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『光のない。』

ノーベル賞作家イェリネクによるホスピタリティ度外視、魂の叫び。


とにかく読みにくい。
イメージが変幻自在で、暴力的。かつ独特のビートで無理矢理目線と脳みそうごかしてくるから、ほとんどハラスメントだ。文ハラ(ふみはら)だ。ノーベル賞作家だし。ハラスメントはなはだしい。

すごい。なにが? なにごとかを言っていて、いやむしろ言いすぎているんだ。けど? それゆえに? そんなあらゆる言葉の底深い深みでえんえん渦をまく情念の、たえまないエネルギーの圧力に敗北した。から3.11をうけて書かれたこのテキストを解説する力はもってない。かわりに動揺を伝えたい。

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オーストリアの作家で原文はドイツ語だから、いろんなしかけをいちいち汲みとる自由はないけど、よくもまあ言葉遊びをとおしてここまでイメージを捻じ曲げ彫琢したことだと、おどろく。AとBという2つのガイガー(ドイツ語ではヴァイオリン奏者を意味する)の対話からなる戯曲だけど、その視点はあれこれと変わっていく。果てには原子や放射線にまでジャンプする!

A  ねえ、あなたの声がほとんど聞こえない、どうにかできない? 声を大きく響かせることはできない? わたしはわたし自身を聞きたくない、あなたはわたしをどうにかかき消してほしい。…(略)…そこにあった力は消えることができない、なにかが消えることは決してないから、まだ叫んでいる、あの怪物の腹の中で、まるで喰われても猫の腹の中で長く叫びつづける蟬たちのように。
B  なにも不思議はない、あなたは息もできず、あなや自身のうめき声があなたのしとめたい音をかき消している。…(略)…けれど光は、放射線は、熱は、聞くことができない。猫の威嚇のようなこのざわめきはなに? わたしたちのエネルギーが奪われる! 死者たちは光-線を放つ、かれらは訴えかけない、かれらに話しかけることはできない。…(略)

『光のない。』(林立騎=訳)、pp.09-10

A/B  まあね、わたしたちがわたしたちの値を、価値を取り込み終えたら、もう誰もわたしたちに手をつけることはできない。そしてわたしたちは一万年、いいえ、四万年はその水準以下に下がらないだろう。わたしたちはもはやただ光-線を放つだけだろう、それは他のほとんどのものたちができる以上のこと! わたしたちの骨はみな、とても似かよった構造をしている、つまりわたしたちはわたしたちが食べる動物たちにもわたしたちと同じ値を、価値を期待できる。

同、p.80

ずっとこんな調子だ。


すぐれた作家がかならずもっているスタイルの密度を彼女もまたもっていて、イメージ分裂してエネルギーが炸裂する。個性ってたしかにこういうことだし、はい、ごめんなさいって感じ(もちろんイミワカンナイってつっぱねることも表層的スタンスとしてはありだけど、無理だ。生まれた違和感を無視するのはおろかしいことだと思ってしまっている)。負けました。
ヒステリーに理性は勝てない。彼女の叫びは1つの形式として生かされたヒステリーなのだから、なおさら勝てない。言葉は意思をとおしてくれる透明な媒質じゃなかったの? 言葉で直接殴られてる感覚で、してみるとこのテキストが暴力装置でさえあるとすれば、ポスト3.11(ありとあるポスト悲劇)の暴力性とはまさにこんな、蟬の絶叫みたいなヒステリーではないのかな。理性でときほぐしてわかりやすく丸めこんではいけない、情念の塊ではないのかな。
悲劇に耳をかたむける正義と苦痛が、みんなを引き裂いていくんじゃないのかな。そして秩序はこわれちゃいけないのだとすれば、こんなテキストこそ健全な社会のデパスとしてあるべきなのかもしれないな。
極めて理性的なテキスト構成がイイタイコトを隠してしまう。けどひしひしと、見えないのに見られている感じがつきまとう。なにか言われているのに、わからない。けど、言われている。感情がある。聞こえないひそひそ話に耳を傾けつづける苛苛がつきまとう。

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こういうイメージを重ねた隠蔽の方法論はほかにもすこし知っていて、いちばん直接的なのはリヒターのビルケナウかな、とか、こういうやり口の作品を見たときにはいつもこれを思いだす。
悲劇はいつも対岸の火事みたく描かれてきたから、理性的な道具だてでどれほど悲劇そのものに肉薄できるか、よくよく考えられているんだろう。
なんて、ぼくもまた感動と分析で裂けてしまって、現代の不治の病に冒されて。

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