炎舞、そして消し炭[後編]
中学、最後の夏の駅伝練習が始まった。顧問の交代があり、練習もガラリと変わり、「この顧問、無知じゃなかろうか?」と思うことがあったが、私たちの代は結束が固かった。各々に合ったポイントを練習で抑え、皆マイペースで実力をつけて行った。サボる時はサボり、スイッチ入れる時は入れる。私は距離に対応することより、スピードの強化にひたすら取り組んだ。その一環で、スポーツ推薦での進学が内定していた高校の合宿に参加し、ひたすら山道のアップダウン走で脚力をひたすら鍛えた。「勝負所で的確に相手を刺せるランナーになる」ことを念頭に。
この夏で下り坂が大幅にスキルアップし、その後の中学の合宿の坂道15キロ走でチーム7番手の私が4番手と6番手に勝つという下剋上を成し遂げた。
しかし、継続力がなくムラが激しい私は、練習での浮き沈みが激しく最後の夏明けの市内駅伝もAチームの6人に入り損ねてしまった。Bチームの仲間は、私がAに入れず通学路の自販機の前で泣いてたのを知ってか、「好きな区間走れよ。Aチーム食ってこい。」と言ってくれた。すごく嬉しかった。
市内のBチームの中では必ずトップ3に入る。足ぶっ壊してでもチームを勝たせる。Bチームでここまで闘争心を燃やしていたのは私くらいだろう。Aに比べて競り合いの度合いが強かったBチームは、Aの奴らを食うには格好の狩場だった。
結果はなんと、Aチーム2人に勝ち、再び顧問の評価を勝ち取ることができた。Bの仲間には今でも頭上がらない。
が、人間は学習しない生き物。その後の1ヶ月もムラの多い練習をしてしまい、1番走りたかった切込隊長の2区を後輩に奪われ、モブ区間の「繋ぎの」5区になってしまった。
けど、決まった区間は決まった区間。割り切ってやるしかない。そう覚悟を決め、当日を迎えた。
レース中のことは、文に書き表せないくらいに全身の血が滾り、覚醒していた。今でも鮮明に覚えている。あんなに「走るのが楽しい」と感じたのはキャリア8年を通して後にも先にも無かった。
結果は、自己ベストを20秒上回るタイムで走り、順位も私の区間で15位から入賞圏内の8位に押し上げることに成功した。また、唯一首位のチームに対して差を詰めた区間になった。チームも入賞圏内を最後まで死守し、無事7位入賞を成し遂げた。
チームMVPとも呼び声高いと自画自賛したい結果。自分のことを手放しで褒めるのは、これが最後だったかな。
小学校で陸上を始めた時から、夢見ていた地区駅伝の入賞。勝利の美酒に酔いしれた私は、その後のキャリアのことが一瞬にしてどうでも良くなってしまった。モチベーションの消失っていきなり訪れるものなんですね。
その後のキャリアは語る価値もない。数字に残るものは皆無。
今でも、当時のメダルや賞状を見ると追憶する。
ガキの頃から見知った最高の仲間と走った、3年間。忘れられない歓喜の輪。
高校も3年間走ったが、私のキャリアは確実にこの時に終わった。
拙い文章になったが、これが強豪校のモブランナーが、体験したモチベーションの大火災と一瞬での鎮火である。
読んでくれた皆様、ありがとうございます。
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