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ヴィクトル・ツォイの家族史(1)

*極東の作家ワシーリー・アフチェンコが6月21日付けの「dv.land」に執筆した記事がとても面白かったので、ツォイのファンの方たちにも読んでもらえたら、と訳し始めました(3回くらいに分けて仕上げます)。元のサイトはコチラ(写真もありますので、見てみてください)→ https://dv.land/people/gruppa-krovi-dalnevostochnaya

ソウル通りのツォイ家
ヴィクトル・ツォイの曽祖父ツォイ・ヨンナムは、1893年に朝鮮半島の漁村ソンジン(城津)で生まれた。ソンジンは「自由港」となって急速に発展し始め、1931年には市になる。1945年8月19日、当時は日本語読みで「ジョーシン」と呼ばれていたソンジンに太平洋艦隊の空挺隊員らが上陸し、海軍大将イワン・ユマシェフの指揮により町は占拠された。1951年、朝鮮民主主義人民共和国となった市は新たな名を得る。金日成の同志、金策(キム・チェク)にちなんで金策市となったのである。この町は沿海州のハサン地区のすぐ近くにあり、つまり、ロシアと接していた。

1907年、14歳のツォイ・ヨンナムは、ウラジオストクへ移る。ロシアの朝鮮人の運命に関する著書があるモスクワの歴史家ドミトリー・シンは、ツォイの家系についての本を執筆中だ。彼は非常に興味深い事実をいくつか発見している。例えば、1913年のウラジオストク住民の戸籍を見ると、ツォイ・ヨンナムは「仏教徒の雑役夫」と記載されている(だからヴィクトル・ツォイの音楽には仏教的なモチーフがあるのだなどということはできまい、仏教とはなんの関係もないグレベンシコフのほうが仏教的な要素ははるかに大きい)。

ツォイ・ヨンナムが住んでいた住所は、
ウラジオストク市 ノヴォコレイスカヤ街 ソウル通り13号館
当時は市全体が、労働者街、水夫街といった街区から成っていた。20世紀初頭のウラジオストクは完全なる多民族都市だ。なかでもアジア系のディアスポラが住民のかなりの部分を占めていた。そのせいで当時の通りの名は、北京通り、中国通り、朝鮮通り……となっていた。ソウル通りだけは今もその名を残している。おそらく、かなり街外れの場所にあり、ずいぶんと前から「通り」とはいえないものだからではないかと思う。

ウラジオストクで、ツォイ・ヨンナムはアンナ・ワシリエヴナ・ユーガイと出会う。ヴィクトル・ツォイの曾祖母となる女性だ。ヨンナムとアンナには二人の子どもが生まれた――1914年にツォイ・スンジュン(ロシア名:マクシム・ペトロヴィチ・ツォイ)、1917年にはライサ・ペトロヴナ。娘の生後まもなく、ツォイ・ヨンナムはこの世を去った。(つづく)


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