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G・J・チェスタトンが苦手 (1228文字)

 「苦手」というと、今は「嫌いという感情をソフトに表現している言葉」と思われそうですが、この場合は、①好き、②普通、③嫌い、と分けた場合に「②普通」に該当するというだけです。

 で、私はミステリ好きですが、ただG.J.チェスタトンが苦手です(好みとしては普通のレベルです。)。
 たまたま手元にあった『ミステリが読みたい! 2010年版』(株式会社早川書房)の「海外ミステリ オールタイム・ベスト100 for ビギナーズ」では『ブラウン神父の童心』が第3位に入るなど、チェスタトンはいまだに人気のある作家です。
 なのに、私にはチェスタトンのミステリ作品がピンときません。チェスタトンの作風として「逆説」(真理に反対しているようであるが、よく吟味すれば真理である説。)というのが取り上げられます。しかし、作品中からの「逆説」を見出だし、その真理性を解釈するというのは脳の作業として過剰に感じます(わたしにとって、ですが。)。

 だいたいミステリを読むのは、ミステリマニアの人は「時間さえあれば読む」のでしょうが、私の場合は娯楽の一つとして読むので「できるだけ楽しめるように読みたい。」と思っています。そして逆説の解釈は、私にとって「楽しくない。」のです。

 私のミステリ歴は、アルセーヌ・ルパンの『黄金三角』(『金三角』)にはじまります。少し遅れて世界文学全集のシャーロック・ホームズの『赤毛連盟』や『オレンジの種5つ』等を読みました。
 つまり、私はミステリの初期の段階で、ミステリの王道といえる作品をほぼ同時に読んでいたわけです。そして、それが私の基本になりました。そうなると、王道以外のものは「余程のことがなければ受け入れるのが困難」です。
 その余程のことの例としては、倒叙式ミステリのソーンダース博士のシリーズ、ドラマでは『刑事コロンボ』とか『古畑任三郎』があります。
 これらは、倒叙式だから面白いのではなく、作品として優れているのと、あんまり考えなくいいからです。そもそも最初に犯人が登場するし、犯行手順も示してくれます。つまり、犯行の全貌が示されます。
 そして、探偵役が登場して犯人を指摘する際にその理由を述べますが、それは私たちが知っている犯行手順の中に潜んでいることなので、意外ということはあっても深く考えることはありません。

 王道と言われるミステリだって、そもそも私は本気で犯人当てをしようと思わないので、読み進むことに負担を感じることはありません。私は「ミステリはゲームじゃない。」と思っています。

 でもチェスタトンを読む場合は、作品内の逆説を解釈するというか吟味する前提としてまず逆説となる部分を見つけださなければなりません。それが負担です。
 また、見つけたら見つけたで、その逆説部分が真理であるということを考えつかなければなりません。

 こういう作業って、本当に負担です。

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 #逆説 #G.J.チェスタトン

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