見出し画像

保育士になってから見る世界は、時に痛くて、時に苦しい。


◇保育士になってから考えること

画像4

保育士4年目の私は、一緒に過ごす子ども達と関わりながら、

よく考えることがある。


それは・・・

『子ども時代の私は、一体どんな人間だったのだろうか』

ということ。



私はどうしてか、

物心ついた頃から、この世を悲観していることが多かった。


何でこんなに辛いんだろう・・・。

悲しいんだろう・・・。

どうしたら、自分のままで愛されるのだろう・・・って。



子どものことが知りたくて、保育士になった訳だけど、

その《子ども》という存在の中に、《過去の自分自身》も含まれている。

ということは、随分前から気がついていた。



《目の前の子どものこと》を考えているのか、

《かつての自分のこと》を考えているのか、


分からなくなっては、いつも立ち止まる。



私は一体、何がしたいんだろう。

どう生きたいんだろう。



《少しでも、子どもが伸び伸びと生きられたなら》

この思いの裏にあるのは、


《少しでも、かつての自分を解放させることが出来たなら》

という願い。



◇過去の傷は、もはや自分1人のものではない

画像5

大人は誰しも、

子ども時代に、大なり小なりの傷を負った経験があるのではないか。


そんな《かつての傷》に、

私は大きなヒントがあると思っている。


だって、

今まさに、どこかで、一人の子どもが、

かつての自分と同じ理由で、傷を負っているのかもしれないのだから・・・。



私たちは、先を歩く者。

自分の傷や、トラウマや、振り返りたくもないような辛い記憶。


その全てが、《目の前の子どものこと》を考える上での重要なヒントとなる。


それは、私たちの大きな武器となるだろう。



既に《過去のこと》と呼ぶ様々な感情。

それらを今、『現在進行形で味わっている子どもがいるのかな・・・』と、ふと思うこと。


それは、苦痛でもあるけれど、

子どもと関わる仕事を生業とする者として、大きな原動力とも言える。




◇あの頃、痛みに鈍感に生きてきた

画像6

――褒め言葉、優しい笑顔。
果たして、それは、《愛情》なのだろうか。


――暴力、暴言、罵声・・・。
果たして、それは、《躾》なのだろうか。


と、かつて私が育った環境のことを思い返す。


保育士になった今の私でも、

《愛のある躾》と《理不尽な暴力》との違いは、どこから線を引けるものなのか、未だに分からない。



ただ気付いたことは、

大好きな相手の前であれば、子どもは【その痛みに鈍感に生きられる】ということ。


私が実際にそうだった。


愛する親が私に与えた環境は、とても息苦しいものだったけれど、

それでも、それを《理不尽な暴力》だなんて微塵も思ったことはなかった。


当たり前の環境だと思っていた。



それって・・・、


《身体的苦痛》や《精神的苦痛》に追い詰められていたとしても、

声を上げる必要性すら感じていない子どもが、


今も沢山いるかもしれない、ということ。



かつての私がそうだったように、

大人になってからでしか気づけない《痛み》があるのかもしれない。



だって、子どもは親を愛しているから。

そして、信じているから。



一時的に嫌いになったって、大前提として、心の底では愛している・・・。



◇保育士の私が見る世界

画像6

今思えば、《かつての両親》にも、《かつての私》にも、

どちらにも救いの手が必要だったのだろう。



《痛みを伴う親子関係》が継続してしまうのは、

親にとっても子どもにとっても、苦痛でしかない。


◆大好きな親から受けた《痛み》を、《愛情》だと捉えたくなる理由も・・・


◆大好きな子どもに《手を上げてしまった苦痛》を、《愛のある教育》だと言いたくなる理由も・・・


どちらの思いも、痛いほどによく分かる。



私は保育士となったことで、


《子どもの心》も《親の心》も、

どちらも客観的に見る立場に身を置くこととなった。


だからこそ、分かってしまうことがある。



保育士になってから見る世界は、時に痛くて、時に苦しい。



どんなに互いを愛していたからといって、それだけで、

理想の関係を築ける訳ではない・・・。




◇気付かない痛みでいっぱいになる前に

画像4

今大人になった私たちが、

過去を振り返って言う言葉。


◆あの時、どうしようもない孤独を感じていた
◆親に愛されている実感が得られず、ただただ必死だった
◆頑張っても頑張っても、先が見えない・・・


私たちが、既に《過去》に置いてきた経験の一つ一つを、

世界のどこかで、現在進行形でそれを味わっている子どもがいるとしたら。



自分が《過去》に置いてきたからと言って、

それは、《もう終わったこと》にはならないのだろう。


まるで、かつての自分を救い出すかのように、

今、困っている子どもに出来ることを考える。


“守ってあげる”という、上から目線の押し付けではなくて、

共に手を繋ぎ、自らの意思で道を歩けるよう導くこと…。


そして時には手を離し、見守ること。



私の目の前に現れてくれた子どもたちは、

私に《心》を教えてくれる。


《心の基板》が育つ過程を、教えてくれる。


私からしたら、

一人ひとりの子どもが、私にとって大切なことを教えてくれる《先生》でもある。



◇私は、私の経験を武器にしよう

画像5

子ども時代の様々な思いを、未だに引きずっている弱い私は、

臆病で、怯える心を残したままで、

保育士としてここにいる。


分かることも、分からないことも、沢山ある。


子どもの生きている環境や、

子どもが生まれ持った性格や、

子どもが自ら選んで歩もうとしている人生や・・・。



《私》だからこそ出来る関わりを、探していきたい。



子どもは、愛されて生きると、どんどん魅力的になっていく。



可愛いから愛されるのではなく、

愛されるから、愛らしい存在になるのだと、


身を持って知っている気がする。


もっと、分かりたい。


目の前にいる子どものことも、

私自身のことも。


もっと、理解したいんだ。


《保育士と園児》というだけの関係ではなく、

1人の《人間と人間》として、もっと、分かりたい。


分かり合う度に、その子の笑顔が輝き、

魅力が引き立つようになる。


私はその過程が好きだ。


出会った時よりも、どんどん愛しく、

どんどん可愛くなっていく。


私と出会ってくれて、ありがとう。


《先生》と呼ばれる立場で、

毎日が試行錯誤の私は、


愛らしい存在に囲まれて、今日も悩みながらも生きていく。

応援ありがとうございます。 とっても励みになります♪