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鏡にいない私たち

先日カナイと喧嘩をした。
ご存知ない方のために、カナイは私のパートナーであり中学の同級生であることを伝えておく。
他人の夫婦喧嘩ほど実りのないものはないのでその内容は割愛するが、1.5ヶ月に1度くらいの頻度でゲリラ的に開催されるイベントであり、大型のミーティングであると認識している。

毎度イベント中、私の頭の中は大量の文字とそれらを整理するための何段もの仮設什器で埋め尽くされる。大量の文字の出所は2 : 8=カナイ : 私。言葉数が極端に少ないカナイと、環境さえ整えば永遠に話していられる私とでは、湧出量が歴然である。
それらはその空間の真ん中に置かれた肥沃な泉から湧き続け、これらをひたすら棚に仕舞いながらイベントは進んでいく。

今回のイベントの主催者はカナイであった。私は呼び出しをくらったスタッフでも言おうか。カナイが語る貴重な言葉を浴びながら、理解できたものから少しずつ棚に整理し、時折指示を(質問を)仰ぎながら自分の非を認めていく。中には理解できないものや不純物も混ざっていることがあるので、浴びたと見せかけて小脇のバケツに溜めこんで、ここぞという時にカナイに浴びせたりしながら進行させていった。

棚もキャパの限界を迎えそうなイベントの終盤、泉の湧出量が減ってきた頃、私の脳内の様子がガラリと変わった。
これがちょっと複雑なのだが、先ほどまでの”空間”的な感じではなくなり、架空のキャラクターみたいなものが現れ始める。このキャラクターは毎回全く違う容姿をしていて、今回は空気清浄機をベースにした”何か”だった。”何か”は2体いて、横に並んで立っている。段々と、それらがカナイと私を模したものだとわかり、特徴が鮮明に見えてくる。

1体は、口が一つ。おそらく誰もが想像するあの空気清浄機のまま、上に穴が空いているタイプ。淡々と落ち着いた様子で空気を入れたり出したりしている。
2体目は口が無数に空いている。そう、藤本壮介のHouse-Nみたいな空気清浄機。全ての穴を使って複雑に空気を循環させている。
動かす空気が少なく静音なため、胴体がよく目立つカナイ機と、激しく循環する空気の動きで胴体がほとんど見えない私機。
喧嘩という名のイベントに挑む私たちを、忠実にけれど客観的に捉えた産物であった。

この”何か”の出現は、客観的な視点を取り戻したことを示唆し、イベントが終わる合図であるのだが、私は途端にワクワクし始める。比喩表現や抽象的なものが大好きだからだ。謎の何かが自分の脳内に出現したこの状況を早く共有したい。面白い!不思議!そう言い合いたい。自己完結してくれない厄介な人間なのである。

ワクワクし始める私を他所に、目の前には脳みそフル回転の疲れで目がトロンとし始めたカナイがいる。イベントはもう終わりだ。
お疲れ様!ありがとう!という気持ちを短時間で爆発的に燃焼させて、私はカナイを捕まえた。好奇心はすでに空気清浄機に切り替わっている。

得体の知れない空気清浄機の話を聞かされたカナイは、トロンとした目に優しい微笑みを浮かべながらリビングへ消えていった。イベントも、後夜祭も、無事に終わった。両者共にモヤモヤが晴れ、私に至ってはお土産付きだったからラッキーだ。


喧嘩に限らず、真剣に己と向き合わなければいけない状況が大好きだ。
1日数回鏡を見たって、誰かと一緒に写真を撮ったって、何をしたって目に見えない形をした自分が見えるからだ。私は空気清浄機のような効率的なフォルムはしていない。カナイだってそうだ。でもあれは私たちだった。鏡の中にはいないが、私たちだった。

擬人化された何か、時にはほんとにただの図形みたいな私たちの姿。それは、生きやすさに繋がる出会いでもある。
心がグッと蟠り(わだかまり)を抱えた時、これまで出会ってきた鏡にうつらない私たちが、その場を俯瞰させてくれる。複雑さを内包させて、シンプルに物事をまとめてくれる。感情や文字の大波に飲み込まれることなく、対処できるようになっていく。

この経験は、私特有なのだろうか。はたまた呼吸と同じくらい全人類共通の生きる術なのだろうか。それは今はわからない。けれど、盲目な人は必ず存在するのが世の摂理。可視化して、少しでも多くの誰かを楽にできたなら、そう思うと、表現に対する熱量は増していくのである。



Fin.
麻裕

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