見出し画像

谷口吉郎の教養と常識

書評:『雪あかり日記/せせらぎ日記』(谷口吉郎著、堀江敏幸解説、中公文庫、2015年)

 谷口吉郎(1904-1979)は昔から私のなかですこし特別な位置づけの建築家だった。谷口が長らく教鞭を執った東京工業大学で大学院修士課程の2年間を学び、キャンパスに残る谷口の建築に身近に接していたということもあるのだが、それ以外に谷口は私の親類関係の建築を手がけてもいて、私が生まれた日の翌日に亡くなっているという偶然にも妙な縁を感じていた。ただその一方、例えば谷口の作品に対して、彼の弟子である清家清の戦後小住宅に感じるような新鮮な共感はなく、谷口吉郎は私にとってあくまで歴史上の人物でもあった。私が在学していた頃の東工大でも、当時まだ存命だった清家やさらにその弟子の篠原一男に比べ、現代の問題として谷口の仕事が顧みられることはあまりなかったと思う。

 その印象が一変したのが2015年、建て替え間際のホテルオークラ(1962)を見学したときだった。学生時分にも訪れたことはあったのだが、こちらも歳を重ね、ものを見る目もいくぶん養われていたのかもしれない。谷口が設計を担当したロビーの空間に、現代と通じるどころか今の建築にも滅多に見られない、瑞々しい豊かさを感じたのだった。巧みな空間構成と装飾によって様々な質の場を大らかに併存させたデザインは、とくに奇抜なところがあるわけでもなく、若い頃には捉えようがなかったのだと思う。当時から15年ほど経ち、時代としては谷口が設計した時点からより遠くなっているはずなのに、存在はむしろより近くに感じられる。こうした人間の創作と人生の関わり方として興味ぶかい体験を、その後、谷口の文筆の仕事である『雪あかり日記/せせらぎ日記』を読み返したときにも繰り返すことになった。

 この分厚い文庫本は、既刊の『雪あかり日記』(東京出版、1947年/雪華社、1966年/中央公論美術出版、1974年)と『せせらぎ日記』(中央公論美術出版、1980年)の2冊をまとめたものである。谷口は東工大の助教授だった1938年11月からおよそ10ヶ月間、ドイツの日本大使館建設に協力するため、外務省の嘱託としてベルリンに滞在した。2冊の「日記」は、この谷口にとって初の滞欧期のことについて書かれている。結局、第2次世界大戦に至る時局の悪化により、谷口は大使館の完成を見ることなく、英仏がドイツに宣戦布告した翌日に命からがら緊急の避難船でヨーロッパを離れるのだが、もともと谷口の渡欧は彼が東京帝国大学で師事した伊東忠太の計らいによるもので、西洋の建築や文化に触れる遊学の機会でもあったようだ。実際、停滞する工事のあいまにドイツをはじめ周辺各国(フランス、イタリア、スイス、スウェーデン、デンマーク等)を見て回ったことが、『雪あかり日記/せせらぎ日記』には記されている。

 本書もまた、かつて大学の図書館で2冊の単行本をめくってみたときには捉えどころがないものだった。「日記」といっても厳密な日記形式はヨーロッパを脱出する最後の2週間ほどに限られる。本書の多くは帰国後、(建築専門誌ではなく)文芸誌や一般誌のために書かれた文章に基づいており、全体は紀行の体裁で統一されているものの、対象は建築や都市に限らず、文学や演劇、音楽、絵画などの諸芸術、政治、気候風土、料理、その土地の人々のことなど、日常の些事にわたるまで幅広い。例えばベルリンの都市のモニュメントともなっていた19世紀プロイセンの大建築家カール・フリードリッヒ・シンケルの建築群には『雪あかり日記』全10章のうち4章が費やされているが、それも文体はあくまで随筆調であり、他の紀行文に紛れ込ませながら、明快な論文や批評として読まれることを避けているようにさえ思われる。

 若い頃には散漫にさえ思えたかもしれない本書のこうしたあり方も、今はそこに谷口の存在がありありと感じられる。「作風とは心に響くものである。一軒の家、一脚の椅子、一枚の敷物、それが「作品」である以上、それには必ず「作風」がつきまとう。それを作った者の品格や気風が、きっぱりとそれに現われてくる。作者の体臭さえそれに感じられる」(p.26)。谷口がこう書く意味で、私にはこの本が響いてくる。

 対象が多岐にわたるのは谷口の教養の深さゆえだろう。日本で学んでいた様々な知識や断片的な経験がヨーロッパの空気に触れ、現地のものごとを目の当たりにするなかで自由に連鎖反応を起こしていく。教養(culture)とは個々の知識のことではない。文化(culture)が既成の諸領域の境界を超えて、その全体の基盤になるものを示す概念であるのと同様に、教養は特定の専門領域を超え、一人の人間のなかで個々の知識や経験を有機的に結びつけていく。

 谷口の連想は自在である。アルプスの山々を望むスイスの山村で、草上にまどろんでいた彼は思わず靴を脱ぎ裸足になる。「足の裏を地面に当てるとひんやりと冷たい。大地の感触に、幼い頃「はだし」となった時の、快い記憶がなつかしくよみがえってくる」(p.389)。日常の一場面で自らの身体的衝動が故郷の記憶を呼び覚まし、思いはそこから「素足の国」である日本と「靴の国」である西洋諸国との文化の対比に移り、イサドラ・ダンカンの裸足の舞踊やフィレンツェで観たボッティチェリの《春》の女神、さらには土田麦僊が描いた大原女、中宮寺の弥勒菩薩の裸足まで連なっていく。西洋から東洋へ、現代から古代へ、建築から彫刻へ──こういった対比と連鎖は本書のあちこちに見られ、各章はどれも豊かな余韻を残して終わる。この谷口の文章の構造は、あるいは谷口の建築の構造と類比して考えられるかもしれない。もしそれが可能なら、それは文章であれ建築であれ、谷口吉郎という個人の魂がそこに確かに込められているからに違いない。

 特定の観念の枠組みに囚われず現実を柔軟に捉えるという谷口の思考は、建築の領域に限っても見受けられる。1930年代当時、先端的な若い建築家にとって最新のモダニズムの潮流には抗いがたい魅力があったはずだ。けれども谷口はモダニズムの科学性や機能主義に基づく社会的意義は十分に認めながらも、そのイデオロギーが絶対化し、「過去様式から分離することのみを現代の目的と考え」(p.96)るような排他性を早くから批判していた。谷口の教養は、風土や伝統や人々の歴史に根ざした過去の建築の良さを切って捨てるわけにはいかない。シンケルの古典主義建築に対しても、日本では前世紀の「気乗りの薄い存在」(p.102)だったが、現実にベルリンで暮らし、歴史の重みを湛えたその建築を目の当たりにした以上、先入観を排してそれと真摯に向き合わざるをえないのである。

 シンケルをめぐる記述が学生の私に届かなかったのは、それが必ずしも直接的に読者に向いた言葉ではないからだろう。谷口は洋行帰りの特権的な立場から読者を説き伏せようとはしていない。むしろ重心は「私とシンケルとの対話」(p.180)にある。シンケルの建築に向かう谷口の「感じられた」、「わかってきた」、「これはどうしたわけだろう」といった言葉は、一見いかにも無防備で頼りない。しかし威勢のいい流行の物言いではなく、眼前の作品と身一つで対峙するそのような言葉だからこそ、決して古びず、時代を超えた共感を生むのだろう。ふいに自分でもシンケルの建築を確かめ、同年代の谷口と親しく語り合ってみたくなる。

 ところで谷口はドイツで日常的にユダヤ人の迫害を目にし、ヒトラーを中心とする国民の熱狂にも接していた。しかし本書を読む限り、この歴史的にも特筆すべき排他主義と全体主義のなかでも、谷口の自由な思考は驚くほどぶれていない。本書は基本的に戦時中に発表された文章を戦後にまとめ直すという手続きを経て出来ているが、日本の言論環境においても戦中期には統制を含む強い磁場があり、戦後は戦後でそれと正反対の磁場が発生している。けれども谷口において戦中と戦後とで宗旨替えをしたような素振りは見られない。戦中に臆せず、「神は英雄ナポレオンにセントヘレナの最後を與へた。ベートーベンには、音楽家の最も呪ふべき聾さへ與へた。神はヒットラーに一たい何を與へようとしてゐるだらうか」(「雪あかり日記 その五」『文藝』1945年3月号)と書くとともに、戦後も動じることなく、「いつも私がくるとハイルヒットラーと挨拶する人のいゝ爺さんだつた」(「雪あかり日記 その三」『文藝』1945年1月号)といった言葉を生かしている。寛容さを失い硬直化する世間の空気に流されず、冷静に現実を観察し、ものごとの善し悪しを自分で判断する。この谷口の強靱な常識感覚も、本書が今、私に響いてくる要因の一つだと思われる。

初出:『住宅建築』2018年12月号
収録:『建築と日常の文章』(『建築と日常』号外)、2018年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?