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家中を綺麗にした。
放置していた段ボールを片付けた。
綺麗になった。
そう思った瞬間死にたくなった。

いまいるこの狭い1Kが私の「家」だと知覚してしまったからだ。
私はこの「家」を借りて生きている。
ここが私の「家」であり、実家はもう私の現在の「家」でないと気がついてしまった。
帰る場所ではなくなってしまったことに気がついた。

私はついこの前まで親にこの棲家の賃料を払ってもらっていた。
私はこの棲家に夜になると戻ってきて、飯を作り、風呂に入り、眠りにつく。
だが、あくまでもその生活の用を済ます自分のための空間だと認識していた。
「家」であると認識していなかった。

だが今ではどうだ。
私は家賃を払い、電気代を、水道代を払い、自分の稼いだ金で生活というものを維持している。
私は、私の生活を自分の金で賄い、生きている。
私は、私の意思でこの家に金を払い、生活に金を払い、生きている。
裏を返せば、どの家を帰るべき家とするか自分で決めて、生きているのだ。

私はこれから先、どこを「帰る」場所と決めて生きていくのだろう。
帰る場所を決めるということはこれから先、どのような人生を歩み、どのような土地で暮らしていくのか、選択し続けなければならないということである。
もしかしたら、そんな選択をすることなく、この狭っちい6畳半に一生息を潜めて生きていくのだろうか。
そんな考えが頭をよぎり寒気がした。

そんなあまりにも意味のない人生、送ってなにになる。
私はもう大学を出てしまった。
その時点で親から求められている私の役割「子どもとして成長を見せる」というルートからは卒業してしまった。
私に求められているものは何
今はなにもない。
何もないのだ。

私にはやるべき「役割」がもう何もない。

いつ、私はこの人生を終えられるのだろう。
恐怖、
恐怖だ。

40になっても子なし、恋人なし、寂しいおばさんのまま、今いる部屋のバスタブを洗っている私。泡だった浴槽洗剤を死んだ目で流している私。
それがプラスチックの浴槽に写って見えた。

私は、いつ死ぬのだろう。
しわくちゃのおばあちゃんになっても、痴呆になっても死ねないまま、天涯孤独で施設の天井を眺めているのだろうか
そんなの嫌だ

終わりのない人生を過ごすくらいなら
鮮烈な線香花火のように散ってしまいたい。
そのほうがきっと幸せだ。

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