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『ジキルとハイド』二重人格か薬物依存か (1636文字)

 『ジキルとハイド』(ロバート・L・スティーヴンソン著 田口敏樹訳 新潮文庫)は有名な怪奇小説で、人間を構成する善と悪との葛藤(「かっとう」もつれ。いざこざ。)を描いています。

 ジキルは高名な紳士でこの物語の善人役、対するハイドは不愉快な感じの男で多くの犯罪を犯すこの物語の悪人役です。この小説は弁護士のアタスンが主たる語り手ですが、ジキルの告白書により終わります。

 この小説を読むと、誰もが自分の中にある野獣のような凶暴性を省みることでしょう。怒りに任せて物を破壊する。飲酒により理性が緩み、その結果やらかした失敗など。思い出したくない過去の記憶が甦る人もいると思います。

 私も、自分の中にそういう部分があることを認めないわけにはいきません。しかも、「正義は我にあり」という状況だと他人を追い詰める勢いに歯止めが効かなくなりがちです。

 でも、私の知る限り人間の脳は、進化の過程で古い脳に新しい脳がつけ加わるというプロセスで巨大化しているのであって、古い脳が変質して新しい脳になるというわけではないはずです。つまり、人間がたまに狂暴になるのは、原始的な脳の機能が大きく影響した結果なのであって、脳全体が野生にかえっているわけではないことになります。
 ということは、人間の脳には社会的な理性をもって自己を制御する領域(以下「理性の部分」といいます。)と、非社会的で野蛮な行為を行う領域(以下「野生の部分」といいます。)とが併存していて、普段は前者の機能が支配的であるがゆえに人間は巨大な集団(社会や国家)を形成し維持できているというように考えられます。

 ここで、ハイドの存在はジキルの脳の野生の部分の具現化ということができるのかという疑問が生じます。
 ジキルは自ら発明した薬剤の力でハイドに変身し、薬効がなくなるとハイドはジキルに戻るというこの小説の設定は上記の理性の部分の機能を一時停止しているのだと説明することが可能です。

 しかしそうすると、ハイドが多少なりとも文明人的な行動をしていることを説明できません。ハイドは衣服を着用していますし、ドアを開けて室内に入る方法を知っています。また、カネを払うということもしているので、貨幣の存在も使用方法も熟知しています。

 つまり、ハイドには野生の部分と理性の部分が併存しており、ただ理性の部分が野生の部分よりかなり弱く機能しているに過ぎないのだということになります。

 「薬剤により凶暴化するが、自動車を運転したり拳銃を発砲する程度には理性がある。」これって、薬物依存者が犯罪を犯す状況によく見られることに思われます。
 この小説では、ジキルが発明した薬剤には依存性があることが徐々に分かってきます。また、その薬剤の禁断症状が現れ、さらには薬剤を使用しなくても理性の部分が野生の部分を制御できなくなることにジキルは苦悩しはじめます。

 これって、少し誇張してはいますが現代の麻薬中毒者を描いているのかと思われます。
 この小説のには19世紀後期を思わせる描写がありますが、この時期ってシャーロック・ホームズが阿片(アヘン)を使用していたように、麻薬は違法薬物ではありませんでした。でも、ロンドンにも阿片窟(阿片を吸煙させる秘密の場所)多くがあったので、阿片で人生を持ち崩した人が多くいたはずです。

 ただ、ハイドに変身することにより外見が大きく変わるところが麻薬中毒と異なりますが、麻薬も長期間摂取すると体重減少や皮膚の劣化など別人のように外見が変わるといいますから、ジキル発明の薬剤と麻薬とを区別する決定的な要素ではなさそうです。

 『ジキルとハイド』は人間の二重人格性を描いているのだと思いますが、私には薬物依存の恐ろしさを描いているようにも思えます。
(覚醒剤の発明も19世紀末頃らしいですが、当初は薬として使用されていたため、麻薬と同類だとは認識されていなかったのでしょう。)

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 #ジキルとハイド

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