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難行の読書

 今年の夏は暑かった。冷房が嫌いなのだが、さすがに毎日毎夜、クーラーを点け放しにしないと凌げない日が続き、冷房の効いた部屋に閉じこもることになった。

 そんな夏なので、長編小説を3冊読むことにした。選んだのは、ドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、トーマス・マンの「魔の山」、そしてジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」。難解であることが条件で、相当厳選したつもりだ。

 かなり物好きと自覚したが、いずれも高校生の時に「読んだはず」の小説でもある。高校生で、果たしてどこまで理解できたのか大いに疑問だが、時を隔てた再読でも、どこまで「理解」が進んだかも疑わしい。ただ、多感な高校生だからこそ「理解」できた部分があったかも知れない。

 これは、読書感想文でも解説でもないし、おススメでもない。こういう本を、今更読み直すことについての、やや斜め方向からの感想である。

 ただ、無駄ではなかったと思っているのは、負け惜しみではない。「いいね!」に始まり、SNSの短いメッセージ、昨今はもっぱらAI文書の横行で、じっと本と向き合う機会が減っている世情にあらがう気持ちもある。

 暑苦しい時でも、暑苦しい本を手に取って、暑苦しい議論に身をひたすことも、時には重要なのだ。

キリスト教(特にロシア正教)の理解

原卓也訳「カラマーゾフの兄弟」

 主人公の一人、アリョーシャを中心にした「神」をめぐる議論は、最も厄介な部分で、キリスト教徒でない身には、果てしなく続く他の登場人物との「問答」は、大きな負担だった。

 西欧の文化を知るにはキリスト教理解が欠かせないとは長年つくづく思ってきた。特にこの2年あまり、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのパレスチナ侵攻、ミャンマーの圧政の影響も長い影を落としている。キリスト教、イスラム教、さらに最近は仏教関係の本にも手を出すようになっているが、宗教を外から理解するのは難しい。

 ただ、今回の再読で、少なくともアリョーシャが長兄のドミトリーや次兄のイワンと交わす問答部分は、「抵抗無く」読み進むことができた。高校生の頃には到底理解できなかった部分だろう。人生も長くなり、年の功が効いたのかも知れない。

未完の「青年小説」?

高橋義孝訳「魔の山」

 これには、ちょっと参った。主人公のハンス・カストルプを軸に展開する問答が冗長で、人物も鼻持ちならず、途中で何度も放り出しそうになった。「雪」の部分がクライマックスと思い込んでいたが、遭難死するのかと思いきや生還して、都合7年間、国際サナトリウムに居続けることになる。最後に「下山」して兵役に就くクライマックスまで読み終えると、不思議な充足感が湧いてきた。未完の小説らしいが、潮時だろう。

丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳「ユリシーズ」

「意識の流れ」?

 難解で有名な、「翻訳家泣かせ」のいわくつき小説。第一巻だけでも本文450ページに158ページ449の訳注が付く。こんなの小説としてあるまじき、作者の横暴だ。それでも、何とか第1巻は読み終えた。

 主人公がダブリンの街を歩きながら「目にし耳にし鼻にする」、五感で掴む情景を、内面的に、連続的に結び合わせて描写していく方法は、妙に新鮮で、織り込まれた風刺や警句が短く鋭い。時間と空間の流れが意識の流れと一致して、テンポ良く進む。ここは好きだ。

 第2巻から怪しくなる。最難関は、国立図書館で展開される「ハムレット論」は、シェークスピア研究者でもなければ、その言い回しは到底理解できない。訳注とひっきりなしに睨めっこしないと到底読み進めないし、シェークスピアの作品を全部読んでいないと大きなハンデになる。

 「現代文学の最高峰」とは言われているが、うーむ、文学関係者の独りよがりにも思えてしまう側面もある。

 高校生の時は、さっぱり分からない小説だったが、「ハムレット論」を除けば、通読はできそうな小説だ。「じゃあ何?("So what")」と問われると、実は苦しい。「世界文学の最高峰と言われる作品の一つ」としておく。ハムレットで挫折し、まだ2巻目の途中である。また読み進めようと、自らを励ますために投稿する。

秋は日本版?

 こうなったら、秋の読書は、日本版で行こうか? 今選んでいるのは、北杜夫の「楡家の人々」、夏目漱石の「三四郎」か森鴎外の「青年」、3冊目は、埴谷雄高の「死霊」。「死霊」は絶版で、目の飛び出る値段でしか手に入らない。読書に向いていない時代になった。

(了)


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