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祈りの通りに
Facebookの通知で去年書いたものを見て驚いた。本当に一年、この通りを味わったから。
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去年は、夫と2人お互い今まで味わったことのない経験をした。内的にも外的にも混乱と気づき、癒しと学びがあった。どうしたらいいのだろうと困ったときや恐怖が上回る時には、スタンプラリーをしているかのように答えがその場に行くと(その時が来ると)、与えられるみたいなことが起きていった。そこには最終的にいつも安心と静けさがあった。ひとつひとつ理解が起きたしホッとした。悲しさや寂しさや恐怖はあった。でもそれは「大丈夫じゃない」の理由にはならないらしい。ということを去年一年を通して味わった。
願えば、祈れば、叶えられる。(物理的なことではなく心の経験の話)と言えばそれで終わりだけど。もう少し。
この年始の投稿をしたときの気持ちや情景はなぜかすごくよく覚えている。
「何があってもそこに不安や焦りや欠乏を見ず、受け入れて、導きを信じてついていける自分になりたい」
そんな風に強く思った瞬間があって、それを言葉にしたらこんな投稿になった。投稿したいと思って考えたのではなく、宣言しておきたいものが先に現れて、それを書いた。
逆に言えば「今年は大きなことが何かあるかもしれない」とわずかに感じていた。とも言える。その不安を感じたからこそ、この抱負が与えられたのかもしれない。
正直なところ、今になってこの投稿を振り返ったとき「願って(祈って)おいて本当によかった」とホッとした。先に備えておいた自分にありがとうというような。
それくらい、去年1年は本当に見事だったのだ。私ではなく与えられたもの、見せられたものが。結婚した年よりも忘れられない、忘れたくない年になった。
年始に自分が感じて望んで決めた「心の向き」に自分が救われた。私はこの向きに間違いなく乗り続けていた。
今年も私の人生がどうなっていくかはわからない。でも、そこで何を感じたいかは願うことが出来る。祈ることが出来る。そこにだけ希望がある。
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