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何かが浸透していくのを待つ、深いところまで

いつからか一人でも美術館へ行くようになった。私にとっては図書館へ行くのとあまり変わらない。見たいもの(読みたいもの)があるか、何か新しい刺激を探しに行くか。一人で行くか、誰かと行くとしたら母であることが多い。そうだ。美術館へ行くようになったのは母の影響である。

子供の頃に見た展覧会で、覚えているのは山下清と東山魁夷といわさきちひろあたりだろうか。いつだったか、子供の頃に本物の絵をたくさん見せておきたかったのよ、と母は言っていた。

確かに、テレビや本などで間接的に見る絵画と、美術館で実物の絵画を見るのは全く違う。そういうことを幼い頃に体験できたのは母のおかげだったのだ。ありがたいことに。同じように育てられた兄と弟が美術館へよく行くという話は聞かないけれど、少なくとも一人には植えられた種がすくすく育ったのだなぁと我が事ながら感心している。

美術館という空間自体も好きだなぁと思う。広々として、余白が多い。余白が多いほど、絵を見て感じたことが膨らみやすいとも思う。小さな美術館ではその余白が少なすぎて、その後に公園などの広い空間でボーっと過ごしたくなる。先ほどまで見ていた絵について、あるいは画家について、感じたことを言語化しながら思考するのではなく、自分に染み込ませた何かが浸透していくのを待つのだ。深いところまで。

それはとても個人的な作業なので、できる限り一人か、会話をしなくても済む相手と行くことにしている。

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海老原喜之助「ポアソニエール」

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