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加藤ミリヤ15周年日本武道館公演。僕が感じた「悔しさ」とは。

2020年11月29日日曜日、僕が小学生の頃から崇拝してやまない加藤ミリヤさん(以下敬称略)の15周年日本武道館公演が行われた。今回は本公演で私が感じ、気づいたいくつかのことについて、備忘録のようにつらつらとまとめたいと思う。

今年の2月にはチケットの予約を済ませるほど楽しみにしていたこのコンサート。新型コロナウイルスが拡大し続ける厳しい情勢の中、「安全」を第一にさまざまな対応をしながら開催をしてくださったことに、まず敬意と感謝の意を表します。

「ほんとの僕を知って」を歌うミリヤに、僕の「悔しい」という感情が刺激された。

武道館に響く、ミリヤからの魂の叫び。

アンコール前の最後の曲に選ばれたのは、「ほんとの僕を知って」という楽曲だった。なぜこの曲をあのステージで歌ったのか、その真意は僕にはわからないけれど、どこか僕が昔から感じてきた「悔しさ」や「もどかしさ」みたいなものが、ミリヤの歌声によって表出されていくような感覚に陥ったことは確かだった

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そもそも僕が加藤ミリヤを考えるときに、なぜ「悔しさ」や「もどかしさ」を感じてしまうのか。

ミリヤが高校生の頃、僕はまだ小学生。当時姉の影響で聴き、虜になったミリヤの楽曲は、周りの友人に伝わることはなかった。

僕が中高生の頃、「WHY」「Aitai」「Last Love」「SAYONARAベイベー」などの楽曲によって、僕の周りにも『加藤ミリヤ』という名前が広がり始めた。それまで好きな歌手を聞かれる度に「加藤ミリヤ」と答えても通じなかったのに、それらの曲によって(もちろんそうとは限らないけど)、僕の好きな歌手の名前を知ってもらえていることに、とても嬉しくなった。

しかし、「好きな歌手は加藤ミリヤです。」と答える度に不思議な空気が流れることが、僕の経験上では1億回くらいあった。(※比喩です)僕はその時、僕が自分なりに解釈し愛している『加藤ミリヤ』のアーティスト像と、世間一般に浸透している『加藤ミリヤ』のアーティスト像に、微妙なギャップがあることに気がついた。

「『1番に愛さなくてもいいからお願い傍に居させて』って、なんかすごいよねw」
「『どうして私じゃだめなの?』って、かなり重いよねw」

「好きな歌手は加藤ミリヤです」と言っただけで、実際にこのようなことを言われたことがある。巷で"好きな人に振り向いてもらえないこと”を「加藤ミリヤ現象」といっている人も見たことがある。(僕は腹黒なので、そういう発言に対し、内心「それは加藤ミリヤによる『WHY』現象であって『加藤ミリヤ』現象ではないだろ」と思っています)

そういうときに、どこか漠然とした"悔しさ”を感じてきたんだと思う。もちろん、加藤ミリヤが作る楽曲はどれも素晴らしい。だから、「『Aitai』や『WHY』しか聴いたことない人ってまじ何なん?wミリヤの良さなんもわかってねーじゃんw」と、バカにしたいわけでもなく、古参のオタクぶりたいから彼女の代表作を手にとって「あー、Aitaiね~wまぁミリヤはもっといい曲あるんだけどね」とドヤりたいわけでもない。

僕はただ、彼女が楽曲を通して伝えているさまざまな「愛」について、人々が深く考えたり理解を深めようとするよりも先に、ただ流行と共に彼女の楽曲だけが大衆に消費されてゆく仕組みに、悔しさを感じているんだと思う。

そしてなにより、音楽を愛し、音楽で愛を表現する彼女の魅力を、彼女のことが好きであるにもかかわらず、うまく伝えられないことにもどかしさを感じているんだと思う。

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話が脱線してしまうかもしれないが、前作『Femme Fatal』で感じた衝撃についても綴っておきたい。

『Femme Fatal』は、すごく良い意味で、僕の「加藤ミリヤ像」を変えた。もちろんどの時代のミリヤも本気だけど、このアルバムのミリヤは特に本気だった。(僕はそう感じた)「ああ、加藤ミリヤはずっとずっと遠くの存在だ」と再確認させられるほど、表現力・技術力・想像力のどの分野においても「すごい」と言わざるを得ない、いわばキャリアの集大成とも言える作品だと思う。

僕は彼女と同じ世代に生きているわけでもなく、彼女と同じ性をもって生まれたわけでもない。ティーンエイジに経験するちょっとした火遊びや、愛を知ることの喜びや辛さ、そして母になりまた新しい人格へと変化してゆくさまなど、そのすべてをこの身を持って経験できるかというと、もちろんそうではないと思う。

「加藤ミリヤ」になりたくてもなれないからこそ、彼女が表現したいことはなにか、彼女が救ってきた人々は誰なのかを、自分なりに必死で理解しようとしてきたつもりだ。それでもわからないことはたくさんあった。だから、『Femme Fatal』でミリヤが本気でやりたいことを表現してくれて、本気で伝えたいことをぶつけてくれて、嬉しかった。完全に理解することができないからこそおもしろいし、これからもずっと付いていきたいと思った。

いちファンとしてこんなことを思うのはおこがましいかもしれないが、そんな"本気の加藤ミリヤ”を、人々に知ってもらえていないことにも”悔しさ”を感じているのだと思う。

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・楽曲を通して本当に伝えたいメッセージは置いてけぼりで、ただ消費されていく構造に対する悔しさ
・「今の加藤ミリヤはマジですごいよ!」ということが伝えられていないという悔しさ

これらのことを踏まえると、今回の公演のラストに選曲された『ほんとの僕を僕を知って』は、加藤ミリヤからの叫びでもあり、僕からの叫びでもあったような気がした。代表曲は聴いていたけど次第に離れていった人や、世の中に定着しきった「加藤ミリヤ」というフィルターを通して彼女を見ている人に、「本当に伝えたいこと」が届けばいいのに!という叫びに僕は感じたし、彼女もそう歌っているような気がした。

僕も彼女のことが好きだからこそ、今の本気の彼女を知ってもらえるようにもっともっと発信していなくては!という気にさえなった。(めちゃくちゃ勝手な決意ではあるけど)だからこうして、思いをnoteに綴っている。

(↓『Femme Fatal』のおすすめ曲 聴いてね)
(上で既に載せている『貴方はまだ愛を知らない』が一番好きです)

このご時世だからこそ気づけたアンコールの選曲について

今から話すことを簡潔にまとめると、「表現方法でその曲が持つメッセージ性をいかようにも変えられる」って話になるのだけど、せっかくだからこの話も残しておこうかなと思う。(この捉え方が正しいと言いたいのではなく、あくまでも僕はこう感じたという話)

アンコールの幕が開けてからミリショーのステージを2曲挟み、ミリヤからのアンコール1曲目に選ばれたのは代表曲『Aitai』だった。僕は正直、今まで『Aitai』のことは好きだけど、格段に好きなわけではなかった。(理由は前述の通りです。)だから内心、「やっぱり人気な曲だからアンコールにもってきたのかな」とも思ってしまった。

しかし、この日にミリヤが歌う『Aitai』を聴いていると、今まで聴いてきた『Aitai』とは少し違って聞こえた。今まで自分の中では恋愛の曲という解釈をしていたけど、『ほんとの僕を知って』で僕が抱いた感情とともに咀嚼してみると、あのときミリヤは「誰か」を想って歌っているというよりかは、もう少し幅広い対象に向けて歌っているような気がした。それこそ、前述したような「ミリヤの楽曲を昔は聴いていたけど最近は聴いていない人」みたいな。(これはさすがに拡大解釈かもしれないけど。)

とにかく、あの日『Aitai』を歌うミリヤは、すべてを包み込む聖母のようだった。ミリヤが母になり一皮向けたことでそう感じたのか、それとも僕がただ考えすぎただけなのか、はたまたコロナのこのご時世がそう思わせたのかはわからないけど、少なくとも僕には切ない恋愛ソングには聴こえなかったし、間違いなくミリヤは悲劇のヒロインではなかった。逆に、あの日の『Aitai』からは明るさや希望さえ感じた。聴く側にそう思わせるほど、ミリヤも心から「会いたい」「会いたかった」と想って歌ってくれていたのだと思う。(そう思いたいだけかもだけど。)

アンコール最後の曲、つまり本当にこのコンサートのラストを飾る曲は、今まで僕がまたもや「恋愛の曲」と認識していた『I miss you』という楽曲だった。だが、拡大解釈をし続けた僕は、ミリヤから「最後の曲は『I miss you』です」と伝えられると、脳内のうたまっぷがこの曲の歌詞をものすごいスピードで処理し、僕に「う、うわぁ~!このご時世、しかもこのタイミングで歌うにはとっておきの曲じゃん~!」と唸らせた。

僕たちファンが「会いたい」と思う以上に、アーティストや表現者の方々も僕たちファンに「会いたい」と思っているんだなぁと、本当に伝わった。ミリヤとコミュニケーションが取れた感じがして、とても嬉しかった。あと、恋愛の曲だと思っていた曲でも、表現の方法によって伝え方をこんなにも変えらるし、その曲が持つ意味もいかようにも変えられると気づけて、感動した。やっぱりミリヤはすごいわ。一生ついていくよ。

最後に

(ここからいきなりIQが低くなります)

いや~~~~~~~~!!!!!!オフラインのライブはやっぱり良いね~~~~~~~!!!!!今回は出演のゲスト陣が豪華なこともあり、いつもの倍以上アーティストからの熱気を感じた。

観客目線でしか語れないけど、表現者が「ファンのみなさんのおかげです」って言葉を僕たちに向けてくれるのって、本当なんだろうなって思った。(逆に今までどう思ってたの?)だってステージでパフォーマンスをするアーティストの方々、まじで本当に楽しそうだったんだもん。多分ファンが目の前にいなかったら、また熱量も変わってたと思う。まじでこんなに演者が楽しそうなライブ、ある???ってくらい超楽しそうだった。キラキラしてた。「生」を実感した。

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とにかく、アーティストや表現者の方々が活動し続ける以上、僕たち観客はその作品をありがたく享受し続けるわけだから、僕もそれに答え続けたいと思う。そういう意味では僕の方こそ、「アーティストや表現者に生かされている」と言っても、過言ではないよなぁ。と思う。僕も、誰かにそう想ってもらえるような表現者に、はやくなりたいな!

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