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三泊四日

柏朔司

今年の正月は、猛暑の裏返しか豪雪に見舞われる。高城卓爾が寝室にしている八畳間の縁先には、猫の額ほどの庭があるが、屋根から滑り落ちた氷雪が小山の如く盛り上がり、南側の松や梅は難を逃れたが、沈丁花、椿、満天星は無残にも潰されてしまった。
この日、目覚めた卓爾は、ふと今日、一月四日は俺の満八十歳の誕生日だなと思う。すると何の脈絡もなく
”教育は、不当な支配に服する事なく国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきである”
とのフレーズが、呪文の様に口をついて出た。寝惚けが覚めて、不思議と爽やかな気分となり、我が人生も捨てたものじゃない、と起き上がって伸びをする。
戦後まもなく新制大学となった東北大学教育学部を出てから、高校教師そして教員組合執行委員と、人生のかなりの部分を教育闘争に関わってきたのだから、教育基本法十条を暗記していてもおかしくない。もっともこれは、改悪される前の条文の事だが。それにしても雀百まで踊り忘れずかと、込上げてくるものはある。想いは畳畳としてて螺旋を描いて、五十年前の【三泊四日】の豚箱暮らしへと遡る。

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高城卓爾のいる岩教組県本部書記局は、戦前の教育会当時からのものを引き継いだので、二階にはホールを備えた風格ある建造物だった。近くの城跡には、啄木の『不来方のお城の草に寝転びて/空に吸われし/十五の心』の歌碑が建っていて、今、城壁の改修工事が進んでいる。
十二月九日の昼下り。卓爾は、他の組合役員たちと一緒に盛岡署前に来ていた。ひと月半ほど前の十月二十六日、文部省によって実施された【一斉学力テスト阻止闘争】で岩教組は八十七%の中学校でテストを阻止した。これは、全国でも最高の阻止率だっただけに権力側は地方公務員法で禁止している争議行為に当たるとして、翌日から激しい弾圧を加えてきた。今日ここに来たのは、三日前に逮捕された支部役員に対する拘留請求が地裁によって却下されたとの朗報がさっき報道されたので出迎えるためだった。
書記局から、ここに来るまで五分もかからないのだが、それにしても、道々自分たちにも逮捕状が出ているかも知れない等と口にする者は無かった。なんとはなしに逮捕令状とは早朝に寝込みを襲って執行されるものと思い込んでいたとしか考えられない。
緩やかな弧を描いた警察署の玄関口では、待ち構えていた様に警棒を横に構えたポリスたちが通せん坊している。なかなか釈放しないので、赤い腕章をつけたり携帯用マイクを肩にかけた組合員たちの数が増えてくる。地方の支部から捕まった幹部の迎えに来た教員組合員だけでなく、県労連や大学自治体からの支援者も加わって署の前の庭先から道路に溢れ、やがて筋向かいの市役所の辺りまで連なっていった。
「道交法違反になるので、道路にたむろするのはやめなさい❗」
とか、
「県公安条例違反の無届け集会ですから解散しなさい❗」
などと盛んに警告してくる。
「不当弾圧やめろ❕即時釈放しろ❕」
とやり返す。出迎えのため集まった人々にすれば、盛岡地裁の拘留請求が、盛岡地裁による却下された以上すぐ釈放すべきだ、と頭から思い込んでいる。
「すぐ釈放せよ、嫌がらせはやめろ❕」
「署長に会わせろ❕」
の、シュプレヒコールが起こる。
『60年安保』の余韻が残る翌年のこと、民衆は意気軒昂だった。北国には珍しい土曜の午後の陽だまりのなか、互いの応酬が陽気なざわめきの中で繰り返されていた。
いつしか卓爾は携帯マイクを持つと、人々の前に出てシュプレヒコールの音頭を取る。高校の時、弁論部だった上、学生運動をやったので物怖じしない。叫びながら、ふと、道の向こうに聳えるように繁っているヒマラヤ杉の方に目をやると沖島教授がこっちに来るのが分かった。
そうだ、今日は教授が、槙逸子との結納を交わすために仲人役として、二人の実家のある仙台に出向いてくれる日だったのだ。忘れていたわけではないのだが、泊り込みが日常といった闘いの渦中にあると私事は後景に退いてしまう。
「先生、どうもお手数をおかけして申し訳ありません」
混雑を掻き分けて、出迎えると丁寧に頭を下げた。
「組合書記局に伺ったら、こちらだというものですから、廻ってみました」
教授は岩手大学教職員組合の委員長を勤めたこともあり、こうした修羅場にも慣れてはいた。
実は三ヵ月ほど前のこと、卓爾は教授夫人の紹介によって、白梅高校で国語の教師をしている逸子と交際を始め、間もなく婚約した。しかし知り合った時には【学テ】反対闘争が、嵐を孕んだ情勢になるとは思っていたが、それにしても警察署の前で結納に関わる会話を交わす羽目になるとは、予測していなかった。
「何か仙台のお家の方に伝言はありませんか❔」
「元気でやっているとお伝え下さい。どうぞ宜しくお願いします」
彼は少し言い淀んでから、ただ笑って頷いた。こうした場の事をそのまま伝えてもらったら良いものかどうか迷った末に、そう言うしかなかった。教授との間で場違いの様な会話を交わした後、急いで第一線に取って返すと、さっきまで現場で指揮をとっていた警部補の姿が無い。どうやら一旦は署内に打ち合わせで戻っていたらしく、やがて再び玄関に現れると、さっきの態度を豹変させて、
「署長が、代表の方々と釈放の件についてお話したいと言っておりますのでお入りください」
と、然りげ無く言ってきた。
黒い予感が脳裏を過ぎったが、卓爾は他の者たちと一緒に署内に入って行った。案内されたのは入り口に近い交通警ら室の奥にある署長室だった。待ち受けていた風の署長とテーブルを挟んでソファに座る。
「署長、拘留請求は却下されたんだから、もはや留めておく法的根拠は無いはずだ。直ぐに釈放してもらいたい❕」
「ええ。仰ることは分かりゃんした。今、検察庁から指示が来次第、その手続きは取りますので、まあ・・・もう、暫く待ってください」
こんな暖簾に腕押しのような問答が代表者との間で繰り返される。自分の方から話したい事があると言って招き入れながら、特段に用件を持ち出すわけではなく、雑談で時間潰しを謀っているようにも取れた。巡査からの生え抜きで上り詰めて来たというだけに泥臭い図太さを身上としている。
十分ほども経った頃、「ちょっと」と署長がトイレに行く風を装って席を立った。疑心暗鬼になり始めた時だった。書記局の家宅捜索で陣頭指揮をとっていた顔見知りの次席が、扉を開けて「委員長」と小声で手招きした。
委員長が応接間を出たところで、
「俺が、逮捕されたぞ❕」
の叫びが挙がった。これが合図で署内は蜂の巣をつついたように騒然となる。
罠だと知った瞬間、卓爾は肩に掛けていた携帯マイクを側にいた組合員に託し、廊下に飛び出すと、
「次席❕卑怯じゃないか❕」
と、指呼しながら詰め寄った。
一斉にフラッシュの放列を浴びせられ、目が眩んだと思った瞬間、大勢の者に両側から押さえ付けられていた。頬骨の出っ張った痩せぎすで目ツキだけが尖った男が逮捕状を突き付けて、
「高城卓爾、地方公務員法違反の被疑事実によって逮捕する」
と、読み上げた。
「岩手署とは、何処だ❕」
と叫んで、渾身の力を振り絞って暴れる。だが衆寡敵せずで、警察署の裏庭に待機させてあった中型乗用車に押し込まれてしまった。走り出した車の中で、少し落ち着くと左右を挟み付ける様にして私服の刑事が座っていた。
車が市街地を抜けて国道四号線に入り北上し始めたところで丶ああ岩手署とは沼宮内署のことか丶と胸に落ちる。さっき逮捕された時暴れたのは、騙し討ちへの憤激もあったが、令状の「引致すべき場所」が岩手署と記載されていた事にもよった。岩手県内の留置場を盥回しする魂胆だと早とちりしたのだ。かつての沼宮内町は近隣と合併して岩手町となったのだ。「なんだ‥」と分別が付いてみると丶俺としたことが丶と苦笑する。ポケットから扁桃腺の痛み止めに持っていたトローチを取り出して舐め始めた。
興奮がおさまり落ち着いてくる。署の所在地までは四十分はかかると踏んで、軽く目を瞑って車に身を委ねる。やがて目を開けると、車窓に南部片富士と謳われる岩手山の雪化粧が日差しに照り映えていた。
ふと、今日は十二月九日だった事を思い返す。すると、殆ど反射的に専制政治打倒を目指して決起し流刑されたロシアのデカブリスト(十二月党員)達の事が思われ、その運命とも重ね合わせて囚われ人の思いが過る。暫し、その叙情に浸っていると、やがて【流刑人】の歌が旋律を以て蘇ってくる。

いま、シベリアの空焼けて
朝もや森をつつむ
宿場の庭に鎖の音聞こえ
とらわれの人いづ

この唐突なほどロマンチックな連想は卓爾の気分を不思議なほど高揚させ鼓舞した。
既に岩手署の玄関口近くには、岩教組沼宮内支会の書記長ら数十名が、紅の組合旗を掲げて激励に来ていた。車は署の裏手に駐められ隠される様にして連行される。だが、卓爾は刑事に伴われて道端から数段高い警察署内に入る時、くるりと向きを変えて笑顔で右手を高く挙げて皆の方に応えてから昂然と胸を張って入って行った。
入り口に近い小部屋に入れられ、木机を挟んで二人の刑事と向き合う。
「何か弁明することはありませんか❓」
片方が訊いてきた。
「黙秘だ❕」
「いや、取り調べではなく、逮捕に当っての弁解録取書という聴き取りなんですけど」
「弁解もヘチマもあるか、不当逮捕だ❕」
卓爾は物凄い剣幕で怒鳴った。
「いや、分かりました。まぁ、落ち着きましょう。私は取り調べに当ります成田警備係長です」
もう一方の頭を綺麗に分けた男が、名乗って執り成した。その後、西日の差す少し広い部屋に移されて、弁護人選任届等のやり取りを交わしてから署内の留置場へと移送された。
鉄の扉で隔てられたブタ箱には、暗い代用監獄のイメージが付き纏う。だが、卓爾が収監された八畳間ほどの部屋は酔っ払いなどを泊めておく保護監房らしく、白壁と窓際の鉄格子で娑婆とは隔離されていたが畳は新しかった。
大雑把な身体検査を受けたが、腕時計はシャツの中にたくし上げて隠した。トイレは「便所❕」と言えば出してくれた。

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汗ばんで寝苦しかったのか、どうも目覚めがスッキリしない。沼宮内の監房は底冷えすると思い込み差し入れられた毛布に、さらに衣服を着込んで寝たせいだ。かくも過敏になってはいかんな、過ぎたるは、なお及ばざるの如しだ。もっと鈍になれ❕と自戒して苦笑する。
「○○、頑張れ❕」
「○○、負けるな❕」
の激励コールが聞こえてくる。起床ラッパだ。鉄格子の向こうの道端から叫んでいるようだが、昨夜も、就寝前にも来てくれ三人の名前を代わる代わる呼んでは励ましてくれた。それで丶ここに留置されたのは自分の他に副委員長と、もう一人の執行委員なのだ丶と分かったのだ。
監房から出してもらい洗面を済ますと、朝食は豪華な差し入れ弁当だった。お陰で臭い飯は食わなくて済む。昨日ここに連行されて来てからずっと感じていたが、外からの救援は実に行き届いていて身に沁みた。あとはこっちが闘う番だぞ、と腹を括る。
稍あって留置場から呼び出され、二階のがらんとした感じの部屋で、木机を挟み昨日の成田係長と対座する。
「どうでしたか❓昨日は眠れましたか」
何も答えず、自分より五、六歳は年長らしい小作りで端正な顔付きを見て黙っていると、
「それではまず、氏名、住所、生年月日について伺いますか❓」
と、水を向けてきた。
卓爾は氏名も含めて一切を黙秘で通そうかとも思ったが、弁護団と執行部が打ち合わせた際の差し入れの時の悶着を回避する為という申し合わせに従って、名前の他に住所は盛岡市上田覚山脇の下宿であること、生まれは昭和六年一月四日だと淡々と答えた。
「あなたは現在、岩教員組合中央執行委員ですか❓」
弁護士の話では、今度の事件はここが勘所で、『執行委員として【学テ】阻止闘争の指令を出したこと自体が地方公務員法違反の争議行為を教唆、煽動した罪になるとの解釈によって弾圧してきているのだ』との事だった。
「黙秘します」
「こちらでは、学力調査に反対行動を取るよう組合員宛に出した指令文書を押収してるんですけれど、指令書について知りませんか❓」
「黙秘します」
「でも、高城さんはねぇ、執行委員の中ではただ一人の高校教師で、しかも四年のキャリアを持っている、言わばこの大闘争の一方の雄ですよ。御存知ない事はないでしょう」
「黙秘します」
「それでは、あなたは十月二十六日午前、何処におりましたか❓」
「黙秘します」
「その時は、三陸沿岸の近くに孵化場のある中学校前の道路上で、立会人らの来校を阻止していたのではないですか❓」
「黙秘します」
よく調べているわい、と思う。確かにあの日は、教育長や役場の課長ら十数名のピケ隊によって阻止する先頭に立っていた。その後も、テスト阻止のため何処の支部にオルグに行っていたか、など尋問してきたが何れも「黙秘します」と答える。
「なんだか、八百長やってるようだな」
さっきから卓爾が「黙秘します」と答える度に、その通り書いていた成田が自嘲気味にボヤいた。
卓爾は腹の中で丶冗談じゃない。治安維持法の時代じゃあるまいし黙秘権はこっちの憲法上の正当な権利行使だ。俺は八百長なんかヤッてねぇぞ丶と嘯く。
「ところで、朝早くから随分と盛んに激励に来てますねぇ」
頑張れ❕コールの事の様だが、匙を投げた格好で雑談を仕掛けてきた。
「ああ、よく聞こえますよ」
住所、氏名の時以来、初めて会話らしい口を利いた。
弁護団との打ち合わせの際に、雑談については、原則として情が移ったり巧みに誘導される危険もあるのでヤメた方がいいが幹部の皆さんなら世間話し程度はいいでしょう、となったのだ。
「組合の方では、警官の奥さんたちを先頭に立て叫ばせてるようで、、」
恨みがましく聞こえた。警官と女教師のカップルは稀ではない。だが、自分が仕掛けたオルグ先のピケ隊の中には、父親が町の教育委員長でテスト実施の先頭に立っている娘の女教師もいた。骨肉相食む【学テの陣】の様相は至る所にあるのだ。
「ヨーロッパでは警察官も労働組合を作ってやってますよ」
卓爾は一矢報いた。
「そんな事ありますかねぇ」
暫くは互いに、手持ち無沙汰に無言のまま時を過ごす。
「‥あっ高城さん、近く結婚されるそうで、」
ぽつんと小石を放ってきた感じだった。
卓爾は否定も肯定もしなかった。が、警官までも知ってんのか、随分と身辺を洗われたなと思う。
ふと先月の末、県教育委員会に出掛けた時の事がダブッて思い返された。二階の溜まりで教育次長とばったり出会ったら、
「近く、槙先生のお嬢さんと結婚されるそうで、」
とニコニコ顔で声を掛けられたのだ。逸子の父、槙義太郎は、退職してはいたが白堊高校長だったので次長も当然に顔見知りである。だが自分たちの婚約は公表もしていない。この時も、プライベートに関わる事が斯くも早く伝わるものかと驚いた。
気が付くと、窓の陽射しは昼に近い気配だった。突然騒々しい闖入者が現われる。県警の機動隊長が二、三の子分を率いて入って来たのだ。この男とは、花巻温泉郷での文部省の伝達講習会以来の顔見知りなのだ。ピケ隊の先頭に立って道路を挟んで対峙したものだ。県警督戦隊のお出ましらしい。
卓爾が黙秘権を行使していると知ると、室内を荒々しく歩き回ってデモった後、 
「黙秘なんかオカシイな❗マルクスもレーニンも堂々と自己の主張を開陳したもんだ」
等と、居丈高になって挑発してきた。
何をぬかす❕この乱闘服の半端者め、警察学校あたりで仕入れた反共教育の生っ噛りでマルクス、レーニン等と知ったかぶりやがって、と腹の中でせせら笑う。だが、一発食らわせてやるのはヤメにしてぐっと堪える。
やがて、督戦隊は退散して行った。
監房に戻されて弁当を食って一息入れていると、「弁護士の接見です」と呼び出された。
木製の間仕切りを挟んで椅子にかけると、呑気な父さんの様な角田弁護士が笑っている。
「いやぁ、高城さん。元気そうですねぇ。寒くはありませんか❔」
角田とは任意出頭対策で一緒に学校分会へオルグに行った事がある。車の中での雑談で、
「私の夢はですねぇ。定年間近に田舎の簡易裁判所の判事にでもなって、のんびり釣糸でも垂らして暮らすことですよ」などと言う人だった。 
「ええ、まあ大丈夫です」
「湯タンポでも要求しますか❔」
と言われて、卓爾の脳裏を【要求闘争】という言葉が過る。角田はこの後、今日の午前に岩手公園で不当逮捕抗議集会が開かれメーデーを上回る人々が集まって、デモは今も続いている事などを語ってくれてから、
「そうそう、今日の投書欄に花巻の一主婦という方の『子供の夢破る警察沙汰』という記事が載ってましたよ」
と、その新聞を読み上げてくれた。
接見が終わってブタ箱に戻ってみると、二日目のせいか馴染んだ気分になる。まず激励電報に目を通す。岩教組分会からに混じって勤務していた三陸沿岸釜石高校の同僚からのものがあった。思わず頬が緩む。
と、彼は思い出したように房内を熊のように歩き廻り始める。朝鮮戦争の時、占領政策違反で独房に入れられた先輩から、どうしても運動不足になるからと房内散歩をアドバイスされたのだ。
夕食のあと差し入れの衣類から暖かそうな毛のシャツや靴下を取り出して着膨れになって寝転ぶと、今日の取り調べについて色々思い返される。丶かなりのブツを握っているな丶と改めて思う。それは当然の事なのだ。実はあの事件の後、検事総長が、
「岩教組を徹底的に捜査する❗」
と異例の談話を出して、東北各県の検事を盛岡に集中させたのだ。既に組合出入りの印刷屋の営業部長が自殺するなどの悲劇も生んでいた。
あれこれ考えていると、ふと、さっき角田弁護士が読んでくれた投書の一文が頭に浮かぶ。主婦だと言うが岩手の僻地の教育事情にもかなり詳しい。元教師だったのかも知れない。記憶に残っている事を繫げると、こんな中身だった。
『県内に多い僻地の学校では、一年~六年までを一人の先生が教える単式教室。一年~三年までの複式。障子や茅葺き学校、壊れたオルガン一台の音楽教室。こうした事がザラである。そして、複式学級では学力は普通の学級の三分の一しか身に付かない。だからもし一斉【学テ】により全国最低の汚名を着せられたら教師と生徒の両方が劣等感、卑屈感に打ちのめされるのではないか。だからこそ岩手の教師は権力に屈せずに闘ったと思う。それなのに警察沙汰等、とんでもない』と。
【学テ】に対する被差別感情は県民に根強いものがあった。たった一度の学力テストの結果をもって指導要録に記入し就職や進学の資料とするのは無謀ではないか、との指弾は岩手の山野に満ち満ちていたのだ。
こうして豚箱にいると、戦前治安維持法のもとで弾圧された北方性教育運動の教師たちの事が不思議なほど身近に思われた。彼等は北方性の土壌のもとで生活綴方運動などに取り組み、やがて修身教育の批判にまで及んだが、それで捕まれば拷問される恐れもあったろう。だが、それを知っていても多くの若い教師たちが抵抗運動に参加したのだ。

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この日の調べ室は一階の陽射しの明るい部屋だった。窓辺の庭には溶けた雪と土が斑模様に連なっていて、すぐそこの塀の外は道路だ。たった二日しか入っていないのに娑婆に触れた様な感動を覚えるから不思議だ。
机を挟んで成田と向き合うと、
「午後には地検に移るんで、髭でも剃って行きますか」
と、持ち掛けてきた。もうこっちの仕事は終わったんだという雰囲気が滲んでいる。丶そうか、警察の持ち時間は四十八時間だったから午後には送検という事か丶と合点する。逮捕の心得を記した黄色いパンフレットを読んで案じていた。
やがて成田は、留置場から彼のバッグを取り寄せると、用務員さんに命じて洗面器にお湯を汲んで来させ机の上に置いた。
卓爾が、安全カミソリとタオルを取り出し顔を蒸し始めると、
「信用しますよ。一方の雄なんだから窓を破って逃げ出すこともあるまいから」
と、昨日と同じ【一方の雄】という言葉を残すと出て行った。
警察としては黙秘権行使は想定内の事で後は検察官の方で丶良しなに丶といった感じがした。
独房に戻されて昼食の後、検事の取り調べは盛岡の庁舎に連れて行かれての事だろう、と勝手に決め込んで畳に寝転がると差し入れの本を読み始める。手に取って二、三冊をペラペラと捲った後、薄橙色掛かった八冊の文庫本を見付け出し、それがトルストイの【戦争と平和】だと分かると、
「やっぱり‥」
と声を上げる。すぐ逸子からの物だと分かったから。
実は、逮捕が間近いと思われた時、自分がこの長編小説の差し入れを頼んだのだ。捕まれば警察、検察で三日、裁判所が拘留を十日間ずつ二回認めたとして二十日間、長くて二十三日間だと聞かされていたので『どんと来い二十三日』のつもりだった。
婚約者とはいっても、付き合い始めてから三ヵ月も経っていない。とんだ渦中に巻き込んでしまったという思いもあるだけに、よくも列車に乗って岩手署まで来てくれたものだと感謝の気持になる。
最初に一巻目を手に取って捲っていくと、百ページ目の余白に薄い鉛筆の崩し字で『お体に気をつけて、逸子』とあって、棒線を引いて《ネクスト二の百頁》とある。
二巻の百ページを開くと『逮捕のこと沖島夫人からの電話で知りました。明日、抗議集会に出た後、沼宮内まで参ります』とあって《ネクスト三の百頁、以下各巻同じ》とあって、三巻目の百ページには『沖島教授から結納の報告がありました。丁度、逮捕のニュースがラジオで流れた由。貴方のお母様、私の父、事柄の本旨を深く受け止めて受容されてるとの事。安心乞う』とあった。
四巻の百ページには『宮本百合子の道標を読んでいます。彼女の生き方に共感するところがあります』と書かれていた。
五巻の百ページには『御茶ノ水の学生の時はノンポリでした。弟や妹たちの方が一足早く目覚めました』とあり、六巻には『今年の八月、仙台の実家に帰省。東北大の学生である妹に誘われるまま松川事件無罪判決決行新団に参加。仙台高裁に向かう広瀬橋の上に差し掛かった時、トランジスターラジオで無罪判決を聞きました』とあった。
七巻には「ここまで読んだら偉い。もう一息よ」とあり、最後の八巻には「囚われ人の感想はいかが❔釈放されたら夜遅くとも来てください。お待ちしてます」とあった。
読み返しているうちに、込み上げてくるものがあり、想いはいつしか仁王新町の彼女の住んでいるアパートで一緒に【流刑人の歌】を聞いた時の情景へと飛んだ。この歌の旋律は苦悩と哀調を帯びているにも拘わらず、尚、地の底から人の魂を揺さぶらずにはおかないものがあった。
その後、何の音沙汰もなく夕食を済ませて丶今日はこれで終わりか丶と独りごちる。
と、突然呼び出されたので留置場の扉から出ていくと、背広姿の男が待っていた。
「検察庁の者です」
と、名乗って同行を求められたので付いて行く。廊下を伝って階段を降りた地下の小部屋の前で止まると、
「ここです」
と、ドアを開けて促されたので入って行くと机の向こう側に角張った浅黒い顔の男が待ち構えて座っている。
卓爾は立ったままで、机の上に置いてあった罫紙を見下ろす格好になった。経歴書らしい。一瞬、【東北大細胞所属】の文字が目に飛び込んでくる。丶何❔俺は岩教組執行委員として逮捕されてここに居る筈だ。だが相手は共産党員として構えているんだな丶と思った瞬間、「やるかッ❕」と沸々とした闘志が湧き上がってきた。学生時代に戻った様な青々とした生々しい感情だった。卓爾は椅子に座ると傲然として相手を見据えた。
角張った四十がらみの男は、
「ええッ君❗学力テストの日は何処にいた❗言いたまえ❗」
と、座るや否や斬り込んできた。警察の時には住所、氏名、生年月日から始まって黙秘権を告知した上で尋問してきたので意表を突かれた。咄嗟に固く口を噤む。
コイツが検事かと思うと卓爾は、そのアンフェアなやり方に憤激し逆上しかけた。だが、学生の時からの経験で丶本気で逆上っては自滅するぞ丶と自分に言い聞かせる。そして半ば逆上った状態へと心を鎮める。この半ば逆上った様こそが、自分にとって最強の対決構図となる事も会得していた。
「黙っていちゃあ、駄目じゃあないか❗」
「ああん、君どうしたんだ❗」
と圧力をかけてくる。
腹を据えて沈黙で睨み合っているうちに、卓爾は次第に椅子を後ろに少しずらして、腰の重心を前方に移すと心持ち踏ん反り返って座り直した。普通の姿勢では畏まって取り調べを受けてる様で面白くなかった。この方が長く対決するには気分的に楽だと思ったのだ。
「その座り方は何だッ❗」
検事は嵩にかかって攻撃してきた。卓爾はこの瞬間を捉えて反撃に転じた。
「座り方にまでケチを付けるのかぁッ❕」
気迫を込めて怒鳴り返した。
此の所、団体交渉や座り込み、警察への抗議行動と修羅場の場数は重ねてきている。緊迫した空気の中でも彼我の力関係が逆転していく様が伝わってくる。検事は匙を投げた様だ。黙っていても精神的に優位に立ってくる。
「どちらの大学を卒業されたんですか❓」
検事の横でペンを持って座っていた、さっき留置場へ迎えに来た男が口を挟んだ。
「お前は何だッ❕アシスタントかッ❕」
卓爾はまた怒鳴りつけた。
「いやなに検察事務官ですよ」
慌てて検事は尋問の違法性でも指摘されたかの様に弁解した。
稍あって検事は、
「黙して語らず。」
と、事務官に書くように命じた。
その後少しして事務官が付き添い独房に戻った卓爾は、黴臭い寝具と差し入れの毛布を重ね合わせて寝転んだ。
鉄格子の窓から、
「頑張れ❕」
「即時、釈放しろ❕」
と叫ぶ声が闇をつんざいて響いてくる。自然とさっきの取り調べの光景が蘇ってくる。まだ興奮覚めやらぬ頭で些かの満足感に浸る。
だが、その端から丶権力は俺を逮捕された九人の執行委員の中の単なるワンオブゼムとしては来ていないな丶と思う。経歴書の事もそうだし、昨日の県警機動隊長のマルクスやレーニンを持ち出しての小賢しい挑発にしてもそうだ。いろいろと思いを巡らせているうちに【戦前の特高警察を源流とする公安警察】や公安検事の共産党に対する剥き出しの敵意を痛感した。

                                         4

男女混声の激励コールに目覚めると丶ああ今日は、いよいよ地検が地裁に拘留請求をする日だな丶と思う。丶俺が入るのと行き違いに出された支部役員たちは裁判所によって拘留が却下されたが本部役員となれば、そうは問屋が卸すまい。組合専従なので教育現場への影響も少ない等の口実もつけられるから楽観は禁物だな丶と思う。
朝飯を食うと早々に検事からの呼出しだと言うので、留置場から昨夜とは別の事務官の後に付いて廊下を伝っていく。と、日当たりのいい小部屋へ連れて行かれた。
机を挟んで座る。昨夜の検事とは違って、髪を七三にポマードで分けた若い男だった。卓爾は顔を見た途端、ピーンと来るものがあった。
【学テ事件】の捜査は執拗を極めたものだったが、警察とからの任意出頭に応じないと調書を取るために生徒のいない時を狙って警官だけでなく検事までが直接学校に押し掛けてきた。県南の一関に近い中学校に、一人で日直していた女教師が突如やって来た若い検事に参考人として調書を取られた。その際、尋問に対して、
「忘れました」
と答えたところ、
「十日くらい前の事を忘れるような教師に教わっているから、岩手の子供の学力は日本一低いのだ❗」
と悪罵を浴びせたというのだ。
卓爾は丶生意気な検事はコイツだな丶と思う。勝負は昨夜ついているので、悠然と構えて対峙する。相手はどうせ黙秘は崩せないと諦めているらしく初めからどこか投げやりだった。卓爾の経歴書などをペラペラと捲って、
「君は学生の時は学生運動をやり、教員になってからは教員組合運動か❓ところで、沿岸の中学校前のピケでは学生運動の時の経験が役立ったかねぇ❓」
などと悪態をついて挑発してきた。
卓爾は黙って相手にもしなかったが丶コイツ時間稼ぎをしてやがる丶と思うと癪に障ってきた。事務官はペンを持て余し、側の薪ストーブはよく燃えている。
「つまらんこと言ってないでストーブでも焚けよ❕」
「寒いですかねぇ」
卓爾は座ったまま首を回し始める。
「運動不足かね❔」
「おい❗用がねぇなら早く出してくれよ」 
卓爾は軽いジャブで応酬した。
流れ作業の一コマの様な取り調べが終わって留置場に戻されると、卓爾の関心は拘留裁判へと収斂されていく。丶検察だって日常業務に携わっている我々に対して、住所不定とか逃亡の疑いがあるとは言えまいから証拠隠滅の恐れありという事で拘留請求するんだろな。だが、その証拠なるものも度重なるガサ入れによって今更、隠す物なんて無いんだ。却下は当然だがなぁ丶
丶だが待てよ。概して裁判官は検察に齡くて言いなりに判子をつく慣わしだと聴くからなぁ。もっとも、事は教育裁判に関わっての事件なんだ。三年前の勤務評定闘争の時、東京や福岡の地裁では拘留請求を却下したと聴く丶こんな解の無い方程式でも解くように、頭の中で堂々巡りを繰り返しているうちに留置場から呼び出された。
署の裏庭でジープに乗せられる。窓のカーテンに覆いがあった。走り出した車は盛岡へと向かっている様だった。
市街地に入って、約十分も走ると群衆のざわめきの中から「頑張れよ❕」の声に混じり拍手や歓声が沸き起こってきた。卓爾は出迎えの人々に励まされながら到着した内丸官庁街の検察庁舎に暫し留置された。稍あって身柄を筋向かいの石割桜で名高い裁判所へと移される。
木造の建物を事務官らに伴われて、奥まった感じの部屋に連れられていく。法廷らしい。正面の少し高い所に黒い法衣を纏った裁判官が座っている。長身で助教授といった風貌だったが、その壇の下には書記官が机に向かって座っていた。
「氏名と住所、そして生年月日を述べて下さい」
低音だった。卓爾は逮捕されて以来、自らを名乗るべき時を得た様に満を持して述べる。
「拘留請求は却下します」
判事は言った。
「釈放していただけるんですね」
卓爾が反問した。
「裁判所としては拘留しません」
判事が繰り返した。
この場から、解き放たれるのかと思ったら、そうはいかなかった。日暮れの中を盛岡署へと連行され、一旦は二階の留置場に留めおかれた。その後、再び沼宮内の警察署に戻される。そうこうして整理した見回り品を手に署の外に釈放された時は、辺りはすっかり暗くなっていた。
だが、玄関口を出た途端に道路いっぱいに待ち受けていた数十人の組合員から口々に、
「ご苦労さん」
「頑張ったね」
の言葉を浴びせられカメラのフラッシュが焚かれる。いつの間にか人々の労いの言葉は「頑張ろう」の歌声に変わっていった。卓爾たちは早速、沼宮内小学校での祝賀パーテーに臨んだ。
(続く‥)
































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