見出し画像

読書メモ「訂正する力」

表記本を読んだので感想を記載します。

東浩紀さんの訂正する力を読みました。物事を前に進めるために、現在と過去を繋ぎ直す力を訂正の力と呼び、今の日本で必要な力だと説かれています。議論やリーダーシップの際にぶれない事が求められたり、また正しいものに作り直すことが求められるような、二元論ではなく、過去を再解釈する訂正する力が重要だと話されています。よくわかる・・・。

気になったポイント

空気が支配している国だからこそ、いつのまにかその空気が変わっているように状況をつくっていくことが大事になる。

第1章 なぜ「訂正する力」は必要かより

⇒『いつの間にかその空気が変わっている状況』というのはまさにそうだなと思いました。最近気になっている物語やストーリーの力もとても重要だと感じました。

みなが声を上げるのはいいですが、それがだれにでも拍手され歓迎されるようになってしまっては、むしろ訂正する力が機能しなくなります。本当に大事なのは、自分と異なった意見をもつ人間を、すぐに理解し包摂しようとするのではなく、理解できないまま「放置」するある種の距離感なのです。その点でいまの日本社会は、まるで小学校の教室のように幼稚な空間になっています。

第1章 なぜ「訂正する力」は必要かより

⇒自分と異なった意見をもつ人間を、理解できないまま「放置」するある種の距離感が大事とのことです。この事は放置というキーワードですが、対話とも呼び変えられる内容だと感じています。

訂正する力は、過去を記憶し、訂正するために謝罪する力です。

第1章 なぜ「訂正する力」は必要かより

⇒訂正する力には過去を記憶する力が重要とありました。知識や本読んでおくのも大事だなーと感じました。

子どもが集まっている。だれかが走り出す。いつのまにか鬼ごっこが始まっている。と思ったらかくれんぼになっている。と思ったらまたルールが変わってケイドロになり、いつのまにか新しい子どもも交ざっている……。こういうのはよく見られる光景です。そこではあきらかに遊びの内容が変わっています。でも子どもはだれもが変わったと感じていない。ずっと同じ遊びをしていると思っている。ウィトゲンシュタインはそういう状況こそをゲームの基本だと考えたわけです。

第2章 「じつは・・・・だった」のダイナミズム

子供の遊びが知らないにうちに色々変わっていくことをゲームの基本としていて、この実は変わっていた感が大事だと説かれています。

むしろ大事なのは、「ああ、このひとはこういうひとだったのか」「この話題はこんなにおもしろかったのか」という意外性の発見です。そういう事例を数多く見ていると、ひとはどうも、「じつは……だった」という発見、つまり定義の訂正そのものに強い快楽を感じているのではないか、という仮説が出てきます。

第2章 「じつは・・・・だった」のダイナミズム

また。「じつは・・・・だった」についてこれからはその人の作家性が重要では?という事が解かれています。作家性について、「じつは・・・・だった」の発見がその人の魅力として伝わる事も書いてあって、一元的な話だけでなく、その人を違う角度から見た際の面白さが作家性として重要というのは面白いと思いました。

大事なのは、ひとが理解しあう空間をつくることではなく、むしろ「おまえはおれを理解していない」と永遠に言いあう空間をつくることなのです。

第3章 親密な公共圏をつくる

上でもあった理解できないことによる対話の空間の話について説かれています。この記載だけだと攻撃的な空間にも捉えられますが、優しい空間という理解をしています。また、この後で祭りの空間の大事さも言われていて、対話と祭りの関係性について考えました。

過去を変えたのに変えたと思わせない力。ルールを変えたのに同じゲームが続いていると思わせる力。政治が続いているのに、消えたと思わせる力。それはつまり、作為があるのに自然のままだと思わせる力のことです。平和は訂正する力によってつくられるのです。

第4章 「喧噪のある国」をとりもどす

4章では近年の政治の話と訂正の力の重要性を話しています。個人的な理解ですが、わかりあえなさの中に橋を架ける対話というのが訂正の力の重要なポイントと感じました。また訂正の力自体を延ばす時にはそういった人への理解と物語りを作る能力が大事だと改めて感じました。

感想

普段あまり読まないジャンルの本ですが、想いの他面白かったのと、昔の思想家の本を読みたくなりました。訂正の力を発揮する上では過去を知ることは大事だと感じています。ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?