乙女浜

私は滋賀在住だが、滋賀県に親戚はほぼいない。
5歳のころ両親とともに大阪から越してきたのだ。
親戚はほぼいないのだが、私からみて母方の伯父の配偶者が滋賀の出身だった。それだけだと思っていたが実はもう一人いた。
必要があり、血縁者の改正原戸籍を集めていたところ、私から見て母方の祖母の義理の弟の、二度目の配偶者が東近江の乙女浜というところの出身という事がわかった。
もはや私から見てどういう続柄になるのか分からないが、当時東近江で仕事をしており、その偶然に驚いた。
その女性には私は直接会ったことはなかったが、毎年我が家に年賀状をくださっていた。
おそらくは故郷なつかしさもあったのだと思う。
ある年、入居されていた老人施設から出されたその女性の年賀状に「乙女へ帰りたいです」という一言が添えてあった。

乙女浜という地名は聞いたことがあった。漠然と琵琶湖の近くなのかと思っていたが、調べてみると大同川沿い、つまりはかつて大中の湖のあった場所の、水路としてのこされた部分に沿った集落だった。乙女浜というのは琵琶湖ではなく、大中の湖の浜だったのだ。
大中の湖は、昭和32年に食糧政策の一環として干拓地になった。現在も大中の名前で広大な農地が広がり、夏になるとすいかが道路わきで売られている。干拓の過程で平安時代までの大規模な湖底遺跡が出た事でも有名だ。

私はその女性を乙女浜に帰らせてあげたいと思った。
しかしその女性の実家も受け入れる態勢になく、大阪の老人施設に入っている女性が滋賀までの遠距離の移動に耐えられるかも疑問であった。
そこで、私は母と相談して、乙女浜の写真を撮って送ることにしたのだが、一つ気がかりがあった。
その女性が大阪で結婚したのが昭和36年だったが、当時31歳のその女性は早くから実家を出て大阪で働いていたと聞いた。
大阪に出たのが20のころとしても女性が乙女にいたのは昭和25年までで、女性の記憶にあるのは干拓される前の大中の湖だったのではないかという事だ。
大中の湖は遠浅の、現在干拓地として使われている面積を思うと相当大きな湖だったようだ。乙女浜は現在も大同川が流れる水辺の集落だが、かつての姿からどれほど変わったのだろうか。その姿を見て、果たしてどう思うのだろうかと。
考えた挙句、私は水辺の写真を撮らなかった。
神社と、公民館と、その近くのきっと昔からあるであろう大きなクスノキと祠、そしてたまたま入手していたハスやモロコなどの湖魚も写真に撮って送った。
まもなく、家の電話にじきじきにメッセージが入っていた。女性は大変喜んでくださっていた。
母が電話をかけなおし、長い時間通話していた。

それが4年ほど前で、現在は年賀状も来なくなってしまった。高齢者の4年が心と体の自由を奪うに十分な時間である事を思う。
変わり果てた姿でも、見せてあげれば良かったのではなかったか、どうすればよかったのか今も考えている。

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