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春を告げる王の鳥

大宮純

三月十一日の【東日本大震災】が発生したとき、
岩手山近くの町にいた。八幡平市の西根である。私は午前十時から知人の家に保険代理店の仕事で訪れていた。昼食やモンブランという名のケーキをいただきながら談笑し知人宅を辞したのは午後二時四十分である。
盛岡方面へ南下して六分経った時、乗用車のハンドルがぐらついた。ハンドルをギュッと握り、真っ直ぐ走るように努めたが、車全体がガタンゴトンと揺れる。タイヤのボルトが緩んだのだろうか❓
と、思って町道の端へ車を停めた。ドアを開けて外へ出ようとすると、ドアがギシギシと音を立て地面が波を打って揺れた。道路沿いの樹木がワサワサと大きく出る揺れているのが目に映った。
前方からやって来た乗用車が急停止し、散歩中の年寄りがギョッとした表情で立ち止まった。
地震だ❗と感じた。車がグラグラし、野も山もが揺れている。大きいな、これは震度五以上だ❗と思った。今まで体験したことのない巨大地震が約三分半続いた後、二、三分おきに、やや大きい揺れがあり、その間も絶え間ない地震が続いた。
少し終熄したな、と判断して再び車を走らせたが、午後三時十五分に再び大きな揺れが起きて収まる気配は全くない。国道沿の電信柱が三十度傾き、道路上に崖の上から崩壊した雪の塊が落ち、松の枝が散乱していた。四十四田ダムの手前にあるT字路を左折しようとした時、道路の真ん中から射す陽を受けて虹をつくっていた。ダムの周辺では国土交通省の職員がダムの決壊を心配して監視を強化していた。
相当酷かったようだな、と思ったが、乗用車のラジオはAMの音波が不調で、FM放送が途切れ途切れに「三陸沖で地震が発生した模様…津波が来ますので、直ぐに海から離れてください…只今入りました…釜石で四メートルの津波が観測されました」と報道されるだけだ。
デパートの照明は消え、住民が路地に飛び出している。自宅のそばに着くと三人の年寄りが崩れ落ちたブロック塀を片付け始めていた。自宅の車庫へ車を入れ、家のドアを開けると、下駄箱の上からサッカーボールが叩き落ちている。
居間へ入って見ると、ピアノの上に乗せてある箱ティッシュ等が床に落ち、机のパソコンのディスクトップが台から落ちて真っ逆さまになっていた。書架へ横向きに置いていた本が崩れ落ち、真下にあるガラス瓶の薄い蓋を直撃しヒビ割れさせている。割れた瓶の底に一円玉の重なりが見える。
台所はどうなっているのか❓と思って覗くと、食用油が入ったままのフライパンが引っ繰り返って床をヌラヌラさせていた。開閉式の戸棚から茶碗と珈琲缶などが飛び出している。床は食器などがゴロゴロと散乱していて、足の踏み場もない。
長靴を履き食器などを流し台へ運び、階段下の倉庫から使い古しのカーテンを持ってきて台所の床へ敷いた。二階へ上ると、寝室の三つの箪笥が一メートルほど動いていて、乗せていた人形ケースが床に落ち、飛び散ったガラスの破片が窓から射す外光の中でキラキラ輝いていた。
さいわい鏡台は三十度移動しただけで何ともない。子供たちが使っていた部屋を覗くと、書架のガラス戸が開いて本が落ちそうになっていた。
今までに経験した事のない被害だった。これでは、三陸の沿岸地方を襲っている津波は、相当大きいのではないか❓五十メートルの遡上波が来てるかも知れない、と思った。丁度、二ヶ月前に【三陸海岸大津波】という吉村昭氏の記録誌に目を通していたので、そんな気がした。テレビはつかないし、十五年前に買ったラジオは故障しているので、県内の被害の程度は全く分からない。
勤め先の保育園から休みを貰って、午前九時ちょっと前の新幹線で東京に出掛けた妻の直子へ何度も携帯電話を書けたが「接続出来ません」というメッセージが液晶画面に表示されるだけだ。
気が付くと、外は夕暮れを迎えつつあった。こうしてはいられない。寒くなってしまったら大変だ❗小屋からストーブを持ってきて暖を取るしかない。オーバーを着て家の裏小屋へ回る。
段ボールの束とスキー板を除けて、小屋の奥から二台の反射式ストーブを引っ張り出した。十年以上も重い物を持ったことがなかったので、若い時なら軽々と運べたストーブが、やけに重く感じられる。ギックリ腰になりそうだ。掃除用のタオルでストーブにかぶっている土埃を払い、中の芯を確かめた。芯が灰白色になり、石のように固くなっていた。タンクから灯油を缶に入れてきて給油すれば大丈夫だなと考え小屋に引き返して給油ポンプを探した。小屋の中にポンプが無い。さて、どこにあるのかな❓そうだ、劣化してしまい捨てたのだったと思い出した。
家の中へ戻り、台所の床に敷いておいたカーテンを丸め、ボロ雑巾で油の染みを拭き取ってゴミ袋へ入れた。茶箪笥の引出しからマッチと蝋燭を取り出して灯りを確保した。
冷静になろう、と考えて珈琲を淹れた。水道から出てくる水が少し黄ばみ始めていたが、断水することはないだろう、と高を括って車に乗り込んだ。ポンプを売っている店は、自転車で五分ほどの距離にあるのだが、寒さで車を使わないと駄目であった。商店街は一つの灯りも点けずに閉められ、デパートも閉店している。道路を走行する車は極めて少なく、人通りも疎らである。
〔灯油あります〕と書かれた立て看板の店に入ってポンプを買った。どうせ今晩一晩の辛抱だろうから、とポンプだけを買った。店の前から二百メートルほど南下して左折し、家に戻った。戻る途中、どうしたんだろう❓と不思議に感じた事があった。店を開いていない薬店の駐車場が満車だったしコンビニエンスストアの駐車場も同じ現象だったのだ。どの車もエンジンを吹かした状態で走り出す気配もない。地震から逃れて車中に居るのか、あるいはカーラジオのニュースを聞いているのか、それとも暖を取るために駐車しているのか分からない。住宅地を通るとアパート前の車も、エンジンを吹かしている。
なぜエンジンを吹かしたままなんだろうか❓と、頭を傾けながらポンプと灯油缶を引っ下げて家の裏へ回った。石油タンクから灯油を引き出そうと思ったのだ。シマッタ❗と思った。タンクの容量メーターが一番底を指していたのだ。ポンプの管が底へ届かずポリタンクへ灯油を吸い上げることが出来ない。
灯油タンクを車へ積んで、さっきポンプを買った店に行った。店で灯油を買おうとしたのだ。遅かった❗店のシャッターが閉じられていたのだ。灯油は手に入らない。私と同じことを考えたらしい人達が数名、店の前で佇んでいた。
カーラジオのニュースを聞くと、今日の大地震は三陸沖で一分四十秒間隔で三段階に渡り発生し、そのエネルギーはマグニチュード8・8(後に9・0と修正)だという。三陸沖だけでなく午後三時十五分には茨城県沖でも大地震が発生したとの事だ。
ストーブで暖を取れないなら湯たんぽで身体を温めるしかないと考え、水をヤカンに汲みガスコンロにかけた。プロパンガスだから湯を沸かせない心配はなかった。湯を沸かしている最中、家族と友人達、それに一人暮らしをしている知人と、身体が不自由な幼馴染、今日会ってきたばかりの西根町の知人の事が心配になった。
再び、直子と息子達へ携帯電話をかけたが繋がらない。そのうち電池が切れてしまった。停電もしているし乗用車用の充電器もないから携帯電話の充電も出来ない。懐中電灯のスイッチを入れたが三つとも電池切れで点灯しない。普段から停電対策をしていないからだとホトホト困り果てた。こうなったら紫波の義姉の家に行くしかないと思った。グラグラ揺れる屋内に居るのも心配だが、まず布団に入ろうと決めた。眠らなければ、血液の癌に冒されている私の身体は、三時間と保てないのだ。すぐ外に逃げられるように、二階の寝室から布団を運び出して一階の書斎の床へ敷いた。大きな余震の度に怖くなり台所のテーブルの下へ潜り込むと、置いてある米袋が食用油で黒ずんでいた。

大震災から一夜明けて目を覚ますと、寝床の傍らに本棚から落ちた書物がたくさんある。夜中に大きな地震があったのだろう。気付きもせず、ぐっすりと眠っていたらしい。ふと崩れた本の山の上を見ると、なんと一番上に乗っている本の題名は【三陸海岸大津波】であった。
こんな事もあるんだな、と苦笑しつつ起床して、朝食を腹に入れた。昨日からずっと気になっている知人の安否を確かめなければならない。盛岡の北部にいる妹夫婦と甥達のことも心配であった。急いで身支度をして外に出た。寒さはあるものの天気はあまり悪くなかった。バイパスを南下して知人の家に行った。南下する途中の道路上の走行車は少ない。いつもは三十五分程の距離であるが二十分で着いた。
鉄製の門扉のチャイムを押したが応答が無い。駐車場入り口の折畳式の門を開けようとしたが内側から施錠されている。
昨日の地震で怪我でもしたのかな、実家に行っているのだろうか、それとも弟夫婦の家に行ったのか等と考えた。七十七歳になる知人は一人暮らしである。また来ようと思い直してバイパスを北上し妹の家に向かった。道路には百台近くの車が並び一向に進まない。出勤途中の人達だろうか。疑問に思いながら、並んでいる車の隣の車線を通ると、並んでいるのはガソリンスタンドでの給油のためである事が分かった。
‥これは駄目だ。裏道を通り左折した。久慈市の石油備蓄基地が壊れたらしいが、仙台市内の製油所も壊れたのか❓東北電力の発電所が壊れたのか。それともガソリンが不足し始めたのだろうか等と考えながら、住宅地から盛岡駅西口を通り北部へ抜けた。
歯科技工所を営む妹夫婦と甥達は無事だった。バイパスを再び南下する途中、サイレンを鳴らして走るパトカーや救急車を見かけた。サイレンの音を聞くと不安と緊張感が次第に高まってくる。車窓の前方に見える空からもバリバリバリと音を立てる機影が何機もあった。
昨日ポンプを買った店に行って灯油の給油を頼んだ。ビニール袋へ入れたポリタンクへ灯油を注いでもらう。アッと思った。ポリタンクが劣化しているために注がれる灯油がビニール袋へ漏れていくのが見えた。作業している若者が店の奥の職員に救援を求める。中年の職員が確認して新しいポリタンクを運んできてくれた。
「大丈夫だ。そのまま流して終わったらさぁ、ビニール袋の先っちょをタンク穴に差し込めばいいんだじゃ」と、若者へ冗談めかしながら指図した。ポリタンクと灯油の代金を支払った後、店の奥へ入って、「あとオイルタンクにも灯油の配達を頼みます。満タンにして下さい」とお願いした。
「おめはんは、どこの誰でしたっけ❓」とおばちゃんが尋ねた。マスクと毛糸の帽子を取りながら、私の名前と住所を告げた。
「ああ、緑が丘の伊藤孝さんね。いっつもの人だね。分からなかったじゃ。地震でグラグラ動いているし、油が入ってこないから確約できないけんど、何とかしましょ」と言い、目で笑った。
「いつも、」というのは、一昨年の秋頃から灯油の給油を頼んでいることと、革新政党後援会の催しで町内の公民館の利用を申し込んだ時に会話をしていた事を意味しているらしい。この店は、地区の公民館利用の受け付け場所となっている。
灯油の入ったポリタンクを乗用車の後部席に置き運転席に座ろうとした時、他にもポリタンクを手にした人達が次々とやって来た。
「酷い地震でしたねぇ。石油ストーブがあったから助かったけれど、なかったら大変で‥」等と店員に話し掛けている。道路脇にも数台の乗用車が並び、ポリタンクを手に降り始めた。
自宅へ戻って、ストーブに給油して火を点けようと試みたが、芯が固くなり油が染み込んでいないので点火しない。あ、そうだ。もう一台あった筈だと思い出して裏小屋へ行った。直子が「このストーブは、一番暖房効果があるのよ」と話していた日本郵船の〈火屋ランプストーブ〉である。食用のホヤの形をしている。給油して火を点けると、長年使っていないのにも拘らず直ぐに炎を出した。油が染み込むにつれ、もう一台の石油ストーブにも火が点くようになった。居間と、それに寝室にストーブを配置して「これで暖房はなんとかなる」と、ひと安心した。これら石油ストーブは二十年前に一度、中古品店へ売られる運命にあったものだ。子供たちが大きくなり、父を引き取って介護しなければならなくなった時に邪魔になった。
「こんな古いのは、もう不要だ」と私が言うと、妻は、「震災に遭ったら大変よ。寒い時に助かるのよ」と撥ね付けた。それで残っていた。
あとは電池切れになっている携帯電話に充電をしたい。停電だからドコモショップも営業してはいないだろう。まさか隣近所に「カーチャージャーで充電出来るようになっていませんか」等と訊いて歩くわけにもいかないだろう。どうやって充電をすればいいだろう。そうだ。今日の午後に会う約束をしている親戚へ予定通りでいいかどうか確認の連絡もしたい。電話が無ければそれも出来ない。さて困ったな…。便意をもよおしたのでトイレに行った。用を足して水を流そうとしたらタンクの水が途切れた。断水しつつあった。
そうだ、と思い付き、バケツで風呂の水を汲んで流した。こうなったら紫波町の義姉の家に直行するしかない。そこで携帯電話の充電ができるかも知れない。早めに昼食を済ませ、近所の友人夫婦の安否を確認(不在だったが)して、住宅地を抜けバイパスを南下した。青山町に住んでいる青年時代からの親しい友人の安否確認も確認したかったが、燃料切れの恐れがありそれも出来ない。バイパスは渋滞し始めていた。人々がガソリンや食糧を求めて移動をしている様に思われた。警察車両と消防車両がサイレンを鳴らしながら渋滞する車の脇を走行した。上空ではヘリコプターが飛行し続けている。
中央通りを横切りマリオスの脇を盛岡の南西にある流通センター方面へ向かった。小腹が空いたので、露店屋でカツ丼を一つ買った。カツ丼を食べると今度は小用を感じた。停電で真っ暗なレストランに駆け込んでトイレを借りた。満腹になると眠気を催し始めたので空き地で一休みした。車から降りて深呼吸をすると、空は黄砂のせいで蒼みがかった薄黄色に染まり、空き地には春の草花が芽を吹き始めていた。
盛岡から南へ三十キロの距離にある紫波町の親戚の家に着くと、義兄と義姉の家族がみんな集まっていた。居間の茶箪笥の位置が大きくずれた状態で庭の石灯篭も池の端に倒れている。義姉が、「孝さんと連絡が取れない」という妻からの電話が昨夜にあったと報告をしてくれた。直ぐに、義姉の携帯電話で妻に電話をしたが「接続出来ません」というメッセージが返ってきた。息子や娘達の携帯電話へかけても同じだ。
義姉の家も停電で、炬燵の暖房や居間の床暖房もできずにいた。テレビも見られないし新聞も配達されていなかった。唯一の情報源はラジオである。ラジオから、マスコミのヘリコプターが三陸沿岸で掴んだ情報が流され「陸前高田市が壊滅」「大船渡市と釜石市、宮古市なども大きな被害を受けています」と繰り返される。
「壊滅❓」
義兄に「本当かな」と尋ねると「そこがどうもよく分からない」という。壊滅というのは文字通り徹底的に破壊され滅亡するという意味である。陸前高田市の松原海岸には大きな防波堤がある。私は今から三十年前に直子と三歳の長男を連れて松原海岸で海水浴をしたことがある。だから、防波堤の高さと頑丈さをこの目で見ている。あの防波堤を超えて津波が市街地を破壊したとは、信じられないのだ。手入れの行き届いた七万本の美しい松も消えてしまったというのか…。
「孝くん、小屋の方が暖かいから、そっちで休んだら」と義姉が言った。「うんだ、それがいべ」義兄が頷いた。「あ、そうか。小屋があるんだったっけ。それは助かるな」と私はホッとした。造園業を営む親戚の家には大きな裏小屋がある。母屋の勝手口からドア一つ隔てた裏小屋に入ると、薪ストーブに火が入っていた。ストーブを囲む長椅子に座ると下肢から腰、胸へと温かさが上ってくる。身体が温かくなり、ようやく元気が出てきた。
小屋の戸を開けて外を見ると、盛岡の西南にある南昌山の上空を自衛隊のものと思われるヘリコプターが飛んでいた。小屋の上空を数機の航空機が北上して行った。岩手山の麓にある陸上自衛隊岩手駐屯地に向かって飛んでいる様だ。
大きく湾曲している収斂部の大船渡市の町の様子が目に浮かぶ。湾口防波堤に守られた釜石市の町並み。あまり高さのない防波堤のすぐ傍に広がる宮古市の町と知人で親しい開業医の小児科医院の建物。先生はどうなっているのだろうか。二百メートルの断崖を背にして田野畑村の漁港近くで歯科医院を営む三十年来の親しい歯科医師のことが心配で、胸が締め付けられるように痛い。どうか、生きていてくれればいいが…。
午後五時になって、ようやく妻や息子と携帯電話が繋がった。妻は「都内をタクシーで走っている最中だったのよ。息子と孫、嫁も無事ですから安心してください」という。固定電話と携帯電話の両方で連絡を取ろうとしたが何度かけても混線中で繋がらなかった。「えらく心配していたのよ」と言った。山形市に住んでいる娘夫婦と孫も無事だという。
「お父さん。テレビ見ているか。こっちのテレビは岩手県と宮城県の様子を映しているよ。仙台空港が津波に飲まれているし陸前高田市も津波で流された。福島第一原発の一号機でドーンと爆発音がして、白煙が上がったってよ。日本沈没だよ、これはッ❗」
電話口に出た息子が悲痛な声を上げた。東京の方が被害状況を俯瞰して知ることができる様だ。
「こっちは、電気が点かないからテレビを見られないんだ。断水もしているし…」と言いながら私は、食い違った状況に置かれている東京と岩手の時間と空間を認識の中で実感した。
甥の四郎が、「ここがあるから助かるよ。こんな時は米とストーブがあれば何とかなるよ」と言いながら、棚から落ちて壊れた物を一生懸命に小屋へ運んでいる。「会ったらまた話そうな」電話を切った。
大きな鍋の湯がストーブの上で煮えたぎっていた。蓋を上げて覗くと、鍋の底に黒くなった松葉が溜まっていた。松の葉が、鍋にどうして❓と疑問に思って聞くと「自家水道も電気が無いと汲み上げられないのさ。それで家の北側に残っている雪を運んできて、鍋で沸かして茶碗洗いに使っているんですよ」と、義姉が小屋に入って来て苦笑した。松の葉の精油成分には殺菌作用があるらしい。
「飲み水は、どうしているんですか❓」
「向かいのお婆ちゃんの家から頂いているんですよ」
向かいのお婆ちゃんの家では釣瓶桶で水を汲み上げているという。一人で暮らしているお婆ちゃんは義姉の家に一時避難をしたようだ。
「孝くん。今日は泊まっていった方がいいべ。停電しとるんじゃ暖房できないからね」と義姉が言い、「うんだ。それがいべ」と義兄も頷いた。
自宅を出る時は、水道水がちょろちょろと出てはいた。
「でも、泊まる準備をして来なかったし一旦帰ります」と答えた。衣類の事はともかく、私の場合は就眠時の眠剤がないと不安なのである。早めの夕食を頂いた後、国道を北上した。ガソリンはまだ二十リットル残っている。
帰途、今朝から安否確認が取れていない一人暮らしの知人の家に寄ると、門扉が少し開いていた。私が以前に勤めていた医師団体の縁でお世話になった方である。
「伊藤さんへ電話をかけても繋がらなかったわ。仏壇の薬師如来像が落ちた程度だけど、電気と水が止まると、もう駄目。反射式のストーブがあるから助かるけど‥猫がいるから寂しくない」と相手がホッとしたように言った。
「やぁ、昨日から心配していました。良かった、無事で」私もホッとした。
「伊藤さん。革新党に頑張ってもらわないと困るわよ。自衛隊を大きくして災害救援をしないと駄目ね」
「奥さん。戦車や大砲を持たない防災隊は必要ですよ」私は苦笑しながら答えた。「わざわざ来ていただいて有難う」「また来るから」と約束し、辞去して義妹の家へ向かった。
義妹の家は頑丈な作りであるから建物の被害は全くなく、夫と長男も無事だ。
「携帯用のラジオとペットボトルをやろうか」と言って、義妹が透明な水の入ったペットボトルを差し出した。手にした瞬間、一ダースの飲料水が自宅の押入れにあるのを思い出した。昨年の秋に何かの際に役立つと考えて妻が買っておいたものである。「水は大丈夫だな。ラジオの方は借ります」私は、掌サイズのラジオを受け取った。
バイパスを走行する車の台数は少なかった。信号機は止まったままで家々の明かりはなく、ホテルの照明も消えていた。普段は色鮮やかに彩っているネオンサインなども無い。はしゃいだギャルの姿もコンビニエンスストアに屯する若者の姿も無い。不織布を広げた様なネイビーブルーの空に、北極星を挟んで北斗七星とカシオペア座が貼り付き、瞬きもせず地上を見下ろしていた。自分の事と目先の事だけを考えて生きていればいい昨日までの現実が、わずか一日の間に跡形もなく無くなっている。目の前にある虚飾を剥ぎ取られた素っ裸な心が震えていた。

自宅へ戻っても、停電で電気は点かない。真っ暗で酷く寒い‥。食卓の上に立てた蝋燭に日を灯し、押入れから飲料水入りのペットボトルを運んできてコップに注いだ。美味い水である。よし、これで明日の料理が作れるぞ、と思った。風呂の水をヤカンに汲んだ。お湯で湯たんぽを用意するためである。四個用意して早々と寝床へ入った。
それにしても今回の地震被害はどこまで拡大しているのか❓福島原子力発電所で発生した事故は今後どうなるのか❓避難区域を半径二十キロ圏内に拡大する程度で済むのだろうか❓枕元で、義妹から借りた携帯用ラジオを聞きながら、その凄まじさに身が震えた。寒さと心配で身体中が強張り、呼吸が苦しくなりだした。眠り薬が浸透せず、頭だけが半分覚醒していた。半覚醒の意識の中で、二ヵ月前の体験が蘇っていた。
肺炎と診断され、救急救命室で三日間治療した。一般病棟へ移り数日経った。一月七日の午前九時過ぎ、看護師が病室にやって来た。豊満なその看護師が、向かいのベッドにいる患者に声をかけた。何やら患者は、幹細胞の移植手術を数日後に控えているようだった。
「やぁ、大変でしたよ。年末に岩泉町の実家に帰省して一月二日に戻る予定でしたが、あの猛吹雪で実家が停電したんです。それで一旦、三陸沿岸に出てから南下して電車を乗り継いだんです」
会話を聞きながら、『そんなに降ったのか』と年末から一月六日までの間、意識朦朧で過ごしていた私は驚いた。
「私も大晦日に一戸町の実家に帰ったんですが、明かりが灯っている家は二軒だけでした。自家発電装置がある家なら良かったんですけれど、私の実家はそれが無いから薪を燃やして暖を取りました。煙が物凄くて」と看護師が応じた。
『そんなに不便な所に家があるんだ‥』待てよ、私の産まれた奥州市江刺区の村も豪雪で真っ暗だったのかも知れないと思った。嶮峻な山に百八十度囲まれた扇状地の要の部分にある生家は、多い時で二メートルの積雪に見舞われる。生家の裏には小川が流れている。二月中旬頃には、馬小屋の土台石の周辺にミソサザイがペアで飛んでくる。黒褐色の体に縞模様のあるミソサザイは、羽を広げて約七センチ程の大きさで、夏季、ホウセンカの蜜を吸いにくる蜂鳥位の鳥である。ミソサザイが現れると両親は、
「そろそろ田畑へ肥やしをやらねばなんねぇな。それに、小さいのに勇敢で【鳥の王】って言われてるんだから、大したもんだぁ」と言ったものだった。
「母ちゃん。勇敢だって、どうしてなの❓」
あんな落ち着かない動きをする鳥がなぜ鳥の王で勇敢なのか分からなかった。
「外国でもそうらしいだが、この辺りの昔がらの言い伝えじゃと村を襲う熊とか、畑を荒す猪と闘っでな、耳の中に入って倒したそうじゃ。丸腰の人間が倒せん獣を小さな鳥がやっつけたど。お前も成人になっだらミソサザイみたいな勇敢な男になればいいべ」
母は、何かを考えているかの様に遠くを見つめながら言い含めた。
「ああ、僕も悪い奴はヤってつけてやるよ」
小さな鳥に負けてたまるものか、と思った。そんな事を思い出しているうちに、故郷に帰ってホップ栽培で生計を立てている幼馴染みと会いたい気持ちが強くなり、肺炎を克服する気力が湧き出した。妻の看病や子供達、兄弟達や友人達の励まし
や激励もさる事ながら、医療スタッフ達の努力が功を奏し、私は二月初旬に退院をした。

チチッ、チチッ、チリリッ、チリリッという鳥の啼き声で目が覚めた。携帯用ラジオで地震の被害状況を聞くと死者・届け出のあった行方不明者は千九百人に増えている。
朝食を済ませた後、妻に頼まれていた町内会の班長宅文書を配布した。ついでに赤旗日曜版を五部配って自宅に戻った。背中に冷たい汗が流れた。息切れもする。マスクをしているから余計に呼吸が苦しい。改めて紫波町の親戚宅へ避難する身支度をしてから、何かに急かされる様に、車へ着替えとジュース、バナナと菓子等を積み込んだ。
市道に出ると、団子屋が店を開けていた。電気が点いている。復旧したのだろうか。それなら紫波町へ避難する事もないな、と考えて店の駐車場に車を止めた。
「御免下さい。電気が復旧したんですか❓」と店員に尋ねると、店には自家発電装置があり水等は余分に貯めてあるのだと応えた。
「そうですか。じゃあ、ゴマ団子でも頂こうかな」保険代理店の発送作業を手伝ってくれている親子の家に挨拶をしていこうと考えた。
団子屋からバイパスに向かう途中、寒風の中、高松小学校の校門付近に長蛇の列ができていた。盛岡市の給水車から飲み水を貰うためだろう。疲れ果てて暗い表情をした住民が皆、ポリタンクを手にしながら並んでいる。県営野球場の脇を通ってバイパスに出ようとしたが、信号機が作動していないため車の流れが悪い。”これは駄目だ”迂回しようと思って今来た道を引き返した。バイパスに出ると、上り二車線のうち一本は給油を求める乗用車で渋滞していた。渋滞に乗ってノロノロ進んでいると、後方からけたたましくサイレンを鳴らした救急車とパトカー、更にオリーブドラブ色の自衛隊車両が通り過ぎて行った。
普段の二倍もの時間をかけて親子の家へ着いた。親子の話によると、断水で地下水が汲み上げられない。停電だから水の汲み上げポンプが動かない。ペットボトルの飲料水があるから二、三日位は何とかなる。テレビはお金が無くて地デジ対応していないからラジオで震災情報は聞いている、との事だった。
親子の家を辞して、カーラジオから報道される震災情報を聞きながらバイパスに出ようとしたが、丘の上から見渡すバイパスは殆ど身動き出来ないほど渋滞していた。宮古方面に通じる道を逆から走って市の中心部に出た。盛岡駅の西口を通り、流通センターから紫波町へ向かう事にした。大通りの店は全てシャッターが閉じられ、交差点の所々に警察官が立ち交通整理をしていた。信号機の作動している交差点が幾つかあった。路線バスは見当たらず盛岡駅付近の電気は消え、マリオスとアイーナも全館照明が消えていた。
ようやく、紫波町の義姉の家に到着したのが午後一時過ぎであった。義姉の携帯電話を借りて東京にいる直子と息子達の携帯にかけた。「接続出来ません」というメッセージが返ってきた。
電話を諦め、小屋に入り薪ストーブで暖を取った。薪を焚べていると、姪の夫がやって来た。
「車の電気を使って携帯電話に充電してあげますよ」
早速、義兄が頼んでくれたようだ。彼は、車のシガーソケットに充電器を差し込み「NTTは、90%も通信をカットしている様ですよ」と言った。
午後五時、充電が完了した携帯電話を使って改めて電話をかけたが、やはり繋がらなかった。息子の自宅の方へかけたら繋がった。
「お父さん。お母さんが心配しているよ。電話くらいかけれるでしょ❗」
息子は非難めいた口調だ。
直子が電話口に出て、東京の様子を話してくれた。東京は電気が点くし、テレビも視聴できる。けれど、東北新幹線は運休していて、花巻空港行きは災害救援機以外の利用はできないという。今日は孫と一緒に公園へ散歩しに行ってきた。見通しが立つまで戻れそうになく保育園の仕事も休まなくてはならないという事だった。
盛岡は新聞も止まり詳しい状況が分からない。停電は続いているし断水もしているから義姉の家に避難させてもらっていると状況を伝えた。
「福島原発が大事故を起こしている事はラジオで聞いたが、テレビが見れないからリアルには掴めないんだ」と続けたが、話し中に携帯電話の通信が途絶えた。
午後六時四十五分に電気が復旧した。甥の四郎がテレビを運んできてケーブルを繋いだ。地デジ移行に対応して買ったばかりのハイビジョンが地震で壊れてしまったので、四郎は倉庫にしまっておいたテレビを持ってきたのだ。義兄が「これで、ニュースを見れるべよ」と言った。「そうですね。三陸沿岸部が壊滅したって聞いても信じられない気もします」そう応えながら、テレビが点くのを待った。私達は息を呑みながら画面から流れる震災の様子とニュースキャスターの解説を聞いた。仙台空港が津波に飲み込まれ、気仙沼市と南三陸町、陸前高田市、釜石市、大鎚町、宮古市等をは文字通り壊滅し、あちらこちらで火災が発生していた。
海上で火災が起きているのは何故なのだろうか❓宮古市の田老地区は世界一の防波堤があった筈だが❓と疑問に思った。映像は生々しく、ラジオを聞きながら被災の状況を想像していた時とは異なり、被災者が四十万人を越え、全壊、消滅、瓦礫の山という絶望的な世界だった。
市役所や住宅や漁港が、圧しかかる様な高い波飛沫に飲まれ揉み砕かれていく。波間の乗用車が軽々と沖合に運ばれていく。建物の屋根に残された僅かな生存者の姿や高台から啞然とした表情で見守る住民。爆発して白煙を上げる福島第一原発…。
地震と津波、その上に原発事故とは…❗何たることだ。高度に発達した資本主義国日本の安全性とは、こんな程度だったのか❓近代的な装備の原子力発電所がマグニチュード9・0、震度7の激震、そして巨大津波の前にいとも簡単に崩れ去った。3号機でも爆発する可能性があるというし、外部電源も供給出来ないという。にわかには信じられない。旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の教訓から、日本でも原発事故の危険性はあると思ってはいたが、地震と津波の二つ同時に襲われ現実のものになろうとは予想もしていなかった。
茨城と東京、埼玉の兄と家族は無事だったろうか‥。原発の炉心溶融で放射性物質が飛散するかも知れない。そうなれば東京の息子と嫁や孫達を何処へ避難させればいいか。仙台空港近くに住んでいる友人は助かっただろうか‥。甥や姪は❓大船渡市で夫に先立たれ一人暮らしをしている幼馴染みの節子は大丈夫だろうか❓
私は彼女と地震が起きる前日、電話をしたばかりだった。
「孝くんよ。リュウマチが酷くて、風邪をひいても医者に診てもらいに行けない」
「節っちゃんさ、タクシーを呼んで行くんだ。お彼岸には江刺市で会うべしよ」
「そんなら踏ん張ってみっか」
そう約束したばかりであった。
義兄が、盛岡の友人宅に電話をかけて緑が丘の電気が復旧しているか聞いてくれた。
「一応、電気は復旧したと言ってた。断水は聞かなかったが、明日帰ってみて駄目だったら、またここに避難すればいいべさ」
義姉が居間へ布団を敷き、家の北側に残った雪を鍋で溶かして湯たんぽを用意してくれた。お礼を言い、四十畳もある広い居間で私は、羽のように軽い布団の中でぐっすりと眠った。普段なら夜中に三、四回トイレへ立つのだが、一回も目を覚まさなかった。明け方に庭の隅からミソサザイのものと思われる二つの啼き声が聴こえた気がした。


                   【完】


















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