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イルカも泳ぐわい。 〜を読んで

私は加納ちゃんの語彙力が好きだ。Aマッソのネタは尖っているとか割と癖があるイメージかもしれないが、人が思いつかないようなフレーズや、そこでそれ言う?というような発言がそのイメージの根幹にあるのかもしれない。私にとってはそこが非常に魅力的だ。

「どういう意味ですか?」という言葉は仕事場に置いていこう。ぜひよければ、心に一畳だけ、無駄を受け入れるスペースを作って劇場に来てほしい。(文中一部抜粋)

この言葉を序盤にくれたおかげで、より一層楽しく加納ちゃんの世界観に浸れた気がする。彼女の発するものには、それは実話?フィクション?本気?てきとーに言うてる?そんな境目のないようなことがとても多い。本書の中にもそれらは混在して出てくる。いちいちそれらを真正面から真面目に受け止めていると、で、結局何が言いたい?という感想になってしまう気がする。文中で彼女が述べているように、感想は「何言うてんねん笑」だけでいいと思いながら読むからこそ、すんなり入ってくるのだ。

めちゃくちゃわかるぅぅぅうと思いながら読んだものがある。集合時間を「一旦十三時で」とする理由として、午前中は眠いという理由に加えて以下のように言う。

それなら十二時集合にするかと言われると、それもしない。なにせ「十二時」という言葉に含まれる「ついさっきまでは午前だった感」があまりにも強い。十二時はおそらく「午前中のことなら何でも聞いて」と思っているし、その心意気は「午後のルーキー」ではなく「午前の大トリ」なので、そうなると十二時はおのずと「集まってもらうには気をつかう時間」にカテゴライズされる。(文中一部抜粋)

天才的な感覚だと思った。感心しすぎて何度も読み返して体内に言葉を吸収した。たしかに言われてみればそうだ。十二時は分類的には午後にあたるが、限りなく午前中感が強い。夜遅くなることが多い彼女たちの仕事柄、気をつかう時間に当てはまる感覚もよく理解できる。

もうひとつ、確信をつかれたと思った表現がある。

ふと、自分の中で退化しているものはあるだろうかと考えた。精神面でそれはあった。不思議なことにそれは「成長」の皮をかぶっている。「前ほど腹が立たなくなった」ということだ。

これまたなるほどの話だ。大人になったから周りを受け入れることができるようになり、腹が立つことが減ったと思うのが一般的なのではないだろうか。器がでかくなったと思った方が自分にとっても都合がいい。でも彼女は、それは感覚が鈍っていると表現する。諦念か対峙の回避だとも。考えてみれば腹を立てるとはなかなかカロリーのいることだ。衝突した相手が都合よく変わってくれて心の友になるのはドラマの世界に閉じた話だし、怒りはわりと効率の悪い感情だと思う。これまでの経験から、周囲への過度な期待や余計なエネルギー消費を節約する術を学んだ結果腹を立てなくなっていき、それを自分が成長したと思い込んでいる節はあるのかもしれないと思った。

とまぁこんなように新しい気づきをもらいながら楽しく読んでいて感じたことは、加納ちゃんは形容詞の使い方がとても上手だ。文章の中に入ってくる絶妙に名詞を修飾する表現が、彼女の独特な感覚を一般人の私でも掴みやすくしてくれる。語彙力に惚れる私にとって、やはり魅力的な人だ。

この本を読んだからと言って、彼女の考えがよく理解できたわけでもないし、人となりを語れるような権利を持つわけでもない。でも途中に何度もくすりと笑いながら、頭の中を少しだけ覗かせてもらうことができた。これがエッセイの醍醐味だと私は思う。彼女の発する言葉たちに、これからも注目していこうと思う。


イルカも泳ぐわい。 〜を読んで  ...Fin



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