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WD#117 ネットにお住まいの批判屋さんへ

結論から言うと、最近のインターネット、特にTwitter(別に今に始まった事ではないが)が見ていて非常に不快である。そしてその原因はすべて「ネットで誰かを叩いている人」だ。この回では、こういったホモサピエンスのことを「批判屋さん」と、とてもソフトな表現にしておく。なぜなら、今から批判屋さんをメッタ刺しにしなくてはならないから。名前くらいは優しくしようというせめてもの慈悲なのだ。

批判屋さんにいささか疑問を持ったのは今が初めてと言うわけではないが、ここ数週間、とくに批判屋さんの醜態が目に余ったので、折角ならと言うことで貴重な日記の一回ぶんをわざわざ批判屋さんのために使ってあげようと思う。

まずこの最悪のムーブのきっかけは、お笑い芸人アインシュタインの稲田さんがDMで女性に卑猥な画像を要求したというタレコミをもらったとあるTwitterアカウントがそれを広めた件。稲田さん本人も自身のアカウントで否定していたが、まあ案の定批判屋さんは大勢出動し、本人はもちろんのこと、稲田さんを擁護した芸能人の方々のもとへも出動し、ポコポコ叩いていた。

最初にこの騒動を目撃した時、私は「すごいな」と思った。もちろんほんとうなら稲田さんはとっても良くないことをしているから処罰に値するが、得体の知れないアカウントからのタレコミを100%鵜呑みにして、逆に本人の発言は100%無視して攻撃する様が「すごいな」と思った。

確かに、その謎アカウントの投稿には画面録画ではっきり痕跡が残っていることが証明されているし、IDも一致していたらしい。しかしこんなのは編集しようと思えばいくらでもできるし、そもそもそのDMをネタとして提供したその人も変な行動だな、と思う。また、本人は「乗っ取りの被害に遭った」と言っているが、こちらも本当かな、とは思う。

つまり何が言いたいのかというと、「わからない」んですよ。誰が正しいことを言っていて、誰が嘘をついているのか、100%言い切れない状態にある。なのに、そんなグラグラな足場の上で「まじ最低」とか、「これだから芸人はゴミ」とか、「こいつ前からキモいと思ってたけどやっぱそういうやつだったんだな」とか、なんでインターネットで書けるんだろうか。私はその神経が一番「わからない」。

実際に、少し前に同じような系列のアカウントが「星野源が不倫している」という情報を発信したところ、その真偽も確かめないで誰かを叩きたいだけの批判屋さんが星野源さんの悪口を書きまくり。「こんなやつが不倫してないはずがない」とか。そして、本当はしてなかった。まあ多分、批判屋さんたちはろくな謝罪もせずにこっそりツイートを消したりしたんでしょうね。いいよな、加害者はその行動のキャンセルが楽で。

その一件から何にも学んでいない。ここで断言するが、

「不確かな情報には触れないのが1番!!!」

これに尽きる。ニュースを見ながら「どっちが正しいんだろうな〜」と思慮を巡らしていればよいわけで、そこで「よし、多分こいつが悪いから攻撃しよう」というギャンブラー的思考は一切必要がない。それは己の身を滅ぼすだけなのだから。

あとたまに「表現の自由だろ!』とか言う人もいるが、誰か特定の人への下劣な悪口を文章にするという行為を「表現」だって?笑かすんじゃねえよ。あなたがやっている行為は「表現」にも満たない幼稚な行為なので、「表現の自由」とかそんなものの保護対象ではない。当たり前だ。

もう一件、触れておかなければならないのがフワちゃんの件。これは稲田さんの件とはまた少し異なっており、何が異なっているのかというと、フワちゃんが100%悪いとわかっていることだ。

だから、この事件によって引き起こされたこと(ラジオの降板など)はもう仕方がないことだと思う。やってしまったことに対する罰は受け入れるほかない。

ただ、この事件によって「叩ける対象が現れた」と勘違いしている批判屋さんがあまりにも多すぎる。叩いていい対象なんていないのに。

あともっと良くないのは、フワちゃんが過剰に叩かれているため芸能人が擁護しだすと、「これだから芸能人はゴミだ(恒例のデカすぎ主語)」などとまた叩き出す。そういう人がいるから擁護せざるを得ないのに。本当に、叩ければなんでもいいんだな、と思う。



一体なぜ批判屋さんはここまで他人に対して熱くなれるのだろうか。世の中で巻き起こっている問題は「他者vs他者」なのに、あたかもそのターゲットが自分であるかのような熱量で他者を批判することができる。私が他者に興味が無さすぎるだけなのか?

確かに、他者であろうと悪い行いをした(とされている)人を言論で攻撃するのは、見方によっては悪人成敗であり、善行のように映る。ただ、本当にそうだろうか。名前を隠し、顔も隠し、そんな状態で、他人の悪口を書く。それが本当に善行なのだろうか。

もし批判屋さんが自分自身の姿を俯瞰したら、おそらく自分自身も批判するだろう。「赤の他人にこうやって悪口言えるやつマジで引くわー。」と。そうしないと筋が通らない。批判することに一種の快感を感じているなら、永遠に自分を眺めればいいのだ。なんて省エネなのだろう。

もしそれができないなら、かなりの問題だ。他人は攻撃できるのに、自分自身は攻撃できない。防衛本能なのか?

この話は、話題としてあまり芳しくないが、「殺す」という攻撃の究極まで引き延ばすこともできると思う。果たして他殺を犯した人間は自殺ができるのだろうか。おそらくできないだろう。他人に宿る魂と、自身に宿る魂を天秤にかけたとき、どうしても自身の魂の方に傾いてしまう。それが人間なのだ。

批判屋さんはきっと、悪を許せないんだろうな。それは別に悪いことではない。ただ、「ネット上での批判(誹謗中傷)」が悪いことである、という自覚だけが欠落している。もしそれがあるのなら、きっと批判屋さんのような心の美しい正義感あふれる方々ならそんな野蛮な行為はするまい。


ということなのだが、私の伝えたいこと、伝わっただろうか。多分こんなことをこんな若僧が言っても何も変わらないと思うが、同じ考えの人を増やしたいので、こうして書いてみた。みんなでもっといいインターネット、作りませんか。





【今週の来てないお悩み相談】

セルフレジが怖いです。どうしましょう。

やってみ。簡単だから。

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