食農倫理について調べてみた②

「食農倫理学の長い旅:<食べる>のどこに倫理はあるのか/ポール・B・トンプソン」は、私にとっては難しい本でしたが、食と農に関する論点が整理されおり、興味深く読むことができました。

私の問い

この本に対する私の問いは、今後、植物性人工肉やゲノム改変等のバイオテクノロジーが進展していくのは避けられいはず。その中で、田畑で稲や野菜を育て、牧草地帯で牛が育つ光景をこの先ずっと見ていたいと思う気持ちはどのようなものなのか。この思いは単に私の子供時代の郷愁を追い求めているだけで、日本人の多くがこの考え方に固執すると日本の国力も落ちてしまうのでは。世界がバイオテクノロジーを駆使した農業生産物で溢れる中、昔の風景ややり方に固執するのは、極端な言い方をすれば原始時代のやり方に固執するのと同じではないのかということです。

つまり、
1. 田園風景で食べ物を生産することに対する「思い」の正体は何なのか
2. 田園風景を維持しても国力は維持できるのか

ということだと思います。

どの本に書いてあったか忘れましたが、バイオテクノロジーを使って作ったお肉について、科学者は「作り方は同じ」と言うのに対して、非科学者は嫌悪感を覚えるそうです。確かに、今まで存在しなかった細胞が作られ、それが増えるというのは、ゲノム改変技術等を使わなくても、大昔から一定の割合で起き続けていることです。DNAがコピーされるとき、一部で間違いが起き、それが修復されずに間違いのままさらにコピーされるというのが突然変異で、自然界でも起きています。バイオテクノロジーを使うと、意図した通りのDNA配列にできるというだけです。そして、動物や植物は栄養を口や根っこからとって細胞を増やしますが、バイオテクノロジーを使った方法では栄養になる物質を人間が細胞に与えて増やすというだけです。

実験室や工場で<人工的に>食べ物をつくることがイヤなのでしょうか。でも、田畑も牧草地帯も、元々は山や雑草が生い茂る土地を人間が開拓して<人工的に>つくった土地のはずです。

私は何に固執しているのでしょうか

この本の中で、食と農業についての論点が整理して書かれていたので、まずはそれをまとめました。

持続可能な農業とは

1983年、WCED(World Commission on Environment and Development)の報告書が持続可能な開発に関する国際的な議論を巻き起こす前、ゴードン・K・ダグラス氏が農業とフートシステムに従事している人を集めて「持続可能な農業」のコンセプトについて検討したところ、3つの観点があったそうです。

・食料充足性
・生態学的健全性
・社会的持続可能性

食料充足性は成長する世界人口を維持するために十分な食料が必要であるという観点、生態学的健全性は、従来、食料を再生可能な資源として扱うことを可能にしてきたが工業的生産によりこれを摩耗させているという観点、社会的持続可能性は、大規模で経済的に成功している大企業が経営する農場が独占する地域では学校や社会福祉公共サービスや地元企業の維持に苦労するという観点です。

社会持続性は私にとって新しい視点でしたが、確かにそのような観点もあると思います。

フードシステムの環境倫理学

フードシステムが環境に及ぼす影響について、著者は

・資源充足性
・機能的統合性

の2つの論点で対話をすることが重要であるとしています。

資源充足性は、将来世代への影響、発展途上国に住む貧しい人々、あるいは、人間以外の生物も考えて資源としての食料を充足させるという論点。1987年のWCEDのブラントラント報告書で、持続可能な開発について「持続可能な開発とは、将来世代が自らのニーズを満たすことを損なうことなく現在のニーズを満たす開発である」とされましたが、この考えは資源充足性に基づくものとのことです。

一方、機能的統合性は、ファーマーズ・マーケットで農家から直接購入したり、旬のものを食べたり、地域密着型農業を支持する行動に結びつくものを指します。「アグラリアン 農業哲学」という考え方だそうです。一般的にこれらは「持続可能な農業」とも言われますが、著者は、持続可能な農業を提唱する理由について、「おそらく」と前置きしてこのように書いています。

おそらく、世界における自分の居場所と役割を認識することを助け、食習慣がもたらす様々な思いがけない影響を見つける旅に人々を誘うことにある。そして、私たちの生き方を築く土台となる社会的・生態学的なシステムの脆弱性、偶発性、不確実性を、より頻繁に意識させる方法となるのではないだろうか。 p.229

そして、機能的統合性の観点から持続可能性について考えることは、

私たちを今日の姿にした環境は、持続可能なものか、持続させるに値するものなのかを問うものである。p.229

としています。

「持続させるに値するものなのか」というのは、とても難しい問いですが、私自身は、食によって、地球と自分とのつながりを身近に感じる世界観は、子どもたちにも受け継がせたいと思います。私の田園風景へのこだわりは、「機能的統合性」の観点のものなのだと納得しました。

農業バイオテクノロジーに対する論点

農業バイオテクノロジーについて、著者は5つの論点を挙げています。

・予防原則
・社会的公正
・自然性と選択
・徳倫性
・美徳の倫理と成功の可能性

予防原則は、不確実なリスクにはよくよく注意を払い重視するべきであるとするものです。そして、著者は、十分に予防措置が講じられているかを議論するには、おそろしいほど詳細まで理解する必要があるにも関わらず、

予防とバイオテクノロジーに関する議論の多くは、その詳細を無視し、合衆国の規制当局や大学の科学者、そしてバイオテクノロジー企業が「予防的アプローチをとっている」かどうかに焦点を当ててきた。p.248

としています。また、

「未知の未知」に対する懸念は、遺伝子組み替え作物に関するリスクが、従来の食品が持つリスクよりも予見性が低いと見なす根拠にはならない。p.242

としています。

社会的公正は、農業バイオテクノロジーにより貧富の差が広がる可能性があるという論点です。ノーマン・ボーローグらの研究チームが、1940年代から1960年代にかけて、高収量品種の導入や化学肥料の大量投入などにより穀物の大量増産を達成した「緑の革命」によって、比較的貧しい農家が犠牲になったこと、先進国の支援を受けて農業の生産性を向上させた途上国が先進国に継続的に依存せざるをえない構造になっているとしています。

自然と選択は、遺伝子組み換え作物は「不自然か」という観点と、何を食べるかという個人の選択は尊重されるべき、遺伝子食い変え作物が大多数となった場合も選択ができなくなってしまうという論点です。

徳倫理は、遺伝子組み換え技術そのものが美徳に反するという論点と、遺伝子組み換え作物を開発した人が消費者の自律性を軽視して誠意がない・美徳に反する、従って、彼らがつくったものは美徳に反するという論点の2つがあるとしています。

美徳の倫理と成功確率は、遺伝子組み換え技術を開発した人に美徳があるかどうかに関わらず、その技術は「本当にお腹をすかせている人が食べられるようにできるか」という論点です。この論点はとても面白いと思いました。

研究が成功するかは、先行研究の理論とデータを理解すること、それらが遺伝子組み換え作物が同様の成功を収める確率を見積もるときに意味のある根拠となるかどうかを判断する能力が必要となり、これらは、農業研究や開発支援に関わっている人々(著者はこの人々を内部関係者と呼んでいます)によってなされる。一方、このような証拠にアクセスできない人は、議論にあたり「私は内部関係者が言うことを信じるべきか」という観点、つまり、内部関係者の道徳的性格(正直で善意の人か)を踏まえて判断せざるを得ないとしています。

これは他の問題にも言えることですが、改めて納得しました。

アグラリアン 農業哲学

アグラリアン 農業哲学については、「農と食の新しい倫理 単行本 – 2018/5/7/秋津 元輝, 佐藤 洋一郎, 竹之内 裕文」に詳しく書かれていたため、こちらも合わせて読みました。

アグラリアン 農業哲学の元になったアグラリアニズムは、米国独立直後から、国家形成の理念をめぐりA.ハミルトンとTh・ジェファーソンが掲げた思想の違いで、産業主義(industrialism)とアグラリアニズム(Agrarianism)とされているそうです。本書によると、アグラリアニズムは、2014年にK. Thompsonが

農民が独立的、自足的、自己決定的であり、自然、地域生態系、季節などと歩調を合わせて仕事をするという点で、農業とそれに関連する職業を例外的と見なす思想・生活様式の諸思想

と定義しており、これにより、農民は自然の実りに感謝し、土地に愛着を感じ、共同作業や互助扶助を通してコミュニティの絆を堅固にするとともに、長期視点で自分の土地を管理するため自律と連帯の特性を身につけるようになるため、民主主義と国防の礎となるとあります。

まとめ

私の「問い」に戻ります。私の問いは下記でした。
1. 田園風景で食べ物を生産することに対する「思い」の正体は何なのか
2. 田園風景を維持していっても国力は維持できるのか

1.については、食と農に関する議論は、「資源充足性」と「機能的統合性」に関するもので、私がこだわっているのは、「機能的統合性」、「アグラリアン 農業哲学」と呼ばれているものだということで私の中でとても腹落ちしました。これは日本特有の考えではなく、米国独立時から、あるいはもっと古く、大規模感慨農業に適さなかった古代ギリシャでオリーブやブドウの小規模家族経営農業が行われたときからあった考え方で、自然に感謝し、土地やコミュニティを大切にしたいという気持ちと説明されるものとのことです。

一方で、バイオテクノロジーにより新しくつくった動植物が地球環境に与える影響を心配するというのは、未来の世代や他の生物の資源充足性に対する心配と説明することができます。そして、「未知の未知」にはどう頑張っても対応できないため、資源充足性だけを考えるのであれば、「既知のリスク」に対する対応は十分にとった上で、バイオテクノロジーを活用するというのは理にかなっていると思いました。

2.については、資源充足性と機能的統合性の話は、外山さんのグローバル経済圏(G)とローカル経済圏(L)の議論と関係していると思いました。冨山さんのGとLの共存論を応用すると、多くの食べ物は、今後、バイオテクノロジーを駆使し、細胞を培養して植物工場や食肉工場で工業的に生産され、ごく少数のグローバルプレイヤーによって市場が独占されるので、日本としてもこちらをしっかりやっていく必要があります。一方で、土地に根ざしたアグラリアニズムの農業によって生産された食べ物は、大きな収益は得られないものの存続し続け、両者はお互いにあまり影響を受けないため、ともに存在し得る、それは日本も他の国も同じだと思いました。

そして、今の私に出来ることを、資源充足性と機能的統合性それぞれに対して1つづつ考えました。

資源充足性については、バイオテクノロジーの初歩を正しく理解し、必要以上にバイオテクノロジーの進歩を止めないことと、資源充足性のためには必要だから。

機能的統合性については、自然と土地とコミュニティを大切にする農に結びついた食を子どもたちに紹介していく(これを受け取るかは子どもたち次第ですが)ことかなと思いました。でも、「自然と土地とコミュニティを大切にする農」については、何が大切なのかをよく考えて、もう少し価格が下がれば、より多くの人にとって身近な存在になるかもしれませんね。素人考えでは、例えば、子育てを全て家庭内でするのは大変なので、保育園に預けたり、保育園でも登園管理やお昼寝見守りのためのデバイスで効率化するのと同じようなことができるとよいと思いました。

GWの食探究はこれでおわり。