理由がないこともあると引き受ける
松井です。
存在欲求が欠乏して、ここにいることに他人(実は母親の)の許可や承認が必要だと思っている人は、視野が狭くなりがちです。
故に、想像力が働かず、今ここに起こったことに対しての前後関係や、並列関係、相関関係を無視しがちです。
したがって、「偶然」という物を理解することが簡単ではない。
なぜなら、今起こったこと以外が起こった可能性を想像しがたいからです。
前後関係や、時制、背景が捉えられないからね。
故に、理由もなく「たまたま」起こるということを,認めることが簡単でない。
その結果、なぜこれが起きたのかという理由をを求める。
この出来事には「何かしらの理由がある」と思い込んでしまう。
もちろん、そうだろう。
でもそんなの認識できない。
なぜならその出来事の原因は、これまでのすべての生命の全ての営みから自然に発生したことだから。
全ては偶然。
理由なんてない。
もう少し正確に言うなら理由は途方もなくありすぎて分からない。
要するに私たちの認識に範疇を余りに遥かに超えている。(これをカオスっていうね)
だから、ほとんどのことは「たまたま」です。
もちろん好きに意味をつけて理由をつけて楽しむのはいいけど。。。
目くじら立てて、誰のせいだとか、なんのせいだとか、そういうのはいらない。
理由なんてない。
ただそうであるからそう。
原因なんて存在しない、全ては自ずから自然発生的に起こる。
無限の可能性があり、そのうちどれを私たちが選ぶかは条件次第。
ゆえに、運命は存在せず、全てはいつまでも不確定なのです(少なくとも我々にとっては)
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理由なしに「これで良い」と思えるか?
そもそもほとんどのことに理由がないなら、起こった出来事を責めても仕方がない。
これで良いと思うことにも理由はいらないし、私たちがここにいることにも理由はない。
だから何を選んでも良いとすれば、私たちは何を選ぶのか?
それを常に人生に問われている。
私たちが人生に意味を問うのではない。人生が私たちに生きる意味を問うてくるのよ。
ただ起こることを観じて、察して、応じる。
自分の中で仮説を立てて、暫定的な結論を出す。
満足いく結果でも、残念な結果でも。
そうであるものは、そうである。
そのなかで自分は何を選びたいか?
理由がないことを受け入れると、そんなふうに思えてくる。
理由がないことを受け入れると、自由になれる。
自由とは自らを由来とすること。
つまり己で、己の道を選ぶことだと思います。
理由なく「だってそうだから」と人生を選ぼう。
誰のためでもなく、全体のために…
—-
今起こっていることは、過去に起こったことの結果であり、将来にに起こることの過去。
過去を取り戻すことはできないからこそ、今の自分を認めて、今人生を選ぶしかない。
そうやって積み上がった選択が過去になり、将来の今になるのです。
ってことで、、、人生はほとんどたまたまw
そんじゃ!!また!!
松井万理
追伸:
結局、理由なんて自分が納得するための材料です。
背景なんて分からないってことを考え抜くことで納得できれば、幸福度が上がります。
控えめに見て今日、あなたがこの記事を読んでいるのは奇跡のような偶然です。
ホント、すんげー低い確率で、今は創造されている。
この奇跡の瞬間に、私たちはどう命を使うのか?何を選び、何を選ばないのか?
理由なく自由。。。
私は、天地人に尽くすためにいのちを使います。
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