最後の治療 1

3度目の移植を受けた後、通院は月に2度、血液内科と眼科、泌尿器科でした。それから別の病院にリハビリにも通っていました。リハビリは週に2回だったので、けっこう忙しくしていたのを覚えています。
その頃は多少息切れはするもののそんなにしんどい感じはなく病院には普通に歩いて行っていました。その時の血液内科の先生には「歩いて来られるのが奇跡です」と言われていました。
病院の売店で病棟でお世話になった先生にお会いしたことがあって、息子の身体をぽんぽんと叩きながら「退院した時、絶対すぐ戻って来ると思ってたのに帰って来んかったね。すごい、すごい」って言われて。そんなに言われるぐらい大変なことを乗り越えて来たんだ、と改めて思ったことです。

「5年後ぐらいには死にます」

息子が新たな病気、閉塞性細気管支炎を発症したのは移植から1年半経った頃でした。血液内科の方でレントゲンを撮った時に気胸が見つかって呼吸器内科を診察した時のことです。
診察室で先生から「閉塞性細気管支炎かもしれません」と言われました。「どんな病気ですか?」と聞いたら「やっかいな病気です。これに罹ると治療法は肺移植しかありません」と言われました。
詳しく聞くと「治療法がなくて気胸とかを繰り返し、5年後ぐらいには死にます」とはっきり言われました。「でもきちんと病名をつけるには生検が必要で胸を切って肺の一部を取り出して検査する必要がありますがリスクが大きすぎるのでそれはしません。ただ画像上では閉塞性の状態なので、そのつもりで診ていきます」とも。
その時は少し息切れがするなどの症状はあったものの他に症状がなく、そんなに深刻なことではないだろうと思っていた私たちは「…?」と2人で目を見合わせてしまいました。説明を聞いて息子が先生に「ipsは?」って聞くと「いや、肺はまだまだ先になります」と言われました。
帰りに「あと5年とか言われたけどそんなわけないやん。こんなに元気やのに」と2人で笑ったのを覚えています。
それから月に2度の通院に呼吸器内科も加わりました。呼吸器内科は2週間に1度のペースです。

12月になって今まで片方の肺だけ気胸だったのが両方の肺にまで進んでしまって入院。胸腔ドレナージをすることになりました。
入院中に「どう?」って聞くと「うん。痛いっていうか走った時にわき腹が痛くなるろう。あんな感じかな。ちょっとチクチクする」と、それほどでもなさそう。でもさすがに肺の穴の部分を塞ぐためのお薬を入れた時はかなり痛そうにしていました。あとは自力でトイレに行ったり起き上がったりがなかなか難しかったようです。

この時は10日間の入院でしたが、コロナが蔓延し病室には入れなくなっていました。今回の入院は肺にドレーンを入れて空気を抜くだけなので、今までの移植の時の抗がん剤治療に比べたら命の危機とかはなかったけれど、会えない、顔が見えないっていうだけでものすごく不安になったのを覚えています。それは息子もそうだったみたいです。

退院後も通院の時は絶対自分で歩いて行っていました。息が上がってしんどそうな時もあったので「車椅子、使えば?」と言ったのですが「いや、一回使ったら自分をどんどん甘やかしてしまって、それに慣れてしまうからそれはいかん」って言って、そこは意地でも使いませんでした。
家に酸素の機械も置いてましたが、朝起きた時に少し使うだけでほぼ使われず、車椅子も用意していましたが数えるほどしか使いませんでした。
病気なので無理をしなくてもいいとは思いましたが本人が「見た目は元気やのに病気のふりしゆうって思われたら嫌やき」と言って。妹にも「病気ながやき使えばいいやん」と言われてましたが本人なりのポリシーだったんでしょうね。あと小さい時から見た目が元気そうなので、あまり本気にしてもらえなかったっていうのがずっと引っかかっていたのかもしれません。

治療を断念…

息子が急激に悪くなったのは次の年の6月頃からです。
前日から調子が悪いと言っていたので次の日病院に行こうとしたら玄関まで歩けなくて。おんぶをしてとりあえず玄関の車椅子までと思ったらすぐに「お母さん、いかん!しんどい!おろして!」と言われました。その場で下ろし、救急車を呼んで病院に行きました。レントゲンを撮ると気胸がひどくなっていてそのまま入院。
幸い今回はドレーンを入れず自然に肺が膨らみました。

それから退院したもののまたすぐ悪くなって入院。しばらくして夫と2人、病院に呼ばれ「2ヶ月ぐらいで治療を断念する時が来るかもしれません」と言われました。先生は本人に告げるかどうか迷っていましたが、前々から本人には「自分の病気のことやき、ちゃんと言うてくれんと困る」と言われていたので病室に話に行きました。先生から話があった後、15分ぐらい病室に居させてもらいました。先生も看護師さんも息子の心が折れるんじゃないかと心配してくれていました。帰りの車では夫と2人何も喋ることが出来ずまるでお通夜のようだったのを覚えています。

夜、さぞかし本人も落ち込んでいるだろうと思いながら電話をすると「そんなことで僕の心が折れるわけないろう」と笑いながら言われました。そう言われて「そうだ。この子はこうやって今まで乗り越えて来たんだ」と一気に前向きになれました。


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