルも今ぼくに話したんだが、AIを立ち上げて、『時間の街』の二人と連絡を取ったほうがいいらしい。なんだろう、二人にいいアイデアでも浮かんだのかな」
「どうだろう、そうだといいね」
茉莉花から啓がタブレットを受け取る。
運転席隣に座っていたユリエルがやってきて、啓にタブレット端末の立ち上げ方を教えてくれた。
「ありがとう、なんか人間みたいなんだな……」
『一応、わたしはルエルと違って受肉していますので。いずるの意志に従って必要なことをお伝えしただけですよ』
そう言い残すと、またユリエルはいずるの隣の助手席のようなところに座った。
改めてこのエアシップの内装を話そう。
前方の左側が運転席、右側が助手席(あるいは天使付きの天使が座る定位置なのだろう)がある。そしてその後ろにL字ソファーがある。その間に入口があるが、入口に近い順から、啓、整、凛、そしてL字の曲がった先に茉莉花が座っている。小ぶりのテーブルが備えつけられ、その後ろには小さなシンクも見えた。地上にあれば小型のキャンピンクカーと名付けられるような設備の快適さだ。ちなみに定員はおそらく八名から十名だろう。この世界の家庭用エアシップは、四人乗り(天使付きで八人乗り)から五人乗り(同様に天使付きで十人乗り)が主流だ。そして道路は舗装されていなくて自動車という乗り物は存在しない。馬車が一般的な乗り物だ。空は、天使付きの人間だけが航行できる特別な手段であるため、ロストテクノロジーにも近い飛行艇(しかもこのエアシップは高速艇なのでより高額だろう)が行き来している。免許は十八歳以上なので、いずると衛が持っている。ただ、高額なので、天使付きの一家でも一台所有するのがせいぜいといった乗り物でもある。
「あ、点いた」
タブレットの画面が白く明るく輝いたかと思うと、一つのホログラム画面がぼうっと画面上に立ち上がった。
(さっきのどちらが現れるんだろう)
無意識に、衛か陽菜のどちらかだろうと予測する。
「多分デフォルトなら衛になると思う、衛とはいろいろ宿題や議論をするからデフォルトの立ち上げに入れてるんだよ」
四人の期待の心を読んだかのようにいずるが声を掛けてくれる。
そういう間もなく、ザザ……と一瞬ノイズが走り、そして画面は繋がった。
「啓、居るか? 衛だ。いずるとは合流していると思うが無事か」
映ってすぐに衛が啓を探すような口ぶりなのが飛び込んで来る。
「おかげ様でなんともないよ。衛、なんでそんなに慌てているんだ」
「先に伝えると、こっちの大人の天使付きに啓の存在が伝えられてる。『時間の街』に着いたら、そのまま君は天使付きに保護されてこっちの街の高官のところへ連れて行かれるかもしれない」
「えっ?」
啓は耳を疑った。スラム育ちのおれが、高官? えらいひと? と会う? 一瞬そのことで頭がいっぱいになりかけ、そしてあとの三人のことに考えが巡った。
「おれが天使付きに保護されるとしたら、ほかの三人はどうなるんだ?」
「ほかの三人は話にも上らない。たぶん天使付きじゃない三人が同行しているのは知られていないんだ。でも、イレギュラーに混じっていると三人は拘束される可能性があるね。いったん『時間の街』の手前で三人を降ろしてから『時間の街』へ入ることを勧める。三人はそれぞれの足で『時間の街』に入ってきたほうが安全だ。いずるも、保護の対象だから大丈夫。問題は啓だ。啓が降りると、全部の天使付きの目は啓に注がれているから……三人とは別行動をとったほうが、今はいいよ」
「そんな……」
「啓が高官?って街を治める側の役人……てことだよな。そいつと話すっていうけど、いのちを狙われてる可能性はあるのか」
「無いとはいえない。地位のある役人がどう考えているのかは、おれらには知りようがないよ」
「そんなことって……」
茉莉花が悩まし気な顔をした。『時間の街』へ行きたくない、そんな人とは会いたくないという表情がありありと見て取れる。
「……ルエル、逃げる手立てっていうのは」
『ありません。啓はこのまま『時間の街』へ入る以外の選択肢は取れないと思って下さい』
「そうだよなぁ」
天使からの啓示、というのは、啓たちにとっては<神様からの啓示>のように思えるものだった。未来の予知と調和、という言い方をすると少し難しいが、啓たちのような無学なものから見れば、天使からの啓示は<絶対>なのだ。それに逆らったところでろくなことにならない。逆らうことはできるが、啓示された内容よりいい結果に結びつくことはないのだ。
「茉莉花たちの三人が先に降りるっていうのは」
『いい考えだと思います、三人の安全が図れるでしょう』
「じゃあ、どこで待機してもらうかだな」
啓がうーんと悩んでいると、凛が少しご機嫌な声で言った。
「啓、わたし『時間の街』に来れたのって生まれて初めてなの。この国が「鍵の国」たる由縁の「始まりの鍵穴」を見に行きたいわ。広大な聖地だし」
「凛、意外と呑気だな、このタイミングで観光か」
整がちょっと呆れた声を出す。
「こんな時だから、こんな風に遊び心も必要なのよ。それに『時間の街』はこの「鍵の国」でも最大の都市だわ。絶対どこもかしこも迷路だと思うもの。その点、広大で壮大な聖地は人の出入りも多くないし、静かで、わたしたちみたいな存在がいるにはうってつけじゃない?」
「「始まりの鍵穴」かぁ……悪くないな」
いずるが呟くように言った。
「何かあったら「始まりの鍵穴」に集合しよう。啓もだ。ぼくの直感なら、啓の抱く希望なり、望みなりは「鍵穴」の存在そのものに関わると思う。そうしたら、他の場所のどの鍵穴より、「始まりの鍵穴」が何より最適だ」
「そこに行けば何かヒントがあるって?」
「ヒントというか、分からないけど、見てみたこともないのなら見てみて考えてみてくれ。あれは鍵穴というだけの単純なものじゃないからね」
「へぇ……」
「あ、空に何か白いものがちらついてる」
「え? なんだいずる」
気が付くと、エアシップの外界を雪がちらついている。
皆は窓の外に張り付いてこの雪の降りゆく様にかじりついた。
「これ、なに?『経済の街』で見たことない」
「これは、たぶん『雪』だよ。普通なら「時間の街」でも真冬にならないと振ってこないのに。気象異常か。ますます奇跡の予兆だな」
「なんだ?天気がおかしいと奇跡の予兆だったりするのか」
「今話した「始まりの鍵穴」は旧くからある高層タワーの更に上空にあるんだけど、気象異常が起こるってことは鍵穴にも何か影響のあることの前兆なんだ。今は秋だから、雪なんて降らない。上空高いところではあるし寒いけれど、雪がちらつく理由にはならない。けど、雪が降り始めた。これは『時間の街』も同じだと思う。こりゃ本格的におおごとになりそうだな」
「マジか……」
頭を抱える啓と寄り添うが見えないルエル、それを心底気の毒に見る整ら三人と、タブレット端末ごしに話し合い続ける衛と陽菜、いずる。ただそこに佇み、座っていてたまにいずるに応答するだけのいずるの天使ユリエル。幾人もの存在がそこに介在するが、本当の答えは誰も口にしない。
天使は求められたことに関する啓示は話すが、むやみには示さない。啓示は真実的には絶対ではないのだが、絶対にとても近いところにある。そういう基本的な天使学についてすら天使付きだけが学んだことで、この場の人間たちで共有もできていない。
重い空気がいよいよ定まってきて、啓は考えていた。高官の前で何を訊かれても、自分が思うことを話そうと。他者をだますことは可能なのだろうが、自分自身をだまし偽ることはできない。自分の思いに正直に言いたい。
その場が与えられるとするなら、自分自身のままで、口を開きたい。

『時間の街』がおぼろげに……蜃気楼のように高層ビル群が見えるあたりで、茉莉花、整、凛はエアシップから降ろされた。
「ここで降ろされたほうが、三人にとっては安全なのは間違いない。距離はあるけど、時間の街へは自力で着いてくれ。落ち合う場所は『始まりの鍵穴』で」
「了解」
「またね」
「きみたちの存在をバラさないためにも、今はタブレット端末などのAIは渡せないけど、またすぐ再会できることを確信しているよ」
「ありがとう、わたしたちも精一杯目的地へ向かうわ」
「よろしく」
「啓」
茉莉花は、啓に声を掛ける。
「少しの間、一人になるけど、ひとりじゃないからね」
「ああ、分かってる。おれには茉莉花や整、凛の三人が付いてる」
「出会ったばかりだけど、天使付きの三人も啓のこと尊重してくれてると思うわ。天使付きの三人とも協調する気持ち、忘れないでね」
「うん」
お互い別れると、速やかにエアシップが発進した。長く止まっていて天使付きに要らぬ啓示が下されるくらいなら、さっさと別れて未来のために対策を練る。
「行くぞ」
いずるが、心を決めたように言った。
「ああ、よろしく」
二人だけ、いや正確には二人と天使二人だけになって静かになったエアシップは『時間の街』へ向かう。
二人になってすぐ、衛と陽菜と繋がっていたタブレット端末の回線が切れた。
「すまん、両親が部屋から出てくるように言ってる。おれもタイムアウトだ。約束の場所にはたぶん……両親と待ってることになるかもしれないけど、出来る限り行けるようにする」
「わたしは、衛の家に行くわ。実家の両親は天使付きじゃないからわたしのことに気付いてないけど、わたしはわたしの意志で、『鍵穴』から生まれ出た天使の天使付きとして、真剣に啓のことを考えているつもりなの。衛が身動きとれなかったら私が約束の場所へ行くわ。じゃあ回線はいったんこれで」
そんな話で、タブレット端末はいまはただの板になってそこに在る。
「もうすぐ『時間の街』に入る。西区の郊外を目指すけど、……遠くからエアシップが来てるな。これ、たぶん政府関係の高速艇だ。逃げきれないし、逃げなくていいんだろ」
「ああ。逃げても隠れても仕方ないって分かってることだし、連れて行かれるところで着陸するしかないな」
『時間の街』の郊外地区へ入る辺りで、『時間の街』から数多くのエアシップがいずるの高速艇を取り囲んだ。ゆるやかに着陸地点を誘導している。
「これ、郊外は降りれなさそうだ。ついていくしかない」
『付いていってください。衛も陽菜も、到着したところに集められています』
「いよいよ天使付き四人が集まるって――どころの数じゃないだろうな。啓、天使付きの世界の真っただ中に放り出されるだろうけど、覚悟してるだろ」
「ああ」
「うん、郊外じゃなくて、高層ビル群の円環の真ん中――平たくいうと、「鍵の国」王都にようこそ。これ王宮に連れていかれる最悪のパターンだ」
「王宮に連れて行かれても、王の前に出されるわけじゃないだろうからなんとかなるよ……」
「それを祈るね」
誘導されるがまま、多数のエアシップの乗降場と思しき広い敷地の上空まで来た。
そこに降りるように合図されて、いずるは緊張しながらもゆっくりとエアシップを着陸させる。
啓も立ち上がった。
「衛と陽菜もいるはずだ。降りるぞ」
「了解」
シップのドアを開ける。まずいずる、次いで啓が降りた。
周りには警備兵と思しき存在が多数取り囲み、仰々しい騒ぎになっている。
「なんかもう、大犯罪者か有名人にでもなった気分だよ、ぼくですら」
「これがおれのためにこうなってるとは間違っても考えたくないな」
「それが事実だよ」
「いずる、ひさしぶりだね。きみのご両親からこちらの役人とうちに連絡があってね。衛と陽菜も待合室に来ている」
「衛のお父さん、お久しぶりです。三年前に『命名の街』へ転居したとき以来です……」
衛の父は優秀明晰な「天使付き」としてここ王都の中核に勤務している。
(まぁ、そういえばそれでバレないはずないんだけど、この仰々しさ一体何事だ)
いずるは小さな溜息を付く。気まずさ百パーセントだがどうしようもない。
「後ろに立っているのが、奇跡の予兆の<見えない天使付き>の子かな」
「そうです。彼の専任天使は平常時では全く見えません。でも、天使の意志である程度の可視化、視認できるくらいの顕現は可能です。ぼくはそれを目撃しました」
「な……受肉していない天使が? 視認できるほどの……詳しい話は後で聞こう、いずる君はいったん待合室で衛と陽菜さんといなさい。きみはこちらへ。ああ、そういえば名前を聞いていなかったな」
「啓です」
「啓君か、きみは別室になる。いずる君はうちに連れて帰る予定なのでね」
「えっ」
「いずる君、きみと陽菜と衛と三人は保護対象になっている。衛は言うことを聞かないが、せめてうちなら連れて帰れるから、とにかく来てもらうよ。君たちの話は私たちが聞く。啓君の話を聞くのは、……私では力不足でね……沙汰は部屋で待っていてくれ」
「……はい」
衛と陽菜に会えると思っていたが、そうはいかなかった。それだけではなく、啓だけに(ルエルもいるが)されてしまった。なんというか、正直心細い。
(仕方ないよな、おれに起こってることで、周りが浮足立ってるみたいな状態だもんな)
『時間の街』までくると、スラム育ちの啓にははっきりと違和感が感じられた。スラム……貧困層のローテクでレトロな暮らしや農村部の穏やかで地に足をつけた暮らしと、天使付きの暮らす旧世紀のテクノロジー遺産ともいえるハイテクノロジーによる高層ビル群とはまったく異質であった。天使付きだけが異質なまでの高度文明の恩恵を受けているが、この世界にここまでのハイテクノロジーが局所的に必要なのだろうか。必要かもしれないとするなら、ごく一部の人間が掌握するのではなく、自由競争に基づいて活性化していってもいいのではないか、そんなことをちらりちらりと啓の頭の中を過ぎていく。
「天使がいる暮らしと、いない暮らし……」
啓は一人きり、出口に警備(丁寧に天使付きの警備員である)がついている部屋に押し込まれしばらく待つように言われているので、小声で独り言をぶつぶつ言いながら考えをまとめる。
「全員が天使の居る暮らし、は、物理的に天使が溢れすぎて暮らしていけないかも……じゃあ、代わりに天使の居ない暮らし、は……物流が止まるのが一番ありそうだな。戦争とか起きるかもしれない。物の奪い合い? 天使がひとりもいなくなったら少なくとも天使付きの争奪戦はなくなる、物の奪い合いは、まぁあるな。人は……人は、高層ビルには住み続けられなくなるかもしれない……交じり合っていく……」
『啓、独り言ならもっと小さな声で話しましょう。啓の独り言は自身が思っているより大きいですよ』
「大きくないよ、なんでそんなことを、あ」
警備員の天使が耳打ちしている。警備員にとっては、啓が何を話しているのか暇つぶしに少しでも知りたいのかもしれない。事情を知らないで警備するより事情を知って警備したいだろうということは分かった。
「…………⁉」
警備員と天使は何度か耳打ちし合った挙句、その後がっちりと扉の施錠を確認した。
啓はうんざりしてきたので、どのくらいの高官がやってくるのか考えてみることにした。
(ひとりかな。もっと多いのかな)
頬杖をついてぼんやりしていると、やがて扉からノックの音が響いた。
「こんにちは、失礼しますね」
一人の中年女性と、おつきの者と思われる人たちが数人。全員が天使付きだ。
(ここに暮らしている人はみな天使付きなのか? すごいな。天使付きっているところには居るんだなぁ)
啓が妙なところに感心していると、中年女性は「ソファの前に座ってもいいかしら」と言って来たので、「もちろんどうぞ」と返す。
「ありがとう。私がこの王都で事務次官、つまり事務方の責任者をしているファラィといいます。この天使は私の天使でラエルです。少しあなたと私がお話をして必要だと判断した場合はさらに上に取り次ぎます。私で終わることも大いにあり得ますけど、あなた次第ね、啓」
「はぁ」
啓は気のない返事をするよりほかなかった。この物腰柔らかな中年女性が国の高官のようである。この国って女性も高官になれるんだ。知らなかったけどそれはよかった。茉莉花や凛が活躍できる可能性は都会にはあるということかもしれない。なんとなくスラムの腕力が幅を利かせた男尊女卑社会と比べて、そんなどうでもいいことを啓は考えた。いや、もう自分の境遇が急展開すぎて現実逃避を始めていると言っていい。
「衛や陽菜、そして『命名の街』のいずる、彼らとは面識がありますね?」
「面識があるっていうのは、いずるとだけ、衛と陽菜は、ええとなんだ、板みたいな、あれからの」
「タブレット端末のホログラム?」
「そうそれ。それを通じて話しただけで、会ったわけじゃない」
「衛と陽菜、そしていずるもなかなかごねて帰宅しないのよ。肝心なことを三人とも言ってないように思うわ。面識があるのは、以前からなの?」
「いいえ。『命名の街』でいずるがおれ……を待ってて、話をしているうちに、三人が深刻そうな顔になって心配だって言ってた」
啓はあやうく「おれたち」と言いそうになり、ぎりぎりとのところで「おれ」と言った。この人たちが探しているのは、啓一人であって、他の三人は眼中にないのは分かっている。
「『時間の街』にも雪が降りました。この秋の真っ盛りに雪が降るというのは、『鍵穴』の時空の歪みが一時的にせよ強まっていることを示します。あと、私には見えないけれど、<見えない天使付き>として、あなたの天使を紹介してもらってもいいかしら」
「いいよ。ルエルっていう。姿を見せてくれるかどうかは、ルエル次第でおれには分からないけど」
『ファラィ。天使同士でこちらはコンタクトが取れています』
「ありがとう、ラエル。啓とラエルは、奇跡という観点からみてどういう存在?」
『……ルエルも啓も、どちらも少し変わっている『規格外』の存在です』
「えっ、ルエルはおれが変質したっていったけど」
『上手に啓に理解してもらえないと判断したのでそう言いました。ラエル、私は変わっているのではなく、ただ「ずれてしまっている」だけです。それは啓の存在の変質によっていますので、私は正確には「規格外」ではないですよ』
ルエルは、ラエルの言葉を訂正した。ラエルはそれに頷きで返す。
『ルエル、一時的にでも顕現できるならそうしてください。私のファラィと直接コンタクトを、取ろうとすれば取れる次元にあなたは存在していますから』
『ちなみに啓、天使たちの会話を全文聞いてるのあなただけですから。私ルエルも顕現しましょう。そしてファラィにも説明しなくては』
「え、なにがどうなってるんだ、ルエル」
『ファラィ、ルエルが受肉せずに顕現します。これは本来の奇跡の顕現に近く、光の存在として視認されるでしょう。しかし、これはルエルだからできることです。天使付きでない、一般の人間の見えない天使はこれ自体非常に顕現は困難なのです。なぜなら』
『天使と人間とは、存在している次元が大きくずれているからですね……』
ルエルが内側から光り輝くように眩しくなる。今度こそ視認できるレベルで半透明の姿を現した。お付きの者も、入口を警護する者も、ちいさく感嘆の声を漏らした。
『――ルエルはわたしです。わたしの名は「それなるは天使」そのままの意味です』
ほかの天使を圧倒する光の量だ。後光などという類ではない、まさしく光の存在。
『この世界で『鍵穴』から出てくる受肉した天使や、接吻の受胎――腹部が鳥籠のように割れて生まれ落とされて受肉した天使と違って、一般の人間の専任天使――いわゆる一生を掛けても見えない天使はもっとずっと高次元だけに存在するエネルギー体のようなものです。啓が死に掛けるような流行り病にかかったとき、私はひととき任を解かれて啓から離れられる状態になりました。ですが、私は啓から離れないでいたのです。啓が息を吹き返したとき、私は啓の生命力に影響されて高次元のエネルギー体から一気にこちらの次元惹きつけられ、「ずれた存在」となりました。そして、ここのように受肉した天使が多ければ多いほど、わたしの「次元のずれ加減」もこちらに引っ張られて顕現がしやすくなる……ここは一種の、顕現に向いている磁場となります。ここは一体に天使付きが多いですから。もっと天使付きが密集していたなら、長時間を安定して「天使付き」そのものに準じた姿で啓に寄り添えます』
ファラィは両手を組み祈るような姿でルエルを見ていた。自分自身の専任天使にも敬意を尽くしてきたが、本来の天使という存在の清らかさと神々しさに圧倒されている。一方でラエルはなんでもなさげな涼しい顏だ。それもそうだった。ラエルはこのルエルと何ら遜色のない「天使」なのだから。
『やっと私と彼以外にもちゃんと顔と声を披露いただいて、私も説明の手間が省けて助かります、ルエル』
『ラエル、ここではこちらの人間の次元に寄るのにあまり苦労はありませんけど、それでも全く出力が変わらないわけではないです。人間でいうなら、疲れます。受肉した天使とはまったく違う仕組みで現れているのですから。でも、話はしやすくなりましたね。話を進めましょう』
「おれはルエルとラエルと、ファラィの三人の間で話していることが何にもわかんないんだけど、それはおれだけが分からないのか? 天使同士だけが分かる話か?」
「天使も天使本体のID=知性ある設計者も本来はずっと高次元に存在していると数理的に存在を証明されてはいますが、それそのものに干渉なんて本来できないのです。ずっと高次元なので」
「わー……ファラィの言ってることもわかんねぇから分からないのおれだけだな」
啓はちょっと引き攣れた笑みを浮かべた。学があるってこんな筋の通らないことにも筋が通る理屈を頭の中で持てるってことみたいだな。でもいいやおれも、ルエルが点滅するみたいに他人から見えたり見えなかったりすることができるって分かった。今は助かる。
「ラエル、ルエル。ルエルと啓の特殊性について、私にもわかりました。それで啓、あなたは天使付きとして十分な条件を満たしていると認めます。天使付きの区画に住むことを許します」
「ファラィ、おれは天使付きの区画に住みたいとか、そういうのあんまり興味がなくて」
「? そうなのですか?」
「どっちかっていうと、誰もが天使付きになれるか、そうじゃないなら天使付き自体がなくなってもいいんじゃないかと思ってる」
「えっ……?」
「大昔は、天使っていなかったんだろ? あるときから天使が生まれるようになって、天使付きができたけど、そもそもこの世界に天使って必要不可欠なのか? この世界は天使が居なくても暮らしている人間は今も多い。自分の判断と力で生きている。そういう世界で何が悪いんだろう」
「天使付きの、いない世界……ですか? 啓はそれを考えていると?」
「全員に天使が付いているっていうのは知ってるけど、見える天使と見えない天使で格差があるのは歪んでる仕組みだなって思う。全員に天使をつけるのが無理なら、全員に天使がついてなくてもいいって言ったんだ」
「…………」
ファラィはしばし考え込み、しばらく無言の時間が続いた。
「……啓、そのことについて、至急この国の王に話してみる機会を作ります。私ではその思いに関して、答えを出すには力不足ですので、王に計らって、王と直接話をしてください」
「は⁉」
この国の王と? おれが? ついこないだまでスラム街住まいの、貧しい旅を僅かにしただけの、おれが?
「何言ってるんですか、おれあなたと話しているだけで訳わからないくらいなのに」
「啓、あなたの天使が、次元を高次元にもこちらの次元にも合わせられる事実から、あなたにはその選択権があるのです――天使のすべてを高次元に合わせる選択権と、こちらの次元、すべての天使を顕現させる選択権。ひとりの天使ができるなら、その奇跡はID本体を通して他の天使もいずれは獲得します。それが何を意味するのか。あなたが想定していることのどちらかを遅かれ早かれ選択する岐路が出てくるということです。王にはその現実を一刻も早く耳にし、今後について鍵を握る啓と話し合い未来を決める必要があると感じました。丁度いまの時間、王は休憩しておられます。急ぎ時間を作りましょう」
「な、な、な……? え……?」
啓としては頭が追い付かない。なにやら難しいことを言われている気がする。
そもそも、おれが鍵を握るってなんだ? おれに何ができる? おれは、ただ、この不公平な世界が、もう少し誰にも等しい機会があってほしいと思っていただけだぞ。
「ラエル、王の天使へ伝えてもらえますか、何よりそれが一番早い」
『今の会話を共有していましたので、今王に伝えています。ああ、今王が来ると決断されましたので、今ここで待ちましょう』
「では、ルエルと啓はここで私たちと王を待ちましょう。正式には王の間で謁見をしますが、そういった儀礼的なことを王は気にしませんので」
「ええ……」
『啓、啓はそのままでいいのです。ルエルと話し皆と共にいる啓のままで、話をしてください』
「ルエル……なんかすごく心強いよ。ありがとう」
この国の鍵、と言い表されたが、ここは鍵の国。『始まりの鍵穴』のある国。もしかしたら、試されているのかもしれない。この国に、人間に、天使に。
(――でも、そうだな、ルエルの言うように、おれはおれのままで居ればいいんだ)
周りが慌ただしく王の来訪に備えて場を整えていたが、啓はいざなわれるままに下座に移動して、頭を垂れ膝をついて待った。
「ファラィ。ラエル。私の天使である知天使ウリエルから聞きました。先の話でファラィが会うと言っていた、啓という子が、この国の未来の鍵である可能性について現実的なものであると」
「王」
王、と呼ばれたのが細身の背の高い女性だったので、啓は本当に驚いた。
王、としか聞いたことのないこの国の頂点に立つ存在は、女性だったのか。
「王、」
「よい、そちらの子どもがファラィに言っていた啓か」
はっとすると、周りの者はみな傅(かしず)いている。啓も慌ててそれに倣った。
「はい、この者が啓です。啓、王が直接お声を掛けている。お答えしなさい」
「え、あっ、はい。啓と言います」
「面を上げて私を見なさい。話はそれからだ」
啓は慌てて顔を上げる。妙齢と思われる、美しくそして凛々しく感じられる雰囲気の女性が目の前に立っていて、目が合う。ちら、と隣も見てしまう。隣に立っているのが、彼女の天使ということだ。
その目線に気付いたのか、王は自分の天使に目線を向けた。
「彼の天使が見えるのだが? <見えない天使付き>だったと聞いていたのにな。まぁ、見え方が普通の天使付きと違うのは、そのことが関係しているのか?」
『今だけのしばしの顕現のようです。この顕現が可能なこと自体が啓と啓の天使ルエルを特別化しているとも言えますね。存在している次元が、ずれているのです』
「存在している次元がずれる? ふむ」
もう一度、王は啓と目線を合わせた。
今度は、許されているのもあって啓も目線を外さない。
「おまえはどのように特別なのか。未来の「鍵」という可能性がおまえにあるということらしいが、どういうことなのか己の口で説明できるか?」
「未来の「鍵」だなんて、思ってここに来てないです」
「ほう?」
王の目線がファラィに向く。
「恐れながら、彼の思想には独自のものが感じられます。その思想自体がこの世界そのものを大きく変える「鍵」でありながら、彼が無自覚に世界を変える可能性があり、王をお呼びしました。私では決断に力が足りません。私個人は異を唱える感情が強くあります」
「どういうことだ? 啓」
「おれは、もともとおれたちの家族四人と平穏に暮らしたいだけだ。天使付きについては、ルエルが居てくれるけど居なくてもいいと思っている。むしろ、この世界の一部だけが天使付きで、大半に天使が居ないなんて公平じゃない。天使が全員見えてもいいけど――一方で天使は全員見えなくてもいいんだ。啓示がなくたって人間は暮らしていける」
「なんと、面白い考えをする子どもだな」
声とは裏腹に、王は剣呑にも似た目つきで啓を見た。
「それは、私にも私の天使ウリエルが居なくなってほしいということか?」
「……居なくなってほしいとは言ってない。天使はみんな人にひとりは付いているって聞く。なのに、ごく一部の人間の専任天使だけが顕現して、その人たちだけが良い暮らしをしている。専任天使が見える、見えないだけで暮らしが決まるのはおかしい」
「おかしい、か」
王は、そこで一旦話を区切った。
「ウリエル、この子どもへの啓示はどうなっている?」
『仰ることを、もう少し詳しく定めていただけますか』
「……ウリエル、この子どもの言うことはIDからの啓示によるものか」
『この子どものいう事は、IDから受けた啓示ではありませんが、この者の自由意志を決める啓示もありません。人間の自由意志は時にIDを越えます。定められた運命があったとしても、自由意志そのものはそれを越えて変えていくことができるということです』
「……どういうことだ?」
『この者に関しての一切の啓示以上に、自由意志は自由であるということです』
「そんなことを天使が言うことが、初めてなのだが?」
『それは、今の王には初めてではありますね』
「それは、どういうことだ……?」
王は考え込む。啓もはらはらして見ていたが――。
「自分の天使と意志が疎通していない。こんなことは初めてだ……。どういうことだ?」
『啓、ここを出ます』
「は?」
今度は、啓が声を出す番だった。
『啓に降りた啓示は、「今ここを出ます」です』
「いや、それは出せない」
王がルエルに向かって言う。
「今は答えを出す時期ではない。というより、IDは安定した暮らしのためには必須のものだ」
「今答えを出さないなら、いつ出すんだ?」
啓は思わず王の声を遮った。
「今まで、何度だって天使付きの存在について考えた人だっているだろ。誰もが天使付きがいいなら、そっちの世界のがいいだろ。だったらそっちを望むだろ。でもそうじゃないなら、だったらいなくても、人間自体のその手で運命を切り開いたっていいだろ」
言ってから、啓は自分の言葉に驚いた。
正直なところ、誰もが天使付き、の世界を求めていたつもりがあったのに、口から衝いて出たのは、天使のいない世界を求めたいということで。
「啓、あなたを危険思想の者として幽閉します」
ファラィが声を出した。少し震えている。
「王、いいですね、この者の思想は天使付きの世界そのものに干渉したいということです。この思想は危険です」
「殺さないだけましということか……それでもいい、今の啓を自由にさせておくのはリスクが高い。捕まえて投獄せよ」
『啓、ここから出ます』
「ルエル!」
『啓示です。これはIDの設計する未来における岐路のために必要なことです』
ルエルの光が一気に輝きを増していく。捕まえようとした者たちの目が眩んだ。
「ま、眩しい……!」
「捕まえろ、目くらましで逃がすな」
しかしルエルの光はますます輝度を増すばかりで、誰も目を開けていられなくなった。
光の圧のようなものまで感じ、前へ進めなくなる。
光は部屋全体を包むこむほど光り輝いたかと思うと、唐突にすっと消え失せる。
「……?」
その場に居た全員が、恐る恐る目を開ける。
「なに……? 居ない⁉」
啓とルエルの姿は既に忽然と消えていた。

啓は、眩しくて目を閉じていた。
もうすぐ取り押さえられてしまう、という絶体絶命のところで、ルエルが「ここを出る」という。何を言っているのだ、と思ったが、頬に風が当たる。
「……え?」
啓が片目を開けると、そこは王と謁見していた部屋ではなくなっていた。
「……えっ?」
啓は大きな森のほとりのような場所に座り込んでいた。
森の中、行く手には建ってから年月が経ているであろう、古びた高層タワーが立っている。振り向くと高層ビル群が遠くに犇めいていた。
「あ、そこは……『時間の街』の中枢部……か? え、じゃあ、ここ、どこだ……」
『待ち合わせにしていた『始まりの鍵穴』のある場所です。あなたの思う何らかの選択をするのには至適な場所とも言えるでしょう』
「え……」
どうやってここに来たのか、光に包まれていたし一瞬のことで分からなかった。ただ、理解したのはルエルの光に包まれたことで、その一瞬のうちに自分とルエルが『始まりの鍵穴』の場所まで来てしまったということだ・
「こんなことって……! ルエルは特別な天使なのか? 他の天使付きの天使と何もかもが違う気がする。それとも、他の天使もこんなことができるのか」
『他の天使付きの天使は受肉しているためにさまざまな能力に制限があります。私は受肉していない分、天使として――『知性ある設計者=ID』の端末として、肉体の制限を超えています。そうですね、あの王の天使はウリエルと名付けられていましたね。私はザ・天使という存在とでもいいましょうか。つまり天使の中の天使……ミカエルの力に今一番近い天使でしょう』
「ミカ……ミカエル……?」
宗教に入っていない啓でも聞いたことのある名前だ。ミカエル。天使の中でも最強と謳われる存在、くらいにしか啓は知らないが、その力に一番近い天使が、今のルエル?
「も、もうおれの思考の範囲を超えているよ……なに言われているのか分からなくなってきた……」
『啓はよく分からなくていいですが、この世界の天使のうち現在私の行使力が一番制限がない、つまり一番力が強い、という事くらいは理解していただきましょうか』
「り……理解できない……追手もすぐ来るだろうし」
『来ません。現在地の情報には一時的にロックを掛けています。数時間の間、啓は全く他者の詮索から自由になります。そして、』
ルエルが、高層タワーのほうを指さす。
『家族と仲間は、『始まりの鍵穴』の場所でお待ちですよ』
「……⁉ 茉莉花たちと、あとあの天使付きの三人も、来てるのか?」
「あの若い天使付きの三人は、短い時間とはいえあなたにいい意味で感化されたようですね。あなたの行く末を見届けたいという願いが聞き届けられ、彼らも上手にここに合流できています。正確には、今のわたしの光と同時に、旅の途中や移動の途中の全員をシンクロさせてここに集結させています」
「はぁ……」
天使付きでもない家族までシンクロさせる、という意味はもう想像もつかない所業だが、家族の三人がシップから降りた後、無事に今ここにいることは嬉しい。天使付きの三人も、どうやって連れてこられたのか分からないが――。
「とりあえず、行くか。『始まりの鍵穴』へ」
『ええ』
二人は森の中へ入って行った。ここは一種の聖域としての鎮守の森なのだろう、原生林に近い気がする鬱蒼とした森に、一本だけ広い道が存在している。真直ぐにタワーへ延びているらしい。
「ルエル、ここは天使付きも一般も自由に入れるところなんだよな?」
『実は、入れません。天使付きもごく一部が参拝できますが、誰でも自由にはできませんし、一般の天使のいない人間はまず入り込めないところ、それが『始まりの鍵穴』です。何しろここは、天使付きだけの敷地となっていますから』
「え、そんなことエアシップの中で言わなかっただろう。それに、そんなところに茉莉花たち三人が来るなんて大丈夫なのか」
『彼らは見届け人として来ていますから』
ルエルの言う意図がわからないまま、啓は「へぇ……」と曖昧に濁した。
「……要は、おれは家族に見守られているから安心していていいってことだな」
『その解釈でも構いませんよ』
ルエルは律儀に啓の言葉に返してきた。
遠くにタワーの根元が見えてくるあたりまで進むと、前方から声がした。
「けーい」
遠くに人影が複数見える。いち、にい、さん……九名の姿があって、啓はそれが三人の天使付きと三人の家族の姿なのだと理解した。
近くまでくると駆け寄るように整が走ってきた。ほかの二人もだ。
「今、興奮して話していたの。道を歩いてるわたしたちが光に包まれたと思ったら、もうここに居たのよ」
「何が起きたんだ? これは啓の天使のおかげなのか?」
「あの人たちも、啓の天使のおかげでここに来れたのか、って言ってるわ」
口々に皆が啓に話しかけるが、啓にも分からない。
「ルエル」
と困ったように振り返るともう半透明になっていた。なんだ、今見えてるのおれだけか。
「やぁ、啓」
「顏を合わせるのは初めてだな、啓」
「わたしともはじめましてね」
いずる、衛、そして陽菜がそこに立っている。後ろに控えている天使三人はそれぞれの天使だろう。
「三人とも……どうしてみんなが一同に揃っているんだ? 話が飲み込めないんだけど」
「おれたちのほうが啓に訊きたいよ。引き留められて事情聴取されてたぼくたちの天使がそれぞれ光り輝いたかと思うと、いきなりここに立っていた。三人とも。こんなことは天使付きとして生きていても初めてのことだよ。啓と啓の天使のことがこのことに関連しているのはメンバーを見て確信したけど、一体どういうことなんだ?」
「えー……おれも、王に謁見になって、幽閉されそうになったらここに飛んできた」
「はぁ⁉」
今度は全員が目を見開く。それもそうだ。急展開を啓とルエルの二人だけで切り抜けてきたのだから、ほかの六人が知っているはずがない。この際天使付きたちの肝心の天使三人は……省かれるんだろうな、うん、共有して分かっているに違いない。
「分からないけど、ここにおれたちが揃ったってことは、ここ『始まりの鍵穴』が文字通りキーとなる場所なんだってことなのは分かる」
「それは……たぶんそうだろうな」
「ここで、選択肢は幾つかあると思っている」
啓は、六人に向けて話し出した。
「ここで、おれたち四人が旅に出てしまい、三人は何も見なかった、ってことで今まで通りの生活」
「それは厳しいな」
「『始まりの鍵穴』に行ってみる、しかないだろう」
「あの、行ってみるっていうより……『始まりの鍵穴』に入った人っているの?」
凛の疑問に、天使付きの三人は頭を捻った。
「『始まりの鍵穴』は、どっちかっていうより『天使の生まれ出ずる出口』だから、入るって考えはおれたちにはないかなぁ。でも鍵となる存在が出入りするっていう伝承はあるよ。儀礼的に王や王族が鍵穴に来ることもある。天使からの啓示、託宣を受けるための場所をそこにするってだけだけど。国政に関するような大きな啓示を頂くってときとか。実際に王や王族が鍵穴を開けるかどうかは、……どうなんだ? 天使たちからすると」
『『鍵穴』については、啓示できる範囲ではない事柄が多く、『鍵穴』に関しては多くの質問にお応えできません、話せる範囲で話しましょう』
代表して衛の天使セルエルが口を開いた。
「過去、この鍵穴を作り開けた人物はいました。しかしそれ以来、鍵穴は「時空の歪み」という事実も広まっていて、鍵穴に入りたいという人間は稀でした。言い換えるなら、ゼロではありませんでしたが、……鍵穴へ入って鍵として機能したものは過去数名いますが、それ以外の者、鍵として機能しないものは鍵穴へセットされても解錠できません」
「うん? 何を言われているのかさっぱりわからん」
「今の王家は、鍵穴を作り開けた人物の血筋と言われています、が、血筋で開けられるものでもないのです。何事かこの世界に変調を来す天使つき、という風に人間側では言い継がれてきました」
「もう間違いなく追手が迫ってきているってことになるな」
「そうですね、猶予はあと少しです。行きましょう」
ぐずぐずしている間もなかった。聞き忘れていたが追手はもうすぐそこまで来ていて、捕まったら今度こそ幽閉されそうだ。そのまま始末されるかもしれない。
「鍵穴のところに辿り着けばいいのか? 走ろう、おれも捕まるくらいなら腹をくくる」
『鍵穴の前の間の名をご存知ですね?』
はい? と啓が返答しようとしたとき、天使付きの三人が声を揃えて言った。
「マリアと三人の天使と羊飼い」
『そうです、鍵穴のところにひとりで行っても開きません』
「それでぼくたち天使付きもここに集められているのか……⁉」
衛がはっとした顏をした。いずると陽菜と、他の四人は分かっていないのでタワーへ入り込みながら衛の答えを促す。
「マリアっていうのは取次役って意味もあるって聞いたことがある。マリアは啓自身としても、三人の天使が居ない。それが今回はぼくたち天使付きが天使の役割を担うんじゃないのか」
「ってことは、集まるのに約束してた三人も、羊飼いとして必要?」
「鍵を開けるのに、天使付きも天使なしもひっくるめて合計七人も必要なんて、どんな大きな鍵穴なんだか……ってどこにも階段らしいものがないし」
『上がるのはあの柱の箱に入ります』
セルエルが指し示すのは、かつてのロストテクノロジーのうちの高速エレベーター的なものだったが、それを知るものはここにはいない。だが、天使が指し示した扉の中に、迷わず七人は飛び込んだ。扉が閉まる。閉まる間際にタワーの入り口で騒ぐ声が聴こえた。
上昇を始めるエレベーターの下には、もう彼らを捕まえるための者たちに取り囲まれているだろう。ぐんぐん上へあがっていくこの箱がそのまま鍵穴を開けるのか、そうでないのかも分からないまま七人は上昇を続けていく。
どこまで上がったか分からないくらい長い時間ののち、エレベーターは最上階に着いた。
開いた扉から恐る恐る七人は出る。ものすごく寒かった。
『しばらくこの箱は動きませんので、下の者は上がって来ません』
セルエルが言ったので、衛が「やーおれの天使は話し好きで申し訳ない」と笑った。
皆、一様に首を横に振ったが、セルエルの解説が入るのは、どうもルエルの代わりをしていくれているようだ。
ここ、天井の高い展望フロアは円形になっているようだった。そのため、ゆっくりと七人は右回りに回り込むことにし――。
展望フロアの一角に、大きな黒い洞が歪みながら存在するのを見つけた。フロアの一角というには語弊があった。展望フロアの硬質ガラスのような透明板の一部が歪み捩れながら中心をどす昏くさせている。一目でこれが『始まりの鍵穴』なのだと分かった。
「なんだこれ……こんな、禍々しいところから天使が生まれてくるのか……?」
『ここはゲートになっています。今、ここから一人の天使が生まれるところですね』
天使が生まれる、と聞いて、七人はこちら側に空いている穴を見つめたが、セルエルは『ここからは誕生は見えませんよ』と端的にがっかりさせた。
「出口は、あの穴の<外側>です。天使は生れ落ちてそのまま対象となる人間のもとへ飛んでゆきます。実際には、見えない天使から見えない天使を生むことが多いのですが……」
「え、見えない天使も見えない天使を生む?」
「そうですよ」
「見えない天使と見える天使との子どもは……?」
「まずそのペアで結婚することが、ありません。見える天使付きは見える天使付きと結婚します」
「知らなかった……」
穴を見つめていても何も見えないなと七人が肩を落としたとき、「ほら、天使が生まれたからこれから飛んでいくところです」というセルエルの言葉に、慌ててセルエルの指さす方向を見た。一人の天使が羽根を大きく広げタワーの周りを旋回始めたところだった。二回、いや三回ほどタワーの周りをまわると、そのままどこかへ飛んで行った。
「天使付きが生まれた、瞬間……」
『そろそろ位置についてください』
「……位置?」
『マリアと三人の天使と羊飼い』
「……どういう、位置につけって?」
『少し、あなたたちなりに考えてみてください』
「肝心の説明はないのか」
七人はがっくりしながらも気を取り直して話し始めた。
「どこかに立つ印とかはあるか?」
「ないよ」
「羊飼いって、そもそも一人なのかしら、三人なのかしら」
「このメンバー的には三人って解釈でいいんじゃないかしら」
「絵もないわ」
「なんかの伝承とか……聞いたことないな」
「前には昏い鍵穴のみぞある」
「そういえば、啓は鍵穴に入ろうとしているけどなんでだ?」
「……なんでだろう?」
啓も我に返って頭を捻った。そういえば、鍵と呼ばれているから鍵穴に入るつもりになったけれど、そもそも鍵穴の向こうに何がある。
「おれは、自分の考える世界について、よりよい世界を目指していきたいけれど……どうやって変えていけるかなんて、知らないよ」
啓はそう言うと肩を竦める。みんなも苦笑して啓を見遣った。その啓へ、ルエルが近寄った。
『啓は、自分の考えるよりよい世界について改めて六人に話す時間ですね。よりよい調和にしたいなら、どうしたいのかまず理解を求めなくては』
ルエルが啓へ声を掛けた内容に、啓は頷く。
「なぁ、みんな、今話せるみたいだから話を聞いてもらいたいことならあるんだ」
「なに?」
「なんだ?」
皆気になっているのだろう、なぜ啓が特別なのか、なぜ啓は鍵穴へ来ることになったのか。そして、なぜ自分たちもここに来ているのか――。
「ルエルは、おれの考えていることや、王に言ったこととかを改めてちゃんと話す時間だって言ってくれた。聞いてくれたうえで、おれにもどうしたらいいか分からないことがある。だから教えてほしい」
そう言うと、啓は六人にその場に座るよう促した。七人は全員座り込む。
「なんとなく想像はついている。エアシップの中で聞いた。啓が言う、……よりよい世界っていうのは不公平が減る――天使付きがいなくなる世界ってこと、だよな、啓」
整が、啓に確認を求めた。啓は頷く。そこに衛は口を差しはさむ形で指摘をした。
「でも、天使付きが居なくなったらきっと世界はひどい混乱に陥るよ。少なくとも経済とか政治とかは一時的であっても滅茶苦茶になる。動かす人たちが混乱のさなかで、それどころじゃなくなる」
「それって、天使付きが困るっていうレベルじゃないってことですね」
凛の疑問に、いずるが答える。
「そう、しかも絶対といっていいが、元天使付きとなった人の一部からは、啓は絶対に恨まれるだろう。正直、そんなことになったら啓はずっと命を狙われるだろうなって思う」
「そんな……」
「じゃあ、全員が天使付きの世界は?」
茉莉花が言うが、その提案にはみんなの顏がうーん、となった。
「物理的にうちの人数が倍になるって場所の問題もあるし、天使を大切にしなくなる人も現れないかしら。自分から離れない存在なら何をしてもいいって」
「啓示に頼ってももう啓示にすらならないんじゃないか。天使が溢れかえってるなら」
「うーん……」
七人で考える。
「全員が天使付きの世界、それは物理的な問題で難しいことが多いと思う。一方で、天使の居ない――どの天使も見えなくなる世界、にしたら啓が危ない……か」
「天使が消えても――見えなくなるだけとしても、自分の天使のことは失いたくないものね」
「記憶まではなくならないから、仕方ないんじゃないか?」
「記憶かぁ……」
「世界の過去・現在・そして未来のことまでアカシックレコードには刻まれるって聞いたことがあるなぁ……天使学の授業でやった。未来のことは、天使も全部を知ってるわけじゃないみたいだから、IDは全知全能じゃないんだなってそのとき思ったけど」
「記録はされていて、それは無くならないってことか?」
「まぁ、そうだね」
「忘れても?」
「私たちが忘れることと、アカシックレコードが書き換えられることは違うわ」
ここで一旦会話が途切れた。啓も、何かが見つかりそうで見つからないジレンマを感じる。そのとき、天を仰いでいた衛が、ぽつんと言った。
「おれたちが忘れても、世界は忘れていないってことだな、この世界のことは」
それを受けて、いずるがはっと顏を上げる。
「忘れるっていうことも一緒に、IDに願い出てみたらどうなる?」
「まさか!」
七人はいずるの言葉に顔を見合わせた。
「それって、この世界から天使が居なくなることを願い出ると共に、私たち(・・・)天使付き(・・・・)が(・)天使を忘れるってことも願い出るってこと?」
「そう、なるな」
陽菜の言葉に、みんなが目を瞠った。さまざまな意味で。その解決策があったか、という閃きにも似た喜びと、生まれてからずっとそばに居た家族以上の存在を忘れるなんて、という寂しさと苦しさにも似た寂寥。天使付きがいない者と、天使が付いているものの溝。
「……でも、天使付きの人にも思い出はあるでしょうから……全部忘れてしまうなんて、寂しくてつらいんじゃないかしら」
茉莉花がぽつりと言った。陽菜の顔色の悪さに茉莉花は気づいていた。陽菜がどういう境遇で天使付きとして暮らしてきたか、茉莉花には分からないが、陽菜にも陽菜の人生があり、それを陽菜の天使サナエルが彩ってきたことは間違いない。誰も――天使付きはそうだろう、と思うと茉莉花は心が沈む思いだった。家族のような存在を忘れるなんて、ね。
天使付きの三人は黙っている。
「天使の存在が無くなっても、天使付きとしての記憶がないなら、自然と今の地位に馴染む記憶になるだけじゃないかと思う。それなら、大きな政治的な混乱も、経済的な混乱も起きない……ってことか」
「やっぱり天使付きの三人としては納得いかないか。記憶までなくなるなんて嫌だよな」
『私たちは覚えていますよ』
三人の天使が声を揃えて言ったので、三人ははっとそれぞれの天使を見上げる。
『あなた方が忘れても、私たちはあなた方との思い出を覚えていますし、日々そのものが無くなったわけではありませんから、安心してください。見えなくなっても、今までと同じくずっとあなたの傍に居ます。それが専任天使としての責務でもありますし幸せでもあります』
天使たちの言葉に、三人は涙ぐんだり、瞑目したり腕を組んだり三者なりの反応した。
それを天使のいない三人は見守っていた。天使付きの三人も彼らを見遣る。彼らにとって天使はいない。見えないだけだが居ないように暮らしている。それでも幸せを感じている――ならば。
天使付きの三人は啓へ向き直ると、それぞれに言った。
「天使の忘却も、一緒に願い出ましょう」
「ID、つまり知性ある設計者本体に祈り願い出れば、何らかの世界の設計変更を聞き届けてくれるかもしれないから」
「鍵穴の向こう側へいって、ID本体を捜しだすのがいいと思う」
「三人とも……」
思わず啓は言葉に詰まった。三人は三人なりに、自分たちの天使と生まれた時から苦楽を共にしてきている唯一無二の人生の相棒なのだ。彼らから天使を奪うだけでなく、天使との思い出も忘却を選ぶというのに、啓の生命の心配をし、先々苦しんだり困ったりしないように考えてくれている。その思いやりに、啓は言葉に詰まった。
「……ありがとう、おれの判断に反対しないだけじゃなくて、こんな風に気遣ってもらえるなんて思ってもみなかった」
「おれたちの分まで天使がちゃんと覚えているっていうなら、それを信じて委ねていけるくらいには、天使のことを信頼しているってことだよ。しんみりすんなよ」
天使付きの三人の決断に、啓と苦楽を共にしてきた家族である三人も心に沁みるものがあった。啓と、この三人の天使付きのサポートができるなら、精いっぱいしよう、と彼らも彼らなりに心に感じ取っていた。
「じゃあ、結論は出たわ。そろそろ本題に戻りましょう」
茉莉花が声を発すると、皆が茉莉花を見て肯いた。
「マリアと三人の天使と羊飼い、は言い換えるなら啓と三人の天使付きと三人の家族」
整が言葉をパロディした。
「歌にあったよな、マリアの周りを天使が取り囲み、羊飼いはその祝福を見上げて祈る、だっけ」
続けた整の言葉に、みんなが「そういえば、」という顏をした。
「あーなんだっけ、そのうた。ちっちゃいころに聞いた」
「古歌の一節がそのまま子守唄になってるのよ」
「これ古歌なのか」
「この歌の描写って、『マリアの周りを天使が取り囲み、羊飼いはそれに祈りを捧げる』っていうのが定番の絵図じゃなかったかしら……」
さすがは天使付きの三人、知識と教養の教育が行き届いているせいか、さまざまな知識を横断してヒントを搔き集めていく。
啓たちを含めての四人は、それを聞きながらうむうむと頷くばかりである。学校には行きたかったが、スラム街出身では到底行けるような環境になかったし払う金もなかった。そう言う点ではこの三人の博学をうらやましく思う。そして、その三人が味方になってくれたことに、感謝しかないという心持だ。
「二重の半円になろう。その絵図もたしか古い文献にはあったと思う。実際的にちゃんと取り囲むとなると誰かは『始まりの鍵穴』の傍になってしまうし、あの時空の歪みには耐えて啓をと取り囲み続けることはできない」
衛が頭を掻いて唸りながら陣形の結論を下した。
「啓とルエルが鍵穴の前、私たち三人と天使が、その後ろで取り囲む。その各後ろから羊飼い――つまり一般のあなたたちが祈りを祈っていて」
陽菜が具体的に茉莉花たち三人にも説明する。
「その陣形が、実際的に取れる形かつ古歌の陣形にも逆らっていない。絵図にもあった形だと思う。王と王家の血筋による儀式とは違うかもしれないけど、――啓は鍵穴に挿す鍵のような存在だとするなら、見えないルエルに導いてもらいながら、あの鍵穴に足を進めるしかない」
いずるは、啓が一人で鍵穴へ挿しこまれる鍵として物理的に啓の存在を鍵穴へ足を進めることを示唆した。言いにくいことではあったが、誰かがはっきりいう事だろう。もちろん『鍵』でない存在であれば、鍵穴として開くことはなく啓は次元の歪みの中でどういう事になってしまうのか見当もつかない――そのためにルエルも付かせるわけだが――死ぬかもしれないし、二度とこの世界に現れられないかもしれなかった。それでも、『鍵』なら入るしかない。過去に鍵になった人物がいることはいるという話があった。啓がダミー鍵ではなく、本物で正真正銘の『世界の運命の鍵』であることを祈るしかない。
「まずは三人、祈りを始めて」
整を中央に拝して両脇を茉莉花と凛が担う。そしてその整の前に立ったのが陽菜。茉莉花と凛の前に衛といずるが立つ。彼らの天使のサナエル、そしてセルエルとユリエルはそれぞれの更に前に立った。これで、天使三人の前に啓が行けばいい。
天使三人が立っているのはもう時空の歪みが進むぎりぎりのところだった。その前に啓とルエルが立つのかと思うと、啓の足は得体のしれない恐怖で震えてきた。かといって、もう引き返せはしない。
「ルエルも、来てくれるか」
『安心してください啓、私ルエルも結局はID端末の一つ、IDの一部です。ご一緒しますしご案内しますから、ひとりではないですよ。ただし、一歩を踏み出すのは啓自身の意志です』
そう言われて啓も(腹をくくらなくては)とぎゅっと唇を引き結ぶ。
一歩、半円の中心へと踏み出した。一歩、また一歩。横にはルエルが付いているが、衛たちの天使の半円の内側へ入るときには、一瞬ぎゅっと目を瞑った。もう一歩。そして、あと一歩。時空の狭間に触れて急激に目眩のようなものに襲われた啓の手をルエルが握った。半透明の筈の手がちゃんと啓を握った――と思うと、啓の目眩がすっとなくなった。
『よくここまで自分の足で来ました。では行きましょう。ついてきて、啓』
ルエルに導かれるがままに、啓は一歩一歩昏いトンネルのような道のりを歩いていく。冥府へ行く道ではないかと思われるような、静かであてどない不安が啓によぎると、だんだんと夜が白むように歩む世界に明るさが取り戻されていく。ただし、周りが明るくなってきても何も見えなかった。乳白色の白い世界。どこまでも白い、世界だ。ここは、そういう世界としかいいようがない。
「どこだ、ここ……」
「鍵穴を通り抜けた、内側の世界であり外側の世界です」
気が付くと隣にルエルが立っている。半透明ではなく、ただそのままの受肉した天使のように不透明で、そして活き活きと光り輝いている。
「私の道案内もここまでくれば要らないでしょう。ここから先は、おひとりで歩まれてください」
「ルエル?」
「ほら、そんな不安そうな顔をしないで、啓。天使のいない世界にして不公平の少ないより良い世界を目指すのでしょう」
「そうだけど、ルエルとは……ルエルとも、ここでお別れなのか?」
「それはわたしにも分かりません。でも、啓、会えなくなってもわたしはこれからもずっとあなたの傍におりますし、話したこと全てを覚えていますよ」
「……ルエル、今まですごく助けてもらってきたから、今が最後のルエルとの別れになるかもしれないって気づいたおれのまぬけを笑ってくれるか?」
ルエルは人間のように明るく微笑むと、少し腰を落として啓と目線を合わせた。
「最後じゃなかったら笑顔で行けるでしょう。また会えますよ。帰りの道案内が必要ですからそれまではお供します。だから行ってらっしゃい。あなたの思うように話し、感じるように伝えていらっしゃい」
「それは啓示なのか? ルエル」
「啓示とは少し違いますね、私ルエルとしての希望です」
「希望」
「はい。だから、さぁ、安心していってらっしゃい」
「……うん、ありがとうルエル」
ルエルは歩き出した啓が一度振り返ったとき、啓へ向かって手を振った。
ルエルと離れることが出逢ってから初めてなので、変な気がする。そんな風に啓は思った。そして乳白色の世界を一人、どこまでも歩く。何も標のない世界を歩いていても、堂々巡りしているだけの気持ちになってきたときだった。
「にゃあん」
どこからか猫の鳴き声がする。
「にゃあん。おや、啓が初めて愛したものはこの姿なのだね。にゃあん」
猫の声がしゃべったかと思うと、乳白色の世界に切れ間があったかのように忽然と錆猫が現れた。子猫の姿の、その小さな猫は。
「サビ⁉」
啓が幼い子どものときに拾った、サビ。
一週間足らずの間一生懸命にかわいがったサビ。
啓のいないうちに親に見つかって知らないうちに何処かへ棄てられてしまった、可哀想なサビ。そのサビに間違いない。
「サビ……⁉」
「サビと呼ばれる存在なのかな、わたしは。ようこそ、啓。こんなところで会えたね」
「サビ……こんな世界に迷いこんでいたのか? そんな、バカな」
「啓には、わたしが『サビ』に見えるようだね。わたしは『初めて愛した存在』として見えるように設定してあるのだよ。わたしはID。『知性ある設計者』の中枢、本体とも言える」
「ID……? サビが? いや、サビは猫だ。IDが、サビの姿をしているのか?」
「そうだよ」
「IDは、サビを知っているのか、生きてるのか……? それとも」
「サビのことも全てを知っているとも。啓のところで過ごした間とても啓に懐いていたことも。連れ去られてしまったのち拾われて、改めて幸せな生活をできるようになったことも、それでもサビは啓を慕っていたことも、幸せな生活のはてに天寿で死ぬまでの全てを私は知っているよ」
「……サビは、……拾われて、幸せな生活はできたのか、そうか……サビは死んだのか」
啓は、まだ自分が幼い頃に寄り添ってくれたサビのことを思い出した。目頭が勝手に熱くなる。ああ、幸せだったのか。そして、もう、死んでしまったなんて。
「啓の記憶の中では、サビは子猫のままだから、私も子猫として出てきている。サビはずっと啓と会いたがっていたよ。新しい飼い主にはかわいがってもらえたからもちろん懐いていたけれど、啓に拾われていなかったら命は繋がらなかっただろうということを、サビは分かっていたよ。だからこそ啓に感謝していたし、サビの願いも啓と会うことだった。今、サビの願いも叶えられ、啓の気がかりも解消したね。ひとつ、心の荷を置いて行ってくれたまえ、啓。ここは、そういう場でもある」
サビの姿をしたIDは、子猫なのにそんな仰々しい言葉を使う。
「おれも……おれも、サビのその後を知ることができてうれしいよ。そして、そのサビに、お願いすることがあってきたんだってことも思い出したよ、サビ。聞いてくれるか」
啓は、鼻をすんすんしながらも泣かないで耐える。サビは幸せだった。幸せだったことが分かったから泣かなくていい。よかった。よかった。
「知っているよ、啓。ルエルからも他の人間の専任天使からもその言葉は私のところへ届いている。ただし、届いているが届いているだけだ。私は相対する人間の祈りと願いをもってしてしか聞き届けることはできない。きみは祈るか。願うか。どんな世界を祈るのか、願うのか、今一度改めてことばにして具現化することができるかい」
「……サビ、おれは、スラム街だけじゃなくて天使の居ない村人や町に行って、いろんな人を見た。そして天使付きの人たちからも連絡を取ってきてもらって話す機会が手に入った。天使付きでも天使なしでも、みんな根底はいい人たちだ。みんな自分で自分の運命を切り拓ける内なる力を持っている。天使がいれば天使に頼ってしまうけれど、もしかしたら天使が居なかったら――居ないとしても、やっぱり自分の運命を切り拓ける内なる力を発揮できるかもしれないって思う。それは決して不幸じゃない。むしろ天使の啓示に依存して自分の本当の力を見失ってしまうことのほうが不幸な気がする。だから、一番目には誰の天使も、見えなくていい。でもそうなったら悲しむ人や苦しむ人も出てきてしまう。だから二番目に、天使がいたことを神話にしてほしい。かつて居て今は居ない、天使の話を語り継ぐ世界にしてほしい」
「うん。啓はそう思うのか」
サビは座り込んで後ろ足でちょっと耳の後ろを掻いた。啓のところにいた頃のサビそのものだ。
「天使が見えなくても、啓示がなくてもこの世界はしあわせにできるって信じたい。だから、この通ってきた『鍵穴』も塞がって、次元の歪みも消えてしまえばいいと思う。IDにはそれが可能じゃないのか? 『鍵穴』を塞ぎ、世界中の天使を見えない存在に戻して、かつてはこの世界には天使がいたけれど今はいないって全ての人の記憶を変えてしまってほしい。もちろん、おれの記憶も。誰の記憶もそうなるなら、おれもまた、覚えておく特権はなくていい」
「うん。そうだね」
「サビ、……IDとして、それは可能か」
「待ってくれ、今、君の声を届けている先がある」
「どこだい」
「仮に名を伝えるのならアドナイだね、いや、覚えていなくても啓はいい」
「IDが、形づくるのではないの? この世界を」
「そうだね……窓口はここだから、ここで言うことは合っているよ」
「?」
「世界を形作るのは、シンプルなようで複雑だし、全は一でありながら一が全なんだよ。さぁ、啓の言葉は聞き届けられる。IDはそのように世界を変えることを決定したよ」
啓の言葉は聞き届けられる、というところだけは啓にも理解できた。
「……じゃあ、この世界から天使はいなくなるのか」
「そうだね、今から十二時間以内にすべての顕現していた天使は、付いている人間に挨拶をし次第、順次ほどけて(・・・・)不可視となる。そしてそれと同時に天使付きだった人間側の記憶もほどける(・・・・)。天使のことを思い出さなくなり、かつての神話の世界のことの話題だと思うようになるまで二十四時間。明日の今には、全世界の全ての人間が例外なく天使とはかつての神話だと信じる世界に新陳代謝を果たすだろう。啓を吐き出したらこの『始まりの鍵穴』を含めた世界の全ての『鍵穴』も塞がる。受肉した天使は生まれなくなり、神話の中でどの人間にも一人の専任天使が付いて見守っていると語り継がれるだろう。さあ、啓、話しているうちに、もう帰る時間になった」
「あ、じゃあルエルのところに戻らないと」
「啓、例外ないことも啓は願い出た筈だ。ここでルエルともお別れですよ。ちゃんとさっきお別れを言ったはずだね。ルエルはちゃんと分かっていた」
「えっ……」
「別れはいつも突然だよ。これを願い出た啓にはささやか過ぎるペナルティだ、サビともここで」
「サビ! 待ってくれ、サビ!」
乳白色の世界がいきなりぐにゃりと曲がるような気がして啓は激しい眩暈に見舞われる。
「あと、天使付きをほどく(・・・)ついでに、追手の理由もほどいておいたから、これからの七人の世界は、どこまで自由だ。自由のまま、どこまでも進んでいける七人でいなさい」
「サビ! ……サ、……」
ああ、もう床に倒れる、と思ったがもう啓の意識は保てなくなっていた。

「……い、啓! 啓! 大丈夫? 目を覚まして! 啓」
誰かがおれのことを呼んでいる。誰だ? 茉莉花? 凛? いや、もっと多い。
「啓!」
何度目かの呼び声で、啓は飛び起きた。
「あっ……つぅ……」
頭が痛い。ずきずきするがこれは何だろう。今さっきまでIDとルエルと話していたはずなのに……ID? なんだそれ。ルエル?……誰だ、そいつ……。
「大丈夫、昏い『鍵穴』からあなたが倒れるように出てきたと思ったら、『鍵穴』がぐんぐん小さくなって、もう……もう消えたわ……これって、啓の願いが聞き入れられたから起こっているの、……『鍵穴』って何かしら? えっ、何だったかしら」
「啓、完遂したんだな」
「……ああ、それは分かる。おれの願いは聞き届けられたよ」
「そうか……」
「よかったね、啓」
「啓が無事でよかったぞ」
陽菜も、衛もいずるも、茉莉花も整も臨も、皆が啓の無事を喜んでいた。
ああ、よかった。けれど、一抹胸がうずく。
「なぁ、衛、いずる、陽菜……お別れは済んだのか?」
「誰とのお別れ? 私たちは初めから三人よ」
陽菜がそう言ってから、皆が沈黙した。
「いや、初めから三人だったけど、違うわね。何かが足りなくなったのよ。寂しいわ。寂しいけどもうわたし、きっともうすぐこの寂しいのも忘れるわ……それが、今回の願いだから。それだけ覚えているわ」
「そうだな、おれも」
「……ぼくも」
新しい土地へ移動する途中に接触してきた衛といずると陽菜。今となってはその経緯も覚えているようでぼんやりしている。何だったっけ。大切なことを忘れている気がするけれど、もう思い出さなくてもいい気もするんだ。
「何を、忘れたんだっけ……」
「願い事を忘れるなんておかしいけど、それもわたしたちの願いの一つだったのよね」
「そういうことになるな……」
しばらく七人に重い沈黙が降りた。このフロアには初めから何も無かったかのようにがらんとした空間だけが広がっている。
「帰ろうか、あの箱から降りられるはずだから」
来た時乗ったエレベーターに乗り、高速で降りていく。下には人が待ち構えていたはずだが、もう半分どうでもいい気がしている。捕まえるなら捕まえてみろ。
果たして、扉が開いた先には右往左往する人たちが散らばっていた。一様に顏に動揺が走っていて、何かを探している。物陰や、人の後ろ、ポケットの中、服の内側、あちこちを捜しているのに、誰も見つかったような顏をしないし、だんだんその捜す行為も忘却したかのようにやめていくのだ。少し、異様な光景に見えた。
「何が、起きてるの……」
呟いた凛に、振り向いた男が言った。
「何かを失くしたみたいなんだけどよ、何も思い出せないってさっきまで騒いでたんだ。お前たちはもう家に帰れ。こんなところうろついているんじゃない。こんな、こんな……? 寂れた廃墟みたいな……ところで……。早く気を付けて帰るんだぞ」
「……」
七人のことは、もうどうでもいい存在のようだった。
七人も、この変化についていけない部分もあったが、捕まるよりはいい。
そのまま堂々と人びとの真ん中を突っ切った。
「このまま、『時間の街』へ行こうか」
「ああ、衛と陽菜の家もあるからな」
「ああ……」
三人の足は『時間の街』へと向こうとしたが、残りの四人の足は止まった。
「おれたち……ここでお別れだと思う」
啓が、陽菜と衛といずるに声を掛ける。
「おれたちはやることを完遂したよな。おれも、みんなも、そのことを実感していると思う。覚えてないけど、覚えてないことで、痛感している。この世界が変わったこと。そしてそれももうおれたちは忘れていくだろうってことも」
「……ああ」
「今ならまだ覚えていることがあって、それはあなたたち三人にとっては大事だったはずのものなんだ。そう思うと、居た堪れない」
啓は、心のうちに残っているうちに伝えたくて、できるだけ言葉にした。そうしないと端からどんどん完璧に忘れ去っていってしまう。
「それも、忘れるよお互い」
いずるが言いにくそうに、しかし気遣うように啓に声を掛ける。
「そうだ。忘れるんだ。この違和感も、二十四時間くらいで完了して、明日からは何事もない日々が始まる。そんな風に覚えているんだ」
「啓……」
「おれがこの世界にこれを望んだ。寂しくて仕方ないのに、何で寂しいのか全然わからない」
「啓、自分を責めないで。この七人で結論を出したわ」
「茉莉花」
「この世界をよりよくするために、七人で考えて答えを出したの。だから、七人で決めたことよ」
「そうだ、この七人が決めたことだ」
衛が、茉莉花の言葉に頷いた。
「短い間だったけど、おれたちは両親とか身寄りのいる『時間の街』へ戻るよ。その後、いずるは『命名の街』へ帰るし」
「ああ」
「きみたちは……旅立つのか」
「ああ、……みんな、それでいいか」
「いいよ、啓」
整がにっこり笑った。茉莉花も、凛も、優しく微笑んで啓を見る。
「私たちはずっと一緒よ、啓」
「今までも、これからも」
「じゃあ、ここでお別れだな」
「また何かあったら、会いに来てくれ」
「ああ」
七人は手を振り合って別れた。啓と整と茉莉花と凛の四人になる。少し経つとやけに静けさを感じた。人数が減ったからか。それともそれだけなのか。
「こんな風に、これから時々寂しくなるときあるのかな」
「忘れちゃうって予感しかしないけど、でもきっとさ」
「寂しくはなるよね……」
「でもそれが、「何か」の居た証なんだよ」
「ああ」
四人で話しながら、『時間の街』とは違う方向の道を選ぶ。
丘のようなところに立って、最後に『時間の街』を遠く臨み見た。
(さよなら)
啓は心の中で、小さく呟いた。不思議と寂しくはなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?