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コメダのゆで卵を通して愛という概念を理解した話

私のライフワークといえば、コメダ珈琲でのモーニングである。
毎朝出社する前に約1時間程度、読書したりぼーっとしたりnoteを書いたりしている。
(この記事も漏れなく朝のコメダで書いている)
コメダのモーニングの魅力については別の記事でも書いている通りだが、私は通算で1,000回以上コメダに通っている。
ここまで行くと好きという概念をとっくに通り越している。

時々出てくる「灼熱のゆで卵」

私は決まって、「ホットコーヒーに食パン(バター)+ゆで卵」というオーソドックスなモーニングを注文するのだが、時々このゆで卵が尋常じゃなく熱い時がある。
触った瞬間に「アヅっ!!」と声が出るほどだ。
この卵をバスケットに盛る時にスタッフの方はやけどしなかったのだろうかと不安になるほど熱い。
殻をむくなんてとてもじゃないが出来ないので、この卵に出会った際はしばらく静観するほかない。

私の感覚でいうと、週に1回くらいはまぁまぁ熱いのが出てきて、月に1回くらいは信じられないほど灼熱の一品が提供される。
もちろん味には何の問題もない。むしろ出来立てなので少し冷ませばいつも以上においしいかもしれない。

不思議なことに怒りを覚えない自分

さて、例えばこのようなことが初見のカフェで起きた場合、多くの人は大なり小なり怒りや戸惑いを覚えるはずだ。
「こんな熱いもの確認もせずに出しやがって!やけどしたらどうする!」
「えっ?この店全部こんなに熱いの?えっ?えっ?」
こんな感じだろう。

しかし1,000回以上通っている私くらいになると
「おっと、今日は熱い日か。少し冷まそう」
くらいの寛容度になる。
この感覚こそが「愛」である、というのがこの記事の結論である。

聖書は語る、愛とは「赦し」であると。

私はキリスト教徒でも何でもないが、これこそが聖書に書かれた「愛」つま「赦し」であると悟ったのだ。

自分の子供が大泣きしている時に「うるさい!」ではなく「何が気に食わないんだい?」と優しく接する親の愛さながらに、灼熱のゆで卵に対しても「熱いんじゃこのボケ!」ではなく「そうか、今日君は熱いのか。たまにはそれもいいだろう」と赦しの心をもって接する私の態度はキリストの域に達している。

もっと言うと、これだけ熱いということはこのゆで卵自体も私のことを愛しているのではないかという気にすらなってくる。
昔、宮沢りえ主演の「湯を沸かすほどの熱い愛」という映画があったが、愛があるゆえにそこには湯が沸き、卵がゆでられる。
愛というのはコントロールできる代物ではない。故にたまには湯が沸きすぎたり卵が冷えなかったりすることも当然あるだろう、と。

何かを許している時、私たちはそれを愛している

というわけで私のコメダへの愛は証明された。
今後も熱々のゆで卵に幾度となく出会ったり、たまには冷めたトーストが出ることもあるだろう。
しかし私はそれを文句も言わずに許し、また翌日も懲りずに同じメニューを注文することだろう。

もはやコメダが私にどんな態度を取ろうとも私の態度は変わらない。
「コメダに行って有名なシロノワールを食べてみたい!」などと恋焦がれていた若いころの私のコメダへの心は、いつの間にか恋ではなく愛に変わっていたのである。

皆さんは今日、何を許すだろうか。

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