ある神話学者のがん闘病日記2 死、不安、恐怖

 母が乳がんだった。初期で見つけたので手術で取り、その後は特に治療もせず、治った。ただ、それから大分あとに、すい臓がんを患い、命を取られた。
 そんなことがあったので、自分としては定期的に乳がんの自己検診を行っていた。それによって、結果的にまだ小さいうちに見つけられたのは不幸中の幸いであった。
 しかし「がん」という病気一般への私の印象はかなり悪い。母より長生きした母方の祖母は、胃がんであった。それも、かなり進んだ状態で見つかった。その時には、祖母は、ほとんど意識がなく、そのまま眠るように亡くなったのは、それはそれで人生の仕舞い方としては幸福であったのかもしれないが。

 がんと「死」は近い。母と祖母を見送った私は、いずれ自分も、という思いはどこかにあった。

 ところが私はこのたびのがんに対しては、どこか楽観的というか、何か自分のことでないような、そんな変な客観性があった。治るだろうし、命にはかかわらないだろうと。
 その楽観的思考は、すぐ後に崩れ去るのであるが。

 がん宣告のあと、すぐに手術をすることが決まった。転院先の病院で念入りに検査が行われた。マンモグラフィー、超音波、MRI。これらの結果、おそらく転移はないだろうと言われた。安心した。
 その安心にはいろいろあって、私はかなり以前から「がん不安症」であった。乳がんが見つかるずっと前から、自分はもしかしたらがんかもしれない、もしかしたらもうそんなに長くは生きられないかもしれない、という思考に取りつかれて、言いようのない不安にかられることがあったのだ。
 そう、「不安」。
 しかしそれは、乳がんが見つかったことによって、はっきりとした輪郭を持つこととなった。その瞬間に、それは「不安」ではなくなった。なぜなら不安とは輪郭を持たない漠然としたものだからだ。輪郭を持った瞬間に消失する運命のものである。少なくとも私はそう考える。
 私は形のある「敵」としてがんと向き合うことになった。それは不安から恐怖へ、と言ってもいいかもしれない。ただ、扱いづらい不安よりも、私にとっては恐怖の方が扱いやすかった。形があるものに対しては、人は、対処することができると思うから。

3に続く


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