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『作為アンチ』の地獄

こんにちはチョンチョコです
前回の記事で「作為」が嫌いなんだ!という話をしたんですが
その追記となります
前半はめちゃくちゃ他に対しての悪口言ってますが許してください

①みんな作為が嫌い

作為が嫌いというのは、割とインターネットをしている人なら誰でも持っている感情だと思います

特定のユーチューバーが嫌い、特定のツイッタラー(?)が嫌い...
など、人がある人物、または団体を嫌いになる時の理由の一つとして

•ターゲット層への媚びが見える

というものがあると思います
これは作為のわかりやすい例だと僕は考えていて、客観的な視点からのファンの理解し難い行動、それを誘発する発信者の言動に辟易してしまう、というものです
このように多くの人は客観的な視点を持っており、それゆえに「媚び」に敏感に反応してしまい嫌悪感を抱いてしまいます

②「媚び」について

この「媚び」には大きな特徴があり、それは

・ファンはその媚びに気づかない

ということです
悪徳商法で怪しい壺を買わされる人は、騙されてるなーと思ってはその壺を買わず、本当にその効用を信じて買うように、

発信者とそのファンの熱狂の渦の中ではその「媚び」に気づかない場合がほとんどであると僕は考えています

発信者が「媚び」に気づいて敢えてその行動を選択しているのか、それとも気づかずにファンが喜ぶ行動を偶然選択しているのかは場合によって様々ですが、ファンはこの「媚び」に気づかないのです

例えばあるアイドル的なユーチューバーグループが
ファンの期待に沿って〇〇しました、という動画を上げたとします
それはファンにとっては発信者は自分たちのことをしっかりと考えてくれている!と思い嬉しいと感じるのですが、
媚びてると外野の何人かは思ってしまう、という訳です

③作為アンチの地獄

この「媚び」に対する気づき、そしてそれへの嫌悪感を一般人より著しく感じてしまう人を僕は「作為アンチ」と呼んでいます

発信者の意図を勝手に読み取り、「イタい」「キツい」などどこか冷笑じみた視点から眺めてしまう人

このような人はいずれ地獄を見てしまう、と僕は考えています
その理由は、作為アンチは「永遠の脱中二病」に陥ってしまうからです

皆さんはその程度は人によると思いますが中二病(もしくはそれに類似した状態)になったことがあると思います

中二病とは、wikipediaでは

中二病(ちゅうにびょう)とは、「(日本の教育制度における)中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動」を自虐する語

と定義されています
ここで注目して欲しいのは
最後の「自虐する語」という言葉です
自虐という言葉を使っているということは、中二病という言葉を用いている人は

・中二病の状態を外から眺めた上で、その異常性を自分を含め笑っている

ということです
つまり中二病という言葉を使っている時点で、自分をその点においては客観的に見ている、脱中二病をしているのです

脱中二病をした時、人は自分の行動に対して嫌悪感を覚える人がほとんどだと思います
この嫌悪感という痛みは、主観的だった自分が「中二病」という概念を知り、その概念を元に自分を客観視した時に発生してしまうと僕は考えています
後で述べますが、この主観→客観のシフトが地獄を生み出します

「中二病」という概念を知っている人と、知らない人では、世間から中二病だと思われるような行動をする際の考えの回路が変わってくると思います
例えば、「イタい」と思われるようなマフラーを着る、という行動に対して

知っている人は
その「イタさ」を知り、それを判断基準に入れた上でそれを着る、着ないという選択をする

知らない人は
「イタさ」を知らずにその他の判断基準で着る、着ないの選択をする

と、一つ客観的な判断基準を挟むという工程が増えています
この場合において、知っている人は世間から嫌な目で見られることを回避することができて良かった、と皆さんは思ったことでしょう

学校などの教育機関でも、自分を客観視しろ、ということは耳にタコができる位言われてきたことだと思います
客観視することは、今の世間では何者にも代え難い大切な工程であり、客観視させることを他人に強いているような風潮さえあるような気がします

しかし、客観視に過敏になること、それは地獄を生み出すよ
と僕は言いたいです

前に述べた通り、主観→客観のシフトには痛みが伴います
それは中二病だけに限らず、高校、大学、それ以後に至るまでずっと続きます
そしてシフトは自分の価値観の変化から起きる場合や、他者から言われて起きる場合など色々あります

この「痛み」から逃れて逃れようとして行き着くのが作為アンチだと思っています

シフトの痛みから逃げるためにはどうすればいいのか。
それは行動する前に痛みを知って、行動しないことです

例えば、仮にインフルエンサーがあるファッションを紹介していたとします
そしてその2人のファンがいます
片方は普通の人と、もう片方は作為アンチです

普通の人はそのインフルエンサーに影響され、憧れてその服を着ます
しかし、作為アンチは同じように影響されますが他の情報源からその服を調べ、世間からはダサいと思われていることを知ります
そして、その服を着るのをやめます

この時、作為アンチは世間から馬鹿にされずに済んで良かった、となるでしょう
客観的にものを見ることができた結果、痛みから逃れることができました

しかし、逆にその服が世間で流行しているとします
その場合、作為アンチはその服を着るということは「媚びている」と感じ、やはりその服を着ることをやめてしまいます

これはどういうことなのでしょうか
作為アンチは、服を着ることができませんでした
作為アンチは、

世間から反することへの臆病さと、媚びへの嫌悪感で

もしくは

「尖りというある一定層に向けられた媚び」と、
「世間への媚び」の、二方向に向けられた嫌悪感で

行動することができなくなってしまいました。

これを、すべての事柄に関して行うとどうなるでしょうか
すべてのことができなくなってしまいます

ところが、作為アンチという人種は存在しており、服もしっかりと着ています

これは何故か。
それはまだ「知らない」からです
中二病の渦の中にいる人のように、熱狂的なファンのように、その点ではその判断基準を知らないのです
その服に関して主観的に見ているからです
しかし知ってしまったら、その判断基準では行動できなくなります

作為アンチの地獄とは、モノを知ることがその行動の制限に繋がってしまう状態です

知った途端ダサいという考えに縛られて、行動ができなくなってしまう
これほどヤバい状態は無いと思います

④じゃあどうすればいいの?

述べた通り、「媚び」に対する嫌悪感は多くの人が持っていますが、それがエスカレートすると八方塞がりになってしまいます

これを防ぐためにはどうすればいいのでしょうか
僕の一意見ですが、2つの方法があります

1 客観の限界について悟る
2 「媚び」を許す

順に説明していきます

まず、1の客観の限界について悟る、ですが
人間は絶対に完璧な客観の状態になることはできない、ということです
確かに中二病の人が自分の異常性に気づけた、ということは主観→客観のシフトと呼べるかもしれませんが、
その気づいた自分というのは主観なのです

今までの主観的な人生は一人称時点の映画であり、その映画を見ている自分に気づけた、
というのがシフトの概念に近いかも知れません

しかし、その映画を見ている自分に気づけた、
ということはその映画を見ている自分を見ている自分が存在していることになります
そしてそれを客観視してもやはりそれを見ている自分がいる...
ということになり、主観からは必ず逃げることができないのです

また、「その点」において主観的になったと思っても、全て主観的になることは絶対に出来ません
数学の「点」が面積を持たないように、主観→客観のシフトをいくら繰り返しても、
主観で見ている事柄は無限に存在します

人間は絶対に完璧な客観の状態になることができないということを悟ることで、自分は主観的だと理解する
そうすることで客観視の螺旋に引っかからずに、
「自分はこうしたい」という前向きな精神で様々なことを決定することができると思います

次に2の「媚び」を許す、です
これはめちゃくちゃ簡単です
媚びてもいいじゃん、ということです
これは他人の媚びを許すことだけではなく、自分の媚びを許すことにも当てはまります

媚びてる自分が気持ち悪い、媚びてると思われたくない
と思う人もいるかも知れません
しかし、この考えを念頭に置いておいて下さい

・過敏なのは自分だけ

世間の人は自分の思っているよりも自分を見ていません
だったら、「媚び」と言うよりも「無難」でいいのでは?
という考えでいいと思います

⑤最後に

チョンチョコくん自身の話になるんですが僕は割と作為アンチの考えに侵食されてしまっているので毎日承認欲求を満たそうとして何かするということとそれを後悔することを繰り返してます!

ヤバい!

だから...


頃して下さい...

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