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塗料メーカーで働く 第三十四話 新人研修発表

 1991年3月12日(火)午前9時に 厚生棟の講堂で 下期の新人研修発表会が開かれた。 

 150名くらいが入る講堂の壇上には 演台とマイクが用意されていて 演台の後ろに張られた大きなスクリーンには 発表用の資料が映し出された。

 資料のスクリーンへの投影は 傍聴席の最前列に置かれたオーバーヘッドプロジェクター(OHP)を用いて行われた。 

 OHPの操作は新人の教育担当者が行い 担当者は 発表後の傍聴者からの質疑応答の時に 新人をサポートする役割も担っていた。

 傍聴席の最前列の中央には 技術本部長と研究本部長が座り その周りを 各本部の部課長等が囲っていた。

 発表者には 15分間の発表時間と 5分間の質疑応答時間が割り当てられていた。

 新人研修発表会は 表向きは教育担当者の指導の下に 新人が自発的に研究を行い その成果を報告するものだった。

 一方 報告内容の良し悪しは 教育担当者の手腕にかかっていたので 教育担当者もまた 会社の幹部等から評価を受けるといった側面もあった。 

 浜崎さんの発表は3番目であり 定刻になると 川緑は 最前列へ移動しOHPの操作を受け持った。 

 やや緊張した面持ちで壇上に立った浜崎さんは 「UV硬化型樹脂の硬化性の研究について発表します。」と言った。            

 発表が始まると 浜崎さんは 落ち着いた口調でよどみなく発表を始めた。

 発表のポイントは UV露光時にUVカラーインク中の光重合開始剤に吸収される光量と インクの硬化性との関連を近似する数式を提案し 考察することだった。

 彼の研究は 川緑の考える 「UV硬化型樹脂の硬化の理論」を構築するための第一歩だった。   

 その研究は 黒体放射における温度と放出される光エネルギーとを関連付けようとした Wienの式やRayleigh-Jeansの式と同じように その後の Max Planckの式に到達するための試金石になると考えていた。

 浜崎さんは 石英板とUVカラーインクを交互に重ね合わせて インクを5層とした試験サンプルを作製し UV露光を行い 硬化したインクの硬化状態を評価する実験を説明した。  

 5層のUVカラーインクの硬化状態をゲル分率測定により求め 別途 インク中の光重合開始剤に吸収される光の量を計算により求め それらの関係を数式で示し 考察を行った。

 浜崎さんの研究の結果は 光重合開始剤に吸収される光の量の二階対数を取った時に インクの硬化の状態変化は 直線に近似されるというものだった。 

 彼の研究の結論は 求めた硬化の近似式から導かれたものだった。

 彼は 直線の傾きがインクの反応性を示し 直線の立ち上がり地点が インクの光硬化の開始に必要な光量を示し また 直線が示す硬化度が100%の点がインクの硬化が完了する点を示すものと主張した。

 実際は 光量に対するUVカラーインクの硬化性は インクの硬化度が100%付近では実測値が直線から外れる挙動を示していた。

 川緑には 硬化度の実測値が近似式から外れる挙動こそ 最も重要な点だった。

 近似式は Wienの式やRayleigh-Jeansの式 と同じように 現象の一部分の挙動を説明できるが また説明できない部分もあるということを示していて このことは インクの硬化性を議論するためには足りない要素があることを意味していた。                  

 川緑は この近似式が黒体輻射の初期の近似式がそうであったように 「UV硬化型樹脂の硬化性」の本質に迫るために必要なものとなるはずだと考えた。

 浜崎さんの発表は予定されていた時間内に終わり その後 質疑応答の時間となった。       

 最前列の吉岡研究本部長が右手を上げ「光重合開始剤の光の吸収量だが グラフを見るとLambert-Beerの法則に従っていないように見えるが?」と言った。

 この質問に対して 発表者はその意味が分からなかったようで当惑していた。 

 川緑は 「代ってお答えします。」と言い 「ここでいう光の吸収量は 波長250nmから500nmの間の積算光量です。 この波長間には吸収の強いところも弱いところもありますので・・・」 と言っている途中で 吉岡研究本部長は 左手を挙げてうなづき川緑の説明を止めた。

 川緑は本部長が彼の説明しようとした内容を理解したことが分かった。

 次に 有働技術本部長は 浜崎さんに話しかけるように 「君は 数学が得意なんだね。」と言った。

 「いいえ コンピューターも 最初は使えませんでした。 教えてもらいました。」と謙遜して答えた。

 その後 傍聴席からいくつかの質問があったが いずれも今回の硬化性の近似式の持つ意味について触れたものはなく 拍子抜けさせられるようなものであった。            

 浜崎さんは これらの問いに答えて 彼の新人研修発表は終了した。

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<備考> 浜崎さんの研究発表の詳細に ご興味をお持ちの方は 別途 掲載の「川緑 清の【テクニカル レポート】No.2」 をご参照ください。 


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