見出し画像

巨大なハムスターとおまえさん

新年を迎え、初詣に行く。
友人の死を弔うため、葬儀に参列する。
キリストの生誕を祝わずとも、クリスマスを祝う。
「神様、仏様」と周りと足並みを揃え、口にする。

特に、最愛の息子を授かってからというもの、日本におけるカオティックな文化的側面を体感することが多くなった。
別に私は、日本文化における宗教の複雑性に物申したいわけではないのだ。ただ、その文化的行事における信仰対象が、私にとってはハムスターよりも遥かに小さいという事実を無視できないのである。

幼少期、私は毎日、いや毎時間、自身の平穏が瞬く間にして崩れ去る恐怖と隣接していた。(幸いにも家庭を持ち、不自由ない幸福を感じられる日々の中にいる私にとって、今更過去の危機を掘り起こそうという気にはならないのだが。)
当たり前の一日を過ごせようとも、嵐の中を裸で耐えるような一日であったとしても、一連の宗教的儀式を行わなければ、私は決して眠りにつくことは出来なかった。

掛け布団を口元まで被り、そっと目を閉じ、仰向き横たわったその上で両手を組む。
「今日も一日、何事もなく一日を過ごさせてくれて、本当にありがとうございます。明日も無事、一日を過ごすことが出来るように、よろしくお願いします。」
すでにこの世を去っていた、ペットのハムスターおまえさん(アゲハチョウの幼虫)に対して、御礼と願い、そして自身の抱負などを伝える。
この挨拶から始まる30分以上に渡る祈りを、物心がついた頃から思春期の終末まで、決して欠かすことは出来なかった。

そこには宗教的な礼節も無ければ、弔意も法要ももちろん無かった。
しかし、当時の私にとって、ハムスターおまえさんの存在は、世界中のいかなる神仏よりも大きく、不細工なルーティンはいかなる宗教的儀式よりも神聖であった。

時間は流れ、当時の私と同じ年頃の子どもを持つようになった今でも、
依然としてハムスターは巨大なままであり、おまえさんは壮大なままである。
どれだけ立派な仏像も、どれだけ美しい十字架も、私の眼前においてはその輝きを失うのだ。

果たしてこの先、神仏は本来の尊厳を取り戻し、宗教的行事が精神的意味を持ちうることがあるのだろうか…

そんな思索にふけりながらも、巨大なハムスターおまえさんとともに、いつか向かうことになる彼岸は、私だけの世界であることを確信しているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?