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記念日


 朝目覚めるとまず目に入るのは白い天井だ。代わり映えもなく、明日も明後日も私はこの天井を朝一番に目に入れ、退屈な一日が始まったことを自覚する。ベッドから起き上がり、両手を組んでぐっと上に伸ばしていき、これ以上無理だと身体が悲鳴を上げるまで私は神経を解していく。そして両手を離すと、腕がだらんと落ちる。それを何度も繰り返して私はやっとベッドから出ていくことができる。

 部屋のドアを開けると食卓で彼氏の夕希が食卓にうつ伏せになって寝ていた。ウィスキーグラスにはまだ琥珀色のウィスキーが残っている。食卓には半分ほど残っているサントリーのニッカウィスキーが倒れていて、その周りにはつまみのスナック菓子のかすが散らばっていた。ガラス製の灰皿には四本の吸い殻がフィルターを残して燃え尽きている。火の取り扱いには気を付けろとあれほど口を酸っぱくしていったのに、夕希は煙草を消した痕跡がなかった。

 私はため息をつき、灰皿を持って流しに立ち、水道の蛇口を軽く捻った。冷たい水で手を濡らしながら私は灰皿を洗った。燃えることはないかもしれないが、念の為だ。手間がかかるが、火事の被害に遭うよりかはマシだった。

 濡れた吸い殻を三角コーナーに捨て、私は換気扇を回した。蚊が耳元で飛び回るような不快な音がする。

「う…ん…」

 夕希がゴソゴソと動き出した。去年ユニクロで買った赤い厚手のパーカーのフードを頭から覆い、その上から両耳を手で押さえている。

「ねえ、夕希。寝るなら自分のベッドで寝なよ。ここいたら風邪ひくよ」

「大丈夫じゃ。もう少ししたら起きる」

 私は食卓の椅子に座り、彼の煙草から一本取り出して火をつけた。

「ねえ、前決まった倉庫の仕事はは朝早いんじゃないの?」

「あれ、言ってなかったか?」

「私はなにも聞いてないわよ」と私は言った。「何かあったの?」

「うん…あれな…」

 夕希が寝る体勢を変えようとした。でもとくに変わった様子もない。

「ねえ、何があったの? もしかしてまた辞めたの?」

 夕希が静かに親指を築き上げた。

 私はため息をついた。そして同じように親指突き上げ、彼に対して逆に向けた。


 熱いシャワーを浴びながら、私はどうしてあんな男と一緒に東京に出てきたのかと自問する。シャンプーを泡立て、お湯で洗い落とし、蛇口を閉めて壁に手を置く。決めたのは当然私自身であり、誰かに責任をなすりつけることなどできない。私は今年で二十六歳になる。もう子どもでもない。戻れたとしても子どもに戻るつもりもない。

 バスタオルで身体を拭き、下着を身につける。それから青いスキニージンズを履き、無地のシャツに腕を通す。さっきまで使っていたバスタオルを洗濯機に放り込み、洗剤を入れて私はスイッチを押した。

 夕希は相変わらず食卓でうつ伏せで寝ている。呑気にいびきをかき、これからのことなんて全く考えている様子もない。

 電気ケトルに水を入れ、コーヒーカップにドリップパックを置いて、私はお湯が湧くのを待ちながら煙草を吸った。流しにもたれかかり、呑気にいびきをかく彼を見ていると自分には男運というものはないのだと実感する。広島で一緒に暮らしていた男も夕希と同じく怠惰な奴だった。私が働いていたキャバクラの黒服で、客の前ではしっかりとした接客をするが、部屋に戻るとすぐに腑抜けになってしまう。空気の抜けた風船みたいにプシューと萎んで、家事など全部私に押し付けて、自分はスマホのアプリのゲームに夢中になる。動画サイトでチンパンジーがゲームボーイの画面に食いついているコマーシャルを目にしたことがるが、彼の姿はまんまそれだった。ゲームボーイがスマホになっただけで、やっていることは同じだ。時代が変わっても男は家の中でふんぞりがえり、その傍らで女は家事に追われる。

 電気ケトルの中の水が泡立ち始めた。スイッチがカチッと音を立てて切れる。私は取っ手を持ってコーヒーカップにお湯を注いでいく。カップから漂う香りが鼻に入ってくる。ドリップパックをゴミ箱に捨て、私は食卓の椅子に座った。夕希の煙草からもう一本拝借して火をつけた。浴室の洗濯機がガタガタを音を鳴らしている。

「ねえ、夕希。起きなって。ベッドで寝るんでしょ?」

 私は彼の肩を揺らしてみたが、起きる気配はなかった。テレビに映る砂嵐のようないびきをたて、彼は眠りを貪り続けている。


 洗い終わった洗濯物をベランダに干した。ダイソーで購入した白いプラ製の洗濯物ハンガーに私の下着やバスタオルなどを取り付けていく。余った箇所に夕希の下着やシャツなど取り付けてから私は部屋のなかに戻った。尻ポケットに入れておいたスマホを取り出し、時間を確認してみたがまだ八時前だ。九時からのコンビニのバイトに出かけるにはまだ早すぎる。私はキッチンに戻り、電気ケトルのスイッチを入れ、お湯を温め直した。さっきのコーヒーカップに新しいドリップパックをセットし、また夕希から煙草を拝借して火をつけた。煙が換気扇の方へと流れてゆき、外へと吐き出されてゆく。

「うーん…朝美…愛しているぜ…本当に…」

 夕希の寝言だった。彼はまたいびきをたて始め、身体をもぞもぞとさせた。

「ありがとう。夕希。でもね…」と口にしたところで電気ケトルのスイッチ音が聞こえた。私は煙草を咥え、コーヒーカップにお湯を注いでいった。カップを手に持ち、私は椅子に座った。

「私はね、もう冷めてるんだよ…あんたと広島から東京に出てきて三年。この三年間、あんたはなにをしてたか覚えてる? 仕事に就いてはすぐに辞めて、ぶらぶらして、また仕事に就いてはすぐに辞める。その繰り返しなんだよ。分かってるの? この三年間、誰が生活を支えてきたのか」

 私は胸の中に積もっていた不満をぶちまけた。眠っていることをいい事に私は夕希に普段言わないことを口にした。まだ胸の中には言いたいこと、吐き出したいことが山のようにある。火山の噴煙みたいに煙草の煙がゆらゆらと漂っている。噴火する兆候が自分でも分かっているのに、私は涙を流した。

 キッチンで、眠り続ける彼氏を前にして私はただ泣くだけしかなかった。


 コンビニのバイトに出かける時間が刻々と近づいてきた。鏡で見てみたが、目は赤くなっていなかった。泣いたとばれなければそれでいい。私は軽く化粧をして、ボディーバッグにスマホや財布、キンドルと煙草とライターを放り込んだ。ベランダの戸締りを確認し、流しにおいてある洗い物を水につけ、煙草に火をつけた。

「もう出かけるのか?」

 振り返ると夕希が両手を横に伸ばして唸っていた。そして大きな欠伸をして、同じことをくり返して言った。

「うん。これを吸ったらもう出かけるよ。もし手が空いてたら洗濯物を取り込んで、それから洗い物をお願いね」

「任せちょけ」夕希はまた大きな欠伸をした。「なあ、朝美」

「うん?」

「今日が何月何日か分かるか?」

 私はスマホの画面を見て答えた。「十月十日だけど、それがどうかしたの?」

「なにか覚えちょらんか?」と彼は煙草を咥えて火をつける。「とっても大事な日じゃ」

「大事な日?」私は流しに煙草の灰を落とした。「体育の日かしら?」

「違う」

「じゃあ、なんなのよ」

 夕希は答えず、ニヤニヤしている。スマホの画面に表示されている時刻が少しずつ進んでいく。

「ねえ、一体なんなのよ」

「うーん、まだ分からんか?」と彼はゆうゆうと煙草の煙を燻らしている。

 私はため息をついた。水道の蛇口を捻り、煙草の火を消した。そして角の三角コーナーに投げ捨てた。

「教えてくれないならいいよ。もう行かないと遅刻しちゃうから」

「分かった。教えちゃる。二人で上京した日じゃ」

「え?」

「三年前に一緒に広島からこっちに出てきたじゃろ。その日が今日、十月十日じゃ。一年目と二年目はなんも出来んかったが、三年目の今日は特別なサプライズを用意しておくからな」

 夕希は煙草を灰皿に押しつけると立ち上がった。私に向かって歩いてきて、抱きしめた。

「朝美には苦労をかけているのは十分承知しちょる。本当に悪いとおもっちょる」

「本当に悪いと思ってるの?」

「ほんまじゃ。わしは嘘は言わん」

 夕希は私の背中をぽんぽんと叩いた。まるであやされる赤ん坊のような気がした。

「とにかく楽しみにしちょけ」

 彼は私の額にキスをした。

「じゃあ、気をつけて行って来い」

 私は三本の赤いラインが入ったアディダスのスニカーを履き、玄関のドアを開いた。夕希は手を振り、見送ってくれた。

 ドアががちゃりと音をたてて閉まった。


「三点で四五七円です。袋はご必要ですか?」

 客の女性が首を振った。彼女はハンドバッグから長財布を取り出した。財布の表面にはVとLが重なり合ったマークが記されている。取り出したのは折り目のない一万円札だった。彼女はそれをトレイに置いた。

「一万円をお預かりします」私はレジから五千円札一枚、千円札を四枚取り出した。客の前で数え、手渡した。そして残りの釣り銭五四三円をトレイに置いた。

「ねえ、悪いんだけどこの千円札を交換してくれないかしら?」彼女が一枚の千円札を手に持ってひらひらとさせている。「折り目があるお札って縁起が悪いのよ」

「少々お待ちください」

 私はレジから折り目もなく、皺のない千円札を取り出してさっきの千円札と交換した。

「ありがとう」と彼女は言い、長財布にお札を入れて、小銭を握るとハンドバッグの脇のポケットにごっそりと入れ、購入したおにぎりや水のペットボトルを無造作に放り込んだ。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」

 ドアが開き、客が店から出て行った。

 それを見計らったかのように店長の伊集院さんが声をかけてきた。

「あっちゃん、レジが終わったら商品の補充をお願い」

「わかりました」

 私はレジを離れ、店の奥から段ボールをいくつも乗せた台車を引っ張ってきた。空になったスナック菓子の棚に商品を補充していく。店内に流れるのはいつのまにか季節の風物詩となった印象があるハロウィンに関する商品の案内や、歌舞伎町界隈で頻繁に発生する悪質なキャッチやひったくりなどに注意を促す警察の呼びかけだった。

「いらっしゃいませー! ハロウィンの季節にぴったりの新商品が入荷になりました。もし宜しけれ、お手にとってご確認くださーい。いらっしゃいませー!」

 伊集院さんの商品を案内する声が店内に響き渡った。私も彼を真似て呼びかけをしてみる。でも、店内には一人も客はいない。今ここにいるのは私と伊集院さんだけ。同じシフトに入っている中国人留学生の李くんは昼休み中だ。

「いらっしゃいませー! ハロウィンにぴったりな商品が入荷しました! 宜しければお手にとってご確認くださーい。いらっしゃいませー!」

 伊集院さんが少しだけ呼びかけの内容を変更した。本社からのマニュアルに記載されているのか、それとも彼自身で考えた内容なのか分からないが、私も同じように呼びかけ続けた。反応もなく、何だかおかしくなってくすりと笑ってしまう。

「あっちゃん」

 伊集院さんが商品棚から顔を出した。私は商品を補充する手を止め、顔を上げる。

「はい、なんですか?」

「李くんが休憩から帰ってきたら先にお昼をとっていいから」

「店長は行かなくていいんですか?」

「いいよ」と彼は手を振った。「李くんにレジの打ち方とか教えてあげたいんだ。そうじゃないと一人前にならないからね」

「わかりました。ありがとうございます」

 伊集院さんは頭を引っ込め、またハロウィンの商品案内の呼びかけを行なっていった。彼の呼びかけが終わると、また私が客のいない店内に向けて声を出していった。


 西武新宿駅の近くににあるドトールで私は昼食を取った。ブレンドコーヒーとエビとサーモン、それにチーズを挟んだミラノサンドを口いっぱいに頬張り、具材の味を確かめることもなく熱いコーヒーで喉の奥に流し込んでゆく。スマホでネットニュースに目を通し、ツイッターで話題になっている黒猫の映像をみて、グッドボタンをポチリと押す。ミラノサンドを食べ終え、私は猫を飼っている自分の姿を想像する。膝の上に乗る私の愛猫はゴロゴロと喉を鳴らし、私は頬を緩ませて猫の頭を撫でてあげる。ペット禁止の今のマンションでは叶わない夢に酔いながら、煙草を吸うために立ち上がった。

 喫煙所で煙草を燻らせながら私は夕希のサプライズを予想してみた。旅行や海外アーティストのライブチケット、新しい服、高級レストランでのディナー。私の頭にぽんぽんと浮かび上がってくるものは私自身の願望や欲求であり、現実的なものではなかった。煙草の煙を吐き出したが、そこにはため息も混じっている。あいつの経済力でできるサプライズなどたかがしれている。淡い期待を抱いてもそれは無惨に裏切られることは理解している。

 でも、と私は淡い期待を抱かずにはいられない。自堕落な性格をしているが、夕希はやる奴だ。そんな男だから私は広島からあいつと夜行バスに乗って一緒に東京へとやってきた。


「女に暴力を振るう男は最低じゃ。そんな奴と別れてわしと一緒に東京へ行こう」

 前の彼氏から暴力を振るわれていることを客としてやってきた夕希に私は話し、そして彼がかけてくれた言葉だ。最初は酒に酔って口当たりのいいことを喋っているだけだと思っていたが、夕希は本当に私のことを心配してくれていた。

 前の彼氏が店で接客をしているとき、夕希は後ろから前の彼氏の背中を蹴り倒した。テーブルがひっくり返り、グラスや酒のボトルが床に落ちて割れた。夕希は床に倒れている前の彼氏の襟首を持って起き上がらせ、顔面に向けて一発お見舞いした。

「いいか、今から朝美はわしの女じゃ。二度とこいつに近づくな」

 夕希は床にのびている前の彼氏に人差し指を向けながら言った。その場にいた客や黒服にキャバ嬢たちはみんな黙っていた。私もそのうちの一人で、目をぱちくりさせて、ただ眺めるしかなかった。

「朝美、わしと一緒に来い」

 夕希が差し出した手を握り、私はそのまま店を後にした。私たちは流川通りを走り抜けてゆき、そのまま広島駅から東京行きの夜行バスに乗った。着る服も持ち物もなかった。もちろんお金だってない。歓楽街のネオンサインが煌めき、道ゆく人たちが振り返ってくる。恋愛映画の中にいるんじゃないかと錯覚してしまうこともあった。でもあれは現実に起こったことなのだ。私の手を握りしめた夕希の手の感触はまだ手に残っている。先導する彼の汗で濡れた背中も瞼の裏に焼き付いている。

 今朝、寝ているあいつに向けて冷めていると言ったが、私の中にはまだ微かな残り火があるようだ。あまり期待できないサプライズに私は胸を高鳴らせている。

 私は夕希に今夜のサプライズを楽しみにしていることをメールで伝えた。彼からの返信はなかった。コンビニのバイトが終わり、帰宅の途についたときも夕希からの返事はなかった。


 部屋のドアを開けた。スニーカーを脱ぎ、私は飾りつけられたキッチンの内装を見て、笑ってしまった。床には膨らませた風船があちこちに転がり、私が足を動かすたびに赤や青、黄色の風船が浮かび上がり、跳ねて、転がった。天井には『ハッピーハロウィン』と印したバナーが吊るしてあった。食卓は綺麗に整えられていて、フォークとナイフ、それからスプーンが並べてあり、三角に折られたテーブルナプキンがその間に立ててあった。流しにつけてあった皿も洗い終わっていて、食器棚にしまってある。

 私は椅子に座って頬を緩ませた。あまり期待できないサプライズのレベルが急に上がってくる。足元の風船を手に取り、上に放り投げては掴み、それを何度も繰り返した。

「夕希」と私は呼びかけてみた。返事はなかった。スマホで返信がないか確認してみたが、彼からの連絡はない。電話をかけてみてもコール音がするだけで繋がらなかった。そのうち帰ってくるだろうと思い、私はスマホを食卓に置いて、朝干した洗濯物を取り込むためにベランダに向かった。

 夕希の部屋を通り抜け、私はベランダの戸を開けた。洗濯物ハンガーが風で揺れていて、数点の下着と衣服が落ちている。そのほとんどが夕希のものだった。


 午後五時を回っても夕希からの連絡はない。私は一通のメールを送り、電話を三回ほどかけてみたが、どの方法も返事がない。彼がメールに目を通しているのかも分からず、電話をかけてもコール音ばかりで、三回目の電話は繋がりもしなかった。

 私は食卓の椅子に座り、煙草を燻らしながら床一面に転がっている風船を蹴ったりして時間を潰した。そうしているとスマホが鳴った。手に取ってみると、掛け持ちしているバイト先のオーナーからの電話だった。私は通話ボタンを押した。

「もしもし」

「あ、あっちゃん。休みの日に電話をかけてごめんね」

「いえ、気にしないでください。ところでどうかしたんですか?」

「言いにくいんだけど、今日って夜カウンターに立てる? 荒木くんが風邪をひいてシフトに穴が開いちゃったんだ」

「そうなんですか…」

「もちろん、時給は割増にするよ。ほかの子達に連絡しても試験だとか、用事があるって断ってきてさ、もうあっちゃんだけなんだよ」

「今日ってお店は翌朝まで開ける予定なんですか?」

「いや、まだ分からないな」とオーナーが言った。「まあ、店の混み具合で早めに閉めることはあるかもしれない。あっちゃんは明日何か予定でもあるの?」

「はい。明日も朝からコンビニのバイトがあるんで…」

「じゃあ、日付が変わるまででいいから出れないか?」

「今からですか?」

「いつもどおり七時からでいいよ。お願い朝美さま。お助けください」

「わかりました。出勤します」

「マジありがとう。助かるよ」

「でも」と私は言葉を区切り、それからはっきりと伝えた。「日付が変わる前には帰りますから」と。

「いいよ。それで。本当にありがとうあっちゃん」

「いえ」

「じゃあ、よろしくね」とオーナーは言って電話を切った。

 私はスマホを食卓に置き、ため息をついた。夕希と大切な記念日を過ごす予定が急遽夜のバイトに出かける羽目になるとは。

 私はスマホで夕希にメールを打った。

『夜のバイトの穴を埋めるために急遽出勤することになった。だから帰ってくるのがかなり遅れてしまう。本当にごめんなさい』

 メールを送信したあと、気分転換にコーヒーを飲もうと電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。カップにドリップパックをセットし、私は煙草を吸いながら水が湧くのを待った。そんなとき玄関のドアチャイムが鳴った。

 私は煙草を燻らせながら玄関のドアに目をやった。またドアチャイムが鳴る。それは珍しいことだった。この部屋を訪れるのは大家か宅配便業者ぐらいだ。家賃は遅れることなく毎月支払っている。最近、通販サイトで注文した商品もない。

 三回目のドアチャイムが鳴った。私はこのとき思った。外にいるのは夕希なんじゃないのか、と。今朝、彼はサプライズを用意しておくと言っていた。それがこれで、彼は花束でも持って私を驚かせようと用意してるんじゃないか、と。

 私は頬を緩ませ、煙草を灰皿に押し付けて消した。電気ケトルがカチッと音を立てた。私はそれを放置して、玄関へと近付いた。ドアを開けようとしたとき、ドンドンとドアを叩く音がした。

「夕希! いるんだろ? 出てこい」聴き慣れない男の声がした。「おい! 返事しねえか、このタコ!」

 私は玄関から少しずつ離れていった。音を立てず、中に人がいることを悟られないように、すり足で後ろへと下がった。

「ちょっと大声出さないで。隣室の人に気付かれたら面倒ごとになるでしょ」

 女の声がした。さっきの男とは違い、理性的な声だった。

「くそったれ!」

 ハンマーでドアを叩くような大きな音に驚き、私は尻餅をついた。同時に床に転がっていた風船がいくつか割れた。

 ドアチャイムが鳴り、女の声がした。「夕希くん、中にいるんでしょ? 何もしないからここを開けてくれない? 今なら大きな問題にならずに済むから」

 またコンコンとノックする音がした。

「夕希くん、お願い。私たちも早く解決したいの。もし開けてくれないなら、大家さんに事情を話して鍵を借りてくるわよ」

 私は立ち上がり、玄関の鍵を解除し、ドアを開けた。

 

 私はもう一つコーヒーカップを用意して、そこにドリップパックをセットした。電気ケトルからお湯を流し込んだ。パックを三角コーナーに捨てて、二つのカップを食卓に置いた。

「突然お邪魔してごめんなさいね」

「いえ、気にしないでください」

「どこにも夕希はいませんぜ」

「そう。ありがとう淀川くん」と女が言った。「とにかく席についてコーヒーをいただきなさい。せっかく用意してくれたんだから」

 淀川と呼ばれた坊主頭の男は床に転がる風船を蹴るように歩き、椅子に座った。彼は白いジャケットのポケットからセブンスターの箱を取り出し、口に咥えた。

「おい、姉ちゃん。煙草吸ってもいいだろ?」

「ええ、構いませんよ」

 私は台所に置いてあった灰皿を食卓に置いた。淀川はマッチで煙草の火をつけた。手を振ってマッチの火を消し、灰皿に捨てると、鼻から豪快に煙を吐き出した。

「で、夕希はどこにいるんだ?」

「知りません。電話しても繋がらないし、私も困ってるんです」

「うそつけ!」

「淀川くん」女が静かに口を開いた。「いつも言っているわよね。口を慎みなさいって」彼女はコーヒーカップを口に運んだ。「冷めないうちにあなたも飲みなさいよ」

「へえ…すいません、優子姉さん」と淀川はコーヒーカップを手に取り、音を立ててコーヒーを飲んだ。

「それで、夕希が何かしたんでしょうか…」私は女が渡してくれた名刺に目をやった。「栗林さん」

「実は夕希くんが私たちの事務所から機密書類を持ち出したのよ」

「機密書類?」

「ええ」栗林はコーヒーカップを食卓に置いた。「詳細は省かせてもらうけど、私たちが運営する会社の情報が記載されているの」

「それを夕希が盗んだ…と言うんですか?」

「そうよ」と栗林が静かに言った。

「でも、あいつがどうしてそんなことを」

「そんなこと俺たちが知るか」淀川が吠えた。「とにかくあのタコ助がうちの事務所に出入りしてたのは知ってるんだよ」

「事務所に出入りしていた?」私は眉をひそめた。「それはどういうことですか?」

「それはだな…」

「淀川」

「へい…」

「お前は黙ってろ」

「すいません…姉さん」

 私は栗林を見た。最初玄関のドアを開けたとき、粗暴な風貌の淀川と違い、彼女には理知的な印象を抱いていた。チャコールグレーのパンツスーツを着こなしていて、黒い髪を後ろで一つに結っている姿は大手企業で働くキャリアウーマンの容姿をしていた。二人が立ち並ぶ姿は野獣と美女みたいで釣り合いが取れていないように見えた。でも、今の彼女はどこにも理知的な印象はない。鞭をしならせて上下関係を明確に突きつける猛獣使いのような冷徹さが漂っている。

「見苦しいところを見せて申しわけありませんでした」と栗林が頭を下げた。「もし、夕希くんと連絡が取れたらさきほどお渡しした名刺の連絡先に必ず電話をかけるようにお伝えください」

「ええ、分かりました」

「淀川くん、行くわよ」

「へい…」

「美味しいコーヒーをありがとうございました。では、ご連絡をお待ちしています」

 栗林を先頭に、淀川が後に続いた。

「あんた、いい匂いするな」

 淀川がすれ違いざまに耳元でボソリと呟いた。

「淀川くん早くしなさい」

「へい、今行きます」

 淀川が玄関の外へと出ていき、栗林が頭を下げ、「では失礼します」と言った。

 玄関のドアが静かに閉まった。


 二人が去ったあと、私はその場に立ち尽くしていた。部屋の中を見回すと食卓に置いてある灰皿から煙草の煙が漂っている。粗暴の塊が服を着て歩いているような淀川の煙草だった。私は手に持っている名刺を触った。ざらついた手触りで、表面には吉田商事 総務課 栗林優子と記載されている。隅には携帯の番号とメールアドレスも添えて書いてあった。

 椅子に座り、私は煙草を吸った。スマホで時間を確かめてみると、午後六時をまわったところだ。新着メールも着信履歴も画面には表示されていない。一向に夕希からの連絡はない。私は彼に電話をかけてみたが、やはり繋がらない。通話口から聞こえてくるのは女性の音声アナウンスで「おかけになった電話はお客さまのご都合によりお繋ぎできません…」と、二回繰り返して通話が途切れた。


 夜のバイトへ向かうために私はマンションを出た。職安通りを横切り、東京の吹き溜まり、歌舞伎町の中へと足を踏み入れる。狭い通りには夜の商売で働く人たちで溢れていた。地肌を露出させている服を着た派手な女性たち。すでに廃れてしまったビジュアル系アーティストを連想させる顔をしたホストたち。聴き慣れない言語で会話をする黒人たち。タクシーの運転手が酒類を積んだ軽トラックから荷下ろしをする業者に向けてクラクションを鳴らす。悪質な客引きを啓発する警察のアナウンス。フォトショップで加工したホストたちが並ぶ看板に向けてスマホのカメラを向ける若い女たち。

 歌舞伎町の混雑ぶりにはいつも嫌気がする。右を見ても左を見ても人ばかりだ。目の前に区役所通りが見えたとき、鼻を覆いたくなるような匂いがした。同時に男が声をかけてきた。「ねえ、お姉さん一人?」と。

 私は足を止めず前に進んだ。男は私の前に立ちはだかり、ねこなで声で話しかけてくる。

「急いでいるんで」

 私は男の横を通ろうした。でも、男が肩に手をかけきた。

「もしかして、仕事? そんなの休んでぱあっと騒ごうよ」

 上下黒のスーツに身を包み、青い前髪が目の中に入りそうな優男は話を続けた。「今日、うちのお店でイベントがあるんだよ。マジで有名な」

「じゃけえ、急いどる言いよるじゃろ」

「え?」

「汚い手でいらいさんな」

 私は男の手を振り払った。同時にスニーカーで男の革靴を踏んづけてやった。

 優男は悲鳴をあげて飛び上がり、近くの壁にもたれかかった。

「二度と話しかけてきんさんな」

 私は地面に蹲っていた優男に向けて中指をたて、区役所通りへと向かった。


「それは災難だったね」

「災難なんてもんじゃないですよ」私は煙草を吸いながらさっきのことをオーナーの小林さんに話した。「歌舞伎町にいるホストなんてゴキブリと一緒です」

 彼はアイスピックを手にしたまま笑った。笑いながらもその手は仕事を休めず氷を砕いていく。グラスより一回り小さなサイズになった氷を彼はロックグラスに入れ、グレープフルーツジュ―スとジンジャーエールを注いでいき、カットしたライムをぎゅっと絞った。

「歌舞伎町が吹き溜まりなら、ここゴールデン街は吐きだまりみたいなもんだけどね」彼はミントをグラスの上に添えた。「はい、これでも飲んで機嫌を直して」

「いいんですか?」

「構わないよ。急遽入ってくれたんだし、今日はある程度のことは多めに見るよ」

「ありがとうございます」私はグラスを口につけた。さっぱりした喉越しに、ほのかな甘みが漂っている。「これはなんてカクテルですか?」

「カクテルじゃないよ」彼は煙草に火を付ける。「モクテルって言って、ノンアルの新しい飲み方なんだ。結構海外で話題になってるらしい」

 彼は薄暗い照明に向けて煙草の煙を吐き出した。備え付けてあるシーリングファンが静かに回っている。小林さんがスマホを操作し始めるとKAMUUの「MANGO」がスピーカーから流れてくる。

「それ飲んだら、看板をかけてきて」

「はーい」

 私はグラスを空にして、煙草を灰皿に押し付けた。店の外に出ると、他の店の看板に灯がともっている。狭い路地にぞろぞろと客たちが足を踏み入れ、品物でも物色するように店の中を覗き込んでは立ち去っていく。

 私は『開店』と記した木製のプレートを店のドアにかけた。ズボンの中からスマホを取り出し、着信履歴を確認してみた。一件も連絡はなかった。


 店を開けたときは静かだったが、夜が深みをますほど賑やかになっていく。店に唯一あるボックス席は早々にサラリーマンたちが占有し、残っているのはカウンター席だけになった。ふらついた足取りの大学生たちが店に入ってきては気取ったようにグラスを傾け、それぞれの夢を口にしていった。小林さんは愛想良く答え、私は作り笑いを浮かべて青臭い大学生たちの夢物語に付き合っていた。

「今は新宿の小汚い店で飲んでるけど、五年後には六本木の一流バーでグラスを傾けていたいな」黒い髪をセンターで分けた学生が言った。

「今の成績だと卒業も危ういだろ」と隣にいた茶色の縮れた毛をした学生が茶化した。

「そのときは就職浪人すればいいだけの話だ」

「金持ちはいいね」

「お前だって親の脛をかじってるだけじゃないか」

「お前ら少しは落ち着けよ」と連れ添いの学生が仲裁を試みた。が、酔っ払った二人を鎮めることはできず、結局三人はカウンターで肩を並べて口々にゲスい言葉を投げ合った。ボックス席で談笑していたサラリーマンたちは三人の喧嘩を肴にして生ビールのジョッキを口に運んでいる。小林さんは笑顔を崩さずに学生たちの成り行きを見守っていた。

「小林さん、止めなくていいんですか?」

「構わないよ。好きにさせとけばいい」彼は煙草を咥えて火をつけた。「それよりあっちゃん、休憩に行ってきてもいいよ」

「いいんですか?」

「ああ」と彼は煙草の煙を吐き出した。「どうせ平日だし、今日はあんまりお客さんも来る様子もない」

「じゃあ、休憩してきます」

「ちょっと待って」

 小林さんはレジを開けて千円札を一枚取り出した。

「これで何か食べてきて。今日は早めに店を閉めると思うから賄いとか用意できそうにない」

「ありがとうございます」

 私は小林さんに頭を下げ、カウンターの外にでた。店を出ると学生たちの口論が外にまで及んでいことに少し恥ずかしさを覚えた。

「結構繁盛してるね」

 振り向くと、隣の店でが働く千尋がしゃがんで煙草を吸っていた。頭にうさ耳バンドをして、網タイツを履いてバニーガールの衣装を着込んでいる。

「なんて格好してんの?」

「ハロウィンで話題を呼んで客を呼び込むために着せられてんだよ」彼はうんこ座りをしたまま煙草の煙を吐き出した。「クソオーナーの業務命令でな」

「で、お客さんと足を運んでくれる?」

「来るわけないだろ」彼は鼻で笑った。「来ても贔屓客か物珍しさにやってくる冷やかしぐらいだよ。スマホで写真を撮って、じゃあまたねって感じで店から出ていきやがる」

 千尋は店に訪れた客たちの仕草を加えて説明してくれた。私は笑い、彼に慰めの言葉をかけてやったが、千尋は「うっせー」と言って払い除けた。

「そういえば、朝美の彼氏の…」

「夕希のこと?」

「そうそう。その夕希」と千尋は煙が漂う煙草を私に向けた。「さっきお前の彼氏について尋ねてきた奴がいたんだよ」

「どんな人?」

「坊主頭の大柄な男で、白いジャケットを羽織ってたな」

「で、あんたはなんて答えたの?」

「知らないって言ったよ。見た目からしてその筋の人間だとピーンときてさ、関わったらやばい臭いがぷんぷんしてた」

「そうなんた」

「もしかしたら他の店でも聞き回っているかもしんねぜ。朝美の知り合いか?」

「まさか」と私は言った。「そんな奴知らないわよ」

「そっか」千尋は煙草を深く吸い込み、時間をかけてゆっくりと吐き出した。「まあ、とにかく変な奴が来ても関わらないようにしたほうがいい」

「ありがとう。でもそれはどんなことにでも当てはまることでしょ」

「そうだな」千尋は煙草を地面に押し付けて消した。「じゃあ、俺は店に戻るから」

 千尋は立ち上がり、白くて丸いうさぎの尻尾を振りながら店の中へと入っていった。


 区役所通りで見つけた移動ケバブ屋で私はチキンケバブとチャイを買った。区役所の階段に座り、チリソースとヨーグルトソースをたっぷりとかけたケバブを口に運んだ。酸味と甘味のあるソースが口の中に広がっていく。鶏肉とキャベツを咀嚼しつつ、私はスマホを手に取った。夕希からの連絡がないか、確認していたが彼からの返信も何もない。ただ、一件だけ未登録の番号から電話が二回ほどあった。私は画面に並ぶ一一桁の数字に見覚えはなく、スマホの画面を目にしながらケバブを口に運び、咀嚼するしかなった。チャイで喉の奥に流し込み、食後の一服を吸おうと煙草に火をつけたとき、スマホが鳴った。見覚えもない未登録の一一桁の数字がじっと点滅し続けている。私は着信ボタンを押した。

「もしもし」

「もしもし、栗林です。突然電話をかけて申しわけありません。少しお時間ありますか?」

「えっと」私は区役所内の壁にかけてある時計に目をやった。「あまり時間がないので手短にお願いします」

「わかりました」と栗林が言った。「夕希くんから何か連絡はありましたか?」

「いいえ。全くないです。こっちから電話をかけても繋がらないし、メールを送っても返事はありません」

「そうですか」

「栗林さん、少し質問してもいいでしょうか?」

「はい。なんでしょうか?」

「一つ目の質問は夕希は何を盗んだんですか? 重要な書類とおっしゃられていましたけど、そろそろ警察に被害届を出したほうがいいんじゃないでか?」私は煙草を吸った。「それから栗林さんととさっきの淀川さんのお仕事は一体どんな内容なんですか?」

 スマホから栗林の声が聞こえなかった。私は煙草を吸い、返事を待った。中々返ってこない。私は同じ質問を彼女に投げかけてみた。

「もし、お答えできないなら電話を切りますよ。いいですか?」

「申しわけございません」と栗林が言った。「一つ目の質問ですが、訪問時に話したように企業機密の書類です。私たちは早急に解決できると踏んでいるので、被害届を提出していないだけです」

 スマホから栗林の咳払いが聞こえてきた。

「それと二つ目の質問ですが、私と淀川の仕事はごくありふれたものであり、何一つとして如何わしいことなどはしていません。質問に対する答えは以上です」

「あの、もっと正確に答えてもらっていいですか? 私の職場の近くに淀川さんらしき人が夕希について尋ねまわっているようなんです。それって」

「いえ、それは人違いだと思います。淀川は私の隣にいますし、それにあなたがどのようなお仕事をされているか、私たちは存じ上げていません」

「いや、それは」

「申しわけありませんが、そろそろ電話を切らしていただきます。私たちも夕希くんを探さないと行けないので」

「栗林さん、最後まで話を聞いてください」

「では失礼します」

 スマホからは通話が切れた音がした。私はかけ直そうと電話をかけてみたが、コール音がするだけで栗林は電話に出ることはなかった。


 休憩から戻る途中、警官たちが四季の路を通ってゴールデン街へと向かっていた。まねき通りには大勢の酔客たちでごった返し、思うように前に進めない。通りの奥から赤色灯の回転がちらちらと見える。私は人ごみをかきわけていった。店の前には数名の警官が立ち、その後ろで小林さんが額にタオルを当て、警官と話をしていた。

「小林さん」

 私の呼びかけに気づいた彼がこちらに歩いてきた。

「一体どうしたんですか。それに…その怪我は…」

「客が暴れたんだよ」

「客ってあの学生たちですか?」

 小林さんは首を振り、新しくやってきた一人の客が突然暴れ出したことを話した。

「ここら辺では初めて見る客だったよ。大柄の坊主頭の男で、酒がまずいだの、接客がなってないとか言い出してさ、本当に大変だった」痛みがひどいのか、時折彼は顔を歪ませた。

「あっちゃんが休憩中でよかったよ。檻から逃げ出した熊みたいな暴れっぷりだからね」

 私は店の中を覗いてみた。床には割れたグラスが散乱して踏み場もないように見えた。酒の匂いがシーリングファンに運ばれて外へと漏れ出てきている。スツールはひっくり返り、酒瓶を保管していた棚も崩れ、壁にかかっていたスピーカーも今では無惨に床に転がっている。

「今日はこれでおしまいだよ。僕もこれから警察や病院に行ったりしなきゃならないから」彼はまた顔を歪ませる。「あっちゃん悪いんだけど、後片付けだけお願いできるかな? 本当なら僕一人でやるべきなんだけど」

「気にしないでください。私一人で大丈夫です。それより早く病院に行ったほうがいいですよ」

 白ヘルメットを被った救急隊員がじっとこっちを見ている。それに気づいた小林さんは弱々しく手をあげ、救急車に乗り込んで去っていった。赤色灯のあかりとサイレンが聞こえなくなるまで私は通りに立っていた。


 私は千尋の手を借りて、店の後片付けをした。

「さっき、でかい音がしたけど、こんなことになってるとは思わなかったぜ」千尋は言った。「多分、犯人はあいつだろうな」

「あんたが言ってた夕希のことを聞きまわっていた男?」

 私は箒で床に散らばったグラスの破片をかき集めていた。千尋はバニーガールの衣装を着たまま割れた酒瓶を二重にしたゴミ袋の中に放り込んでいる。

「そうだよ。そうとしか考えられねえ」

 私は掃除の手をとめ、店の入り口に目をやった。黄色いテープが貼られ、警官が様子を伺っている。

「まだこの近くにいるのかな」

「それはねえだろ」と彼は言った。「こんだけ大きな騒ぎになれば近づきやしねえよ」彼はゴミ袋の口をしっかりと結び、酒瓶をガチャガチャ揺らして店の隅に置いた。「今日のところはな」

「そうだよね」

「まあ、取り敢えず後片付けもこれぐらいにして、お前ももう帰ったほうがいいよ。これだけ大きな騒ぎになると客も寄ってこないよ」

 彼は胸の隙間からマルボロとライターを取り出して、煙草を吸った。

「千尋」

「ん?」

「手伝ってくれてありがとう」

「気にするな。うちは暇だったし、ここでは隣近所で助け合うのが当たり前だからな」

「そうだね」と私は言った。「でも、隣の店に男のバニーガールがいるのはちょっと怖いかな」

「うっせなー。俺は結構気に入ってんだ。文句言うんだったらこれからはなんも手伝ってやんねぞ」

「嘘だよ。心から感謝してる。ありがとう」

「おう。どういたしまして」

 彼はカウンターに寄りかかり、満足そうに煙草の煙を吐き出していた。壁にかかっていた時計は十一時を少し過ぎたところだった。


 マンションに帰る途中、スマホが鳴った。画面には夕希の名前が表示されている。私はすぐに通話ボタンを押して電話に出た。

「おう、朝美。元気にしちょったか?」

「なにが元気にしっちょったかよ。こっちは散々な一日だったのよ」

「なんがあったと?」

 私は夕希に一つ一つ説明していった。夕方、栗林と淀川が部屋に訪れたこと、そして淀川らしき人物が店で大暴れしたことなどを。

「あんた、今日は記念日だからサプライズしてやるって言ったけど、これがそのサプライズなの? もしそうなら最悪なんだけど」

「そんで、その二人は…朝美になんかしたのか?」

「とくに何もしてないけど、どうしたのよ」

 夕希は答えない。私はスマホを耳に当てながら薄暗い路地を歩いていく。

「ねえ、二人から聞いたけど、夕希は何か盗み出したって聞いたわよ。ねえ、一体何があったの?」

「朝美、今どこにおる?」

「え、今は職安通りの近くの路地よ。ドンキーがあるでしょ? そこの横にある通りを歩いているわよ」

「そのまま部屋に戻らずに戸山公園までこい」

「なによ、急に」

「ええけぇ黙ってこっちにこい。早く」

「わけを話してよ」

「あとで話してやるけ。まずはこっちにこい早く」

 私はため息をつき、「わかったわよ。すぐに行くわ。多分、十分もかからないから」

「そうか。わしはここでまっちょるけ。はよおう来いよ」

 夕希が電話を切った。スマホの画面に通話時間が表示されている。画面の隅に現在時刻が表示され、あと十分もすれば十月十日は終わり、過去の日になってしまう。

 私はもう一度ため息をついた。そして夕希の待ち合わせ場所である戸山公園へと足を向かわせた。


 戸山公園に着くまでにパトカーのサイレンが数回聞こえた。近づいてくるとすぐに遠ざかり、サイレンが聞こえなくなった。でもまたサイレンが鳴り始め、静かな住宅街にうるさい音が響き渡る。

 日付が変わり、五分ほど遅れて私は戸山公園内に足を踏み入れる。深夜の公園をぶらぶらするのはいつ以来だろうか。中学や高校のときよく学校の友人たちと時間を潰した。カラオケやゲーセンで暇を潰せばいいのに、私たちはよく公園に集まっては煙草を吸ったり、家から酒を持ち出してはよく飲み回した。他愛ない会話を続け、ゲラゲラと笑い、警官が目に入ったらすぐに逃げ出したものだ。

 アルバムを捲るように私は十代のころを思い返しながら園内を散策した。併設されている新宿スポーツセンターはひっそりと鎮まり、自動ドアのそばには段ボールに包まった路上生活者たちが背を向けて寝ていた。児童用遊具は夜の暗さに染まって不気味さを醸し出している。私は煙草に火をつけた。そばにあったブランコに座り、足で前後に揺らした。

「すいません、こんな遅くになにをされているんですか」

 懐中電灯の灯りが顔に向けられた。私は手で灯りを遮った。指の隙間から見ると、二人の警官が立っている。一人は若くて胸板の厚い男性だった。藍色の制帽を被りながらもその表情は柔らかだ。

「彼氏と待ち合わせをしてるんです」

「彼氏?」

 私はうなずいた。「さっき電話して、ここに来るように行ってきたんです」

「どうして、ここなんですか?」

「野外プレイでも楽しもうって魂胆じゃないのか」

「野外プレイ?」

「今の若い子は知らんかな。簡単に言えば青姦だよ」

「徳山さん」若い警官は表情を硬くしていた。「余計なことは言わないでください」

 徳山と呼ばれた警官は下品な笑いを浮かべ、私を見ていた。

「気を悪くしたらすいません」若い警官は柔らかな表情を崩さずに頭を下げた。「今、緊急パトロール中でして」

「身分証明書でも見せろってことですか?」

「早く言えばそういうことだよ。お姉ちゃん」

 私は煙草を捨てて立ち上がった。ポケットから財布を取り出し、中から免許証を抜来出して若い警官に見せた。彼は証明写真と交互に私を見比べていた。「

「ありがとうございます。これはお返しします」

 私は若い警官から免許証を受け取った。

「さっき緊急パトロールって言ってましたけど、なにかあったんですか?」

「大久保駅の近くで、男と女が刺されてたんだよ」徳山が煙草を口に咥えていた。「そして犯人は目下逃走中だ」

 徳山は言い終わると煙草の煙を暗い空に向けて吐き出した。

「徳山さん、まだ僕たちは勤務中ですよ」

「お前はクソ真面目すぎるんだよ」と徳山が言った。「いいか、少しは気楽に仕事をしろ。いざっていうときにそんな緊張しているとヤられるぞ。それからお嬢ちゃん」

「はい」

「このことはSNSとかにあげないでね。色々と大変なことになるから」

「徳山さん、いい加減にしてください」

「構わないですよ。私はSNSの類は一切していないんで。それにこのことを誰かに話すつもりもありません」

「物分かりがいいお嬢ちゃんだ。それからもう一つ」

「今のうちに家に帰れって言いたいんでしょ? 万が一逃走中の犯人に出くわしたらお二人の立場が悪くなるから」

「感のいい子だな」

「じゃあ、私はそろそろ失礼します」

 私は二人に頭を下げた。

「気を悪くしたら本当にすいません」

 私はその場を離れ、大久保駅近くにある自分のマンションへ足を進めた。背後で若い警官と徳山が言い争っている声が聞こえたが、そのうちなにも聞こえなくなった。

 スマホは午前一時前を指している。新しい着信もメールも届いていない。


 私は部屋のドアに鍵をさした。ロックが解除する音が静かな廊下に響く。ドアを開けてみると、夕希のスニーカーが脱ぎ捨ててあった。当の本人は今朝と同じく食卓でうつ伏せになっている。

「夕希」私は床に転がっている風船を蹴り分けながら彼に近づいた。「ねえ、起きてよ」

「おお、朝美か…久しぶりじゃの」

 夕希がのそのそと起き上がった。瞼が閉じかかっていて、眠たそうにしている。

「なにが久しぶりよ。毎日顔を会わしてるでしょ」私は電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。「記念日を祝うって言ってたのに、結局なにもなかったわね」

「すまんな。わしもいろいろと走り回ってたんじゃ」

「ほつき歩いてたの間違いじゃないの」私は煙草を口に咥えた。食器棚から二人分のコーヒーカップを取り出す。「ところであの二人は一体何者なの? あんたが二人の会社から重要な書類を盗んだって言ってたんだけどほんとうなの?」

 電気ケトルの中で水がぼこぼこと音を立て始めた。私はドリップパックをセットし、煙草に火をつけた。また夕希はうつ伏せになっている。

 私はため息をついた。電気ケトルがカチッと音を立てた。私はお湯をカップに注いでいった。

「ねえ、砂糖はいる?」

「なあ、朝美」

「なによ」

「今まですまんかった。わしにできるのはこれぐらいじゃ」

「床に風船を敷き詰めること?」私はカップを食卓に置いた。「私は夕希のこと好きだったけど、もうこれ以上は二人で暮らすのは難しいよ」

 勇気はぐったりしたままでいる。食卓には小さな木製のケースが置いてあった。

「ねえ、これなに?」私は夕希の肩を叩いた。

 彼は反応しなかった。ぐったりとしたままでいた。木製のケースを開けるとそこにはダイヤのリングがある。

「ねえ、これどうしたのよ。ねえ、夕希」

 私は彼の身体を揺すったが、夕希は目を覚まさなかった。

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