小さな水先案内人

 私が小学校五年生の時、日曜日の市で、父がグローブを買ってくれた。新しいグローブにマジックで「国分」と名前を書いてくれた。うれしくて、何度も右手にはめたりはずしたりしていた。そのグローブは、手元にあるが、今はほとんど使うことがない。

 私は小学生の頃「小児喘息」という病気にかかっていて、病院通いをすることが多かった。母に手をひかれて息苦しさをがまんしながら、泣きたい気持ちで病院へ通ったことをおぼえている。酸素吸入をしながら、今日は注射だよといわれるのをこわがっていた。生活に支障はないが、しょっちゅう学校を遅刻したり、休んだりしていた。毎食後に飲む甘い、オレンジやピンクの色をつけられたぜんそくの薬の味を思い出すこともできる。とにかく、ぴりぴりと神経質な子どもだったと思う。

 そんな私を当時仲良くしていた友達が、町内会のソフトボールチームに入らないかと誘ってくれたのだ。スポーツは得意でなかったが、何でもやってみたいたちの私は、同じチームの野球帽をかぶっている友達がうらやましくもあり、ソフトボール少年団(といっても女子のチームで錦町レディースとかいう名前があった。)」に入ることになったのだった。

 練習は朝である。平日の毎日、朝五時に小学校のグランドへ行って、練習をする。初めての日、コーチが「ノックを受けて見ろ。」と私を守備につかせて、軽くバットを振った。と、軽く振ったはずのバットに当たったボールは、ものすごい勢いで一直線に私に飛んできた。気がつくとわたしは、顔面の位置でそのボールをしっかりグローブにおさめていた。これには監督も驚いた。

 ごめんごめんと監督は青くなって謝りながら、「すごい。よくとった。」「これは大物が入ってきたぞ。」と驚きながらほめてくれた。瞬間的に体が反応したことを自分でも気づかなかった。

 しかしその後、やはり私はスポーツが苦手な少女であり、レギュラーになったりすることはなかった。最初のあれは何かの間違いだったらしい。さらに私は癇が強く、他の子とうち解けることもできず、朝五時に起きるのがだんだん苦痛になってきた。

 夏休み、私は練習を休みがちになった。いや「休みがち」というものではなく、さぼりだった。朝、起きられずに、いつも迎えに行く友達の家にも行かないでいると、少し小路に入った私の家まで何人かのメンバーが迎えに来てくれた。何回かはそれでまた通ったが、そのうち全く行かない日が半月ほども続いたと思う。「あんた、いかなくてもいいの?」と母に言われてもいいかげんな返事をしていた。今思うと恥ずかしいが、ひたすら「おっくう」であったのだ。はじめ迎えに来てくれていたチームメイトたちも、やがてあきれて来なくなった。

 私がずっと休んでいることで周りはずいぶん心配して声をかけてくれた。そして、秋になったある日、わたしはまた練習に行くようになった。

 練習に行っても、私はいつもキャッチボールをしているか、たまに守備についたりバッターボックスに立つだけだった。ほかの子どもたちとの溝や力の差は歴然としていた。レギュラーチームから離れて基礎練習をしているわたしに、いつも声をかけてくれ、キャッチボールの相手をしてくれたコーチがいた。友達ともあまり話さないわたしだったが、そんなふうに目をかけてくれる人がいた。なのに、わたしはそのとき声をかけられるのが恥ずかしくて、話しかけられてもちゃんと返事をしなかったりしていた。それでも以後は、練習をさぼらず、六年生の最後の試合では、代打でヒットを一本打つことができた。守備にもつき、センターフライをキャッチした。

 地区大会でチームは三位になり、全員で写した記念写真が残っている。皆と同じメダルをかけ、チビで神経質そうな顔をした自分がそこにいる。が、不思議なことにソフトボールを始めてから、いつのまにか喘息はすっかり治ってしまった。

 私の手元には、今も父が名前を書き、かつて練習に使っていた古い小さなグローブがある。それを見ると、小学生のころの自分を思い出す。それは、晴れがましい想い出でもなつかしい想い出でもない。あの時自分はつらいことから逃げていた。自分の感情に流されて、周りを見ず、ずいぶん自分勝手な人間だったと思う。周りの人もあきれていたに違いない。自分自身の中でも、中途半端なことしかできなかったという後悔の気持ちが強い。同じへたでも、くやしくて泣いたり、結果が出ず物足りなく感じつつ精一杯やった自分の努力にかろうじて満足していた、というのならまだいい。ずる休みをしていた時の気持ちー自分が悪いことをしているのだと嫌でも自覚させられ、くらーい気持ちになるーを嫌でも思い出し、自分の軟弱さや卑怯さが思い知らされて、胸がチクチクと痛む想い出だ。

 くじけそうになることは、日常の中でもけっこうたくさんある。だからわたしはこれからを生きていくために、その時のことを、忘れてはいけないのだと思う。同じことを繰り返したくないし、また自分の弱さやみっともなさを知っている人間でありたいと思うからだ。また自分のそういう部分を知っていれば、他の人をばかにしたり、見下したりはできないし、人を批判する前に、自分の足跡をふりかえる人になれると思うからだ。

 あれからずいぶん遠くへ来た。今わたしには挑戦していることがたくさんある。それは仕事そのものであることもあるし、仕事をはなれた個人的な世界のものもある。どちらも相当気力や体力が必要だし、簡単に成果が上がることではない。特に好きで続けているヴァイオリンは、自分のためだけのものだから、やる気ひとつにかかっている。仕事が忙しいときは、時間がとれなくなり、今日はこの程度でいいか、という気持ち、できるだけ楽な方に逃げたい気持ちになる。それが続くと、なかなか成果の表れない練習に倦んできて、もともと才能なんてないのだから、やめてしまおうかという気持ちになってくる。そんな私の前に「あの時と同じだぞ」と、小学生の自分が、逃げ道をふさいで立ちはだかる。「それで悔いはないのか」と、問いかけてくるようだ。あの時と同じ、今諦めたら、私は何も変わらない。でも、もし諦めないで続けたなら、何かが変わるにちがいない。そして、こう思う。

「今やらないでいつやるのか。いまがんばらないで、いつがんばるのか。」かつての小さなわたしは先の見えないことにどう向き合っていくかを教えてくれる、今の私のよき水先案内人である。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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