身体って何?
松井です。
人は、当たり前すぎる事は盲点になります。
余りにもその構造のなかにいると当たり前過ぎて見過ごし
てしまうものですね。
この動画を見れば実感できるかもしれませんが、人はなにかにフォーカスしているといろんな物を見過ごします。
白いチームがボールを何回パスしたか数えてください【絶対に間違えないで】
→ https://www.youtube.com/watch?v=UYBLVPI2eQ8
そして、そのフォーカスが長期間継続されると、本当に見えなくなってしまいます。
今日は、そんな風についつい見過ごしてしまいがちな「当たり前なこと」についてお話します。
突然ですが、質問です。
「身体って何でできていますか?」
あなたはどう答えるでしょうか?
単純なお話で、
「食べたものでできています」
つまり、あなたの身体は昨日食べたお米や野菜の細胞そのものでできています。
では、、、
「身体って誰のものですか?」
と言われるとどうでしょう?
多くの人が、
「私の物」
と感じるのではないでしょうか?
しかし、よくおく考えると身体というのは、先程も説明したとおり「いただいた生命」でできています。
要するにあなたの身体を構成する細胞は、3ヶ月前に食べたパスタや、数週間前に食べたサラダなわけです。
そして、また数カ月後にはぜーんぶ入れ替わっちゃうわけですね。
そうであるとすれば、この「私の」身体って”他の生命”の集合体であり、なにかから受け継いだ物ではないでしょうか?
【私のからだ・・・・それってホント?】
そもそも私たちはこの身体も、生命も、人生も自分では作っていませんね。
身体はご両親の夜の営みでできていますし、そのご両親も食べ物でできています。
いったいどこからが「自分の」生命なのでしょうか?
お金についても同じことが言えると思っててね。
自分のお金って元々は誰かのお金でしょ?
その誰かのお金も、元々はその人にお給料を払う会社のお金であり、会社のお金はそのサービスを受けた人のお金。
つまり、身体もお金も・・・
「単に全体から一時的に預かっている物」
って言えるように本当に感じています。
山の水を受けて、自然に育ったお米でこの身体ができている。
その水は、海から、、そしてその海は私達の身体を通った山の自らできている。
他にも、微生物、土、熱、風、地域の人間、排泄物も沿う。
動物、虫、植物の亡骸を微生物が分解してできた排泄物(栄養)をまた植物が根から吸い、太陽の熱と光を使って栄養を作り出して、他の生き物に食べられる「作物」となる。
・・・
【これって誰のものなんだろう?】
全てが、全てつながっている事を考えると、そもそもこれらは誰のものだろうと思う。
土地の所有権?
いやいや、地球にとっては誰のものとかどうでもいいわけで、人間同士の取り決めに過ぎない。
つまり、私の身体が私の物っていうのも、単なる人間同士の取り決めかもしれない。
思考が生み出した、本来は存在しない境界線なのかもしれない。
国境と同じようにね。
全部が、全部つながっているなら、あなたは私で、私はあなたである。
例え、そうは思えなくてもね。
肉体で、区切られているように見えても、背景を見ていけば、親戚とかだと思うよ。
・・・
【全ての富の一部をしっかりと世話する】
したがって、私たちはあくまでも「預かっている物の管理人」でしかないんじゃないかとね。
それでも、私たちは当たり前のように「自分の身体」だと思って雑に扱っています。
当たり前のように「自分のお金」だと思って、適当な物と交換してしまいます。
不思議ですよね。
余りにも長い間、持っている(と勘違いしている)と適当に扱ったり、大事にしなくなりますね。
おもちゃも手に入れた当初はスゴく大切にするのに、数時間したらもう忘れて大切じゃなくなる。
【慣れると適当になる】
脳は新しいものに興奮するように出来ているらしく、慣れた物には反応しなくなっていうくらしい。
だから長い間、自分の元に預られている身体を雑に扱っちゃうんだろう。
けどね。
全ての富の一部を管理する能力が高まれば高まるほど、たくさんの人から管理をお願いされる。
そうして、お金、人、物、情報、場所などの資源が集まってくる。
この神社の管理してください。とか、この畑の管理してください。。とかね。
私の身体(健康状態)を管理してください。とか、私の子供を管理してください(教育)とかね。
そうやって資源があつまってくる。
上手く管理できるように自分を高めていけば、多分、いろんな人に責任を持って、管理してほしいって頼まれる。
そうした依頼がお金を含む、いろんな資源になって富になっていく。
とはいえ、、、
【富がなくても、豊かさはすでにある】
私たちは何も持たなくても「存在」という尊い価値がある。
この存在価値だけは、何にも侵されることなく「ある」のだ。
ここだけはだれも手を出せない。
絶対的な「存在」という領域。
これを忘れてしまっている人が、承認を求め、存在の許可を求めて、愛を人に与えてもらおうと足掻く。
その藻掻き足掻く姿が、痛々しく、弱々しく、またトゲトゲしいのだろう。
本当に残念だと思う。
既にあるものを忘れているだけなのにね。
ま、そうなるにはそうなるなりの履歴があったはず。
その履歴を認めて、受け入れ、引き受けると、初めて真実の価値(絶対的な安心感と豊かさ)という奪われない根源的な「(存在という)価値」に立ち返ることができる。
もう期待することはない。
今、この瞬間に100%くつろぐことができる。
そして、人にも同じように、存在というあたたかさを分かち合うことができるのだ。
そういう人間目指して、日々自我を紐解き神に明け渡していってます。
そうすれば、自然の法則がより明確に見えて、より人生が楽になるからね。
ま、そんな感じ!
面白かったらスキを押したり、コメントしたりしてな〜
ほんじゃ!また!!
松井万理
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