見出し画像

思い出すことは何か

掲載:『建築のポートレート』(写真・文=香山壽夫、編=長島明夫、LIXIL出版、2017年) ※編集者あとがき

「建築家はしばしば旅をする。中世の石工の時代から今日に至るまで、旅は建築家の最良の学校と言われてきた。建築家は、スケッチブックと共に旅をする。すぐれた建築家は、皆すぐれた旅のスケッチを残している。」(香山壽夫『建築家のドローイング』東京大学出版会、1994年、p.17)

 しかし香山は、スケッチブックだけでなくカメラ(アサヒペンタックスないしニコンの一眼レフ)も携えて旅をしてきた。本書『建築のポートレート』は、1964年以来そうして旅をするなかで撮られた写真とともに、それらの写真とあらためて向き合い、書き下ろされた文章を並べて載せた本である。範囲がアメリカ合衆国とヨーロッパに限られているのは、写真を選ぶうちいつしか決まったことで、それほど強い意図はない。積み重なるキャビネットにしまわれた膨大な数のスライドを前にし、とりあえず対象を絞ることが作業に求められたためだったかもしれない。

 先に引用した文に続けて、香山は次のように書いている。「そのようなスケッチを見て明らかなことは、建築家は、自分の見たいものを見、そして自分の描くように見ているということである」。これも写真においても同じだろう。写真も撮影者の見たいものが見られるものであり、そこに撮影者固有のまなざしが投影される。ただ、カメラという機械を介しているぶん、スケッチと比べてその現れはより客観的になる。そのことで写真は撮影者から離れて素っ気ないものになってしまう場合もあれば、撮影者自身が認識していなかったものを事後的に示してくれることになる場合もある。しかし、いずれにせよまずはそれぞれの現場で対象を見つめ、その有り様を感じるという行為が必要になるはずだ。スケッチと比べて手軽だからという成り行きでいい加減に撮られた写真には、いい加減なものしか写らない。その点、香山の写真はいい加減なものではなかった。

 この本に収録された写真36点のうち25点までが、1964年から67年のおよそ3年間、つまり1937年生まれの香山の20代後半から30代にかけて、その建築の修業時代に撮られたものだ。

 64年、香山は建築家ルイス・カーンに学ぶため、初めてアメリカに渡る。飛行機は西海岸のロサンジェルスに到着し、そこから大陸横断バスに乗ってアメリカ各地に立ち寄りながら、カーンがいるフィラデルフィアのペンシルヴェニア大学へ向かった。「九十九ドルで、九十九日間乗り放題という、グレイハウンドバス会社の格安キップを使ったのである」[*1]。本書に載るもっとも古い1枚、タオス・プエブロの写真はその時に撮られている。

 その後、ペンシルヴェニア大学で修士課程を終えた香山は、そのままアメリカでしばらく働いたのち、66年、これも格安の貨物船で大西洋を越える。ヨーロッパの建築を見て回るためだった。ロンドンで働きながら旅の準備をし、翌67年にまずミラノでフィアット500を購入、北はスコットランドから南はギリシャまで、建築を訪ねて8ヶ月にわたり各地を走破した。

「見たい建物のあるところまで来ると、近くの公園や森のキャンプ場にテントを張った。食べものは村や町の市場で求め、アメリカ以来、旅には常に持ち歩いているキャンプ用ストーブで料理した。満足できるまで建築を見、スケッチし、思ったことをノートに記しながら留まった。仕事から離れ、身分も所属もなく、全くの放浪無頼の旅だった。」(香山壽夫「見る、描く、考える──旅で学ぶということ」『Bulletin』日本建築家協会関東甲信越支部、2016年9月号)

 このような旅行で多くの写真は撮られた。しかし、それは必ずしも十分な数ではなかったかもしれない。当時の香山にとってカラーのポジフィルムは高価で貴重なものであり、あらかじめ一つの建築で使える枚数を決めて撮影したほどだという。1枚1枚の写真は、今とは異なる重みをもっていた。さらに海外旅行が自由化されたばかりの1ドル360円の時代、それぞれの建築は再び訪れることはないものとして感じられていたのではないだろうか。またそれらの建築は、今のようにインターネットで無数の鮮明な画像をたやすく見ることができるようなものではなかった。香山が学んだ当時の東京大学でも、建築史の講義でスライドが用いられることはまだなかったという[*2]。一連の旅行で自分が撮影する写真が、後に数々の講義や書籍で多用されることになるとは考えもしなかったにせよ、建築を研究する者にとって世界各地の建築を写したカラー写真が財産になるという認識は、当時の香山にもあったにちがいない。だからそこで撮られた写真は切実なものだった。

 こうした撮影の背景は、そこに写る建築や都市を今なお生き生きと見せることの一因になっていると思われる。うかつに撮られた写真は撮影者の体験から離れ、その画像が外在化し、いずれ体験の記憶をにべもなく上書きする。けれども香山にはうかつに写真を撮る余裕はなかった。そしてお金の余裕はなかったが時間の余裕はあった。時には1枚の写真を撮るため、望ましい光を何日も待つことさえあったという。そうした体験の濃度が、機械が写す画像に生気をもたらし、主観と客観の響き合いのなかで、新たな意味を生成するのだと思う。

 例えばパーム・ハウスやテンピエットの写真(下掲)に顕著に見られる独特の構図は建築家としてのまなざしを強く感じさせるもので、今回新しく書かれた文章では、それぞれの構図であることの意味が的確に述べられている。しかし果たしてそれらの写真は、そうした建築的意味に対する意識が先にあって、それを表現するために撮られたのだろうか。多くの写真を見ていると、必ずしもそうではない気がする。個々の建築を目の当たりにした若者の直感によってまず撮影され、その写真が事後的に、若者に建築家としてのまなざしを与えたとも考えられるのではないか。

名称未設定 1

 本書の写真に写る建築や都市は、その後の建築家としての香山の血となり肉となったようなものばかりだ。書籍や雑誌でそれぞれの建築のことを知り、実際にそこを訪れ、その後二度三度と訪れている場所もあるかもしれないが、そこから空間と時間を隔てたところでまたその建築を思い出す。おそらくそうした行為の蓄積が、一人の建築家を育てるのだろう。そしてその過程で写真が記憶の再生装置として働くとしても、その都度思い出されることは決して過去の正確な反復ではないはずだ。過去が現在に影響し、現在が過去に影響する。本書における写真と文章の構成は、そうした過去と現在との動的な関係を垣間見せる。

 ところで写真はしばしば不在の象徴であると言われる。写真に写るものは、かつて在った/今はもうない、写真はそのことを見る者に暗示する。ところが建築の写真、とりわけこの本に載っているような西洋の歴史的な建築の場合どうだろうか。ある建築は数百年ないし1000年以上前から存在し、今も変わらずそこに立っている。無意識のうちであれ、私たちはそういった認識をもって、その建築の写真を見ている(むしろ建築よりも先に、それを写したフィルムのほうが劣化し、失われてしまうのを心配するほどだ)。そして専門的な建築写真は、そうした建築の普遍性や超越性、永遠性あるいは無時間性を明示する撮り方をし、19世紀の写真の発明以来、その撮影技法は独特の洗練を続けてきた。

 しかし香山は建築のプロではあっても建築写真のプロではなかった。プロとして建築を見つめつつも、アマチュアとしてそれを撮影した。基本的に三脚は用いず、一眼レフを自分の目の高さにかまえる。視界が不自然に広がる広角レンズは好まない。その場にいる人々や日常の情景、旅をする自分の感情に基づいてシャッターを切る。だから香山の写真は、その場の空気感とそこに立つ撮影者自身の身体性を色濃く湛えている。建てられてから長い年月を経た建築の確固たる存在に向き合いつつも、その存在を絶対視するのではなく、自らが生きる現在との関係のなかで捉える。このことは単なる写真の趣味や技術の問題を超えて、香山の建築観や歴史観を反映していると思われる。

 建築は普遍的な物として、超越的なかたちとして、他から自律して存在するわけではない。ある時代のある場所、様々なものごととの複雑な関係の網の目のなかに存在する。例えばスタンレー=ホイットマン邸やスケリッグ・マイケルの修道院についての文章は、香山のこうした考えをはっきりと示しているだろう。それぞれの建築は必ずしも美的に傑出しているわけではない。技術や様式の歴史的な蓄積に裏打ちされているわけではない。しかしそこには、それぞれの建築を必要とした人々の生活あるいは人生の切実さがあった。そこに確かに根ざしていることが、むしろそれらの建築を歴史上に固有なものとして位置づけている。次の文は、香山がアメリカに留学する3年前、日本の大学院生だった頃に書かれたものだ。香山が建築を考える際の根本が、この時すでに確立している。

「建築が豊かな内容をもつのは、つねに人間がそこに存在しているからであって、建築の美しさは冷たく凍った抽象の美として存在するものではない。建築をつくるということは、すなわち人間の生活する空間をつくるということは、有機的統一体としての人間の生活を、その空間において実現するということに他ならない。」(香山壽夫「明日の統一をめざして」『美術手帖』1961年10月増刊号)

 建築家は歴史に倣うだろう。しかしその歴史とは、建築の結果としてのかたちそのものではない。かたちをなぞることだけでは、その建築を生み出した源泉は捉えきれない。歴史に倣うとすれば、歴史上その時々の現在を切実に生き、そこに固有の建築をつくってきた人間と建築の関係こそまず倣うべきではないか。香山の師ルイス・カーンは、「はかりしれないものが歴史に先立ってあったはずです」と述べている[*3]。本書の試みは、香山が過去に訪れた建築や都市を、それらの写真を介して現在に思い出すことにあったが、香山がこれまで建築家として続けてきた試みは、歴史に先立って建築を生み出してきたものを現在に思い出すことにあったのではないか。本書の編集作業を経て、そのようなことを考えている。

[*1]香山壽夫『ルイス・カーンとはだれか』王国社、2003年、p.51
[*2]「その頃は、まだ講義にスライドが用いられることは行われておらず、藤島[亥治郎]先生は、バニスター・フレッチャーの建築史の説明図を授業用に拡大した図を、黒板に画鋲でとめて用いられていた。」(前掲『ルイス・カーンとはだれか』p.48)
[*3]ルイス・カーン「一九七三年、ブルックリン、ニューヨーク」(1973年の講演録)、『ルイス・カーン建築論集』前田忠直訳、鹿島出版会、1992年、p.23

収録:『建築と日常の文章』(『建築と日常』号外)、2018年


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?