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青葉の笛

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新緑で青葉ということで、思い出しました
そして今日は母の日
我が子を戦争に送る世の母はどんな気持ちだったでしょう。

吉川英治の、新平家物語で、忘れられない物語がある。全16巻の内の11巻

それは一ノ谷合戦の時の模様だ。

源氏の方は熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)、当代唯一の剛のものと言われる侍。片や平家の方は無冠の大夫(たいふ)、平敦盛(たいらのあつもり)おそらく、戦の経験などない若者(平清盛の甥)

二人は一ノ谷、須磨で一騎打ちした。その時の歌がある
昔の文部省唱歌で、母がいつも歌っていたので、よく覚えている。

青葉の笛
一の谷の軍(いくさ)破れ
討たれし平家の
公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き
須磨(すま)の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛♫

以下、新平家物語から一部引用します

熊谷は須磨の磯松原で、逃げる敦盛を追いかけ、「やあ、お見かけするに名ある大将お一人のようだ。潔く、勝負をとげて、武門の人であることを示し給え」敦盛が引き返すと、「組まんっ」といい、敦盛を下に組みしいた。力では熊谷に叶う者はない。だがそこに何が起こったか、熊谷の刀の手は痺れたように、突き刺すことを忘れてる。静かに死を受け取ろうとする刹那の白い生命のまたたきが、熊谷の心に我をかえさせた。

なんと、自分の息子と同じ位の16,7歳のようではないか。「あわれ、まだうら若さよ」
熊谷は、自分の息子と重ねて心をくずされてしまい、「公達、公達、あなたはどなたか。助けてしんぜよう」と言ったが、敦盛は、「源九郎義経の家来か。義経殿の侍に討たれるは本望」と涼しい顔で言ったのだ。

熊谷は迷いながらも首を討ち取ったが、義経に報告した後も、長い間心は晴れなかった

この時の敦盛の腰に差していた笛が、世に名高い青葉の笛だ。

この経験が元だと言われているが、直実は、時を経るにつれ武士としての生き方に疑問を抱くようになり、家督を嫡子・直家に譲り、建久9年1198年に出家して法然の門徒となり法力房蓮生(ほうりきぼう れんせい)と称した。 その後現在の熊谷寺(ゆうこくじ)で念仏三昧の日々を送ったという

敦盛の青葉の笛は、神戸の須磨寺の宝物館に展示されていると言われるが私はまだ一度も行っていない。いつか行きたいと思っている

歴史を紐解き、人間模様は今も昔も変わらない。敵であってもふとしたことで、人間の内にある善なる心がめばえるのだ

以上、母の日に想いを馳せ、命の尊さを感じた一節でした。
歌を聞きたいと思う人があれば、YouTubeでお聞きください


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