3種の移植を受けてみて
息子は今回の臍帯血移植を受けたことで、白血病治療で今、受けられる移植方法、骨髄移植、末梢血幹細胞移植、臍帯血移植の全ての移植を受けたことになりました。
今回はそのまとめ的な記事を書かせて頂きますね。
最初は骨髄移植
最初に受けたのは息子が7歳の時で、娘の骨髄を採取してからの移植でした。
移植っていうとなんとなく、切って貼っての大きな手術をするものだと思っていた私は、主治医の先生たちが部屋に来て、娘の骨髄液を点滴から入れてしばらく様子を見て「はい、終わりました」っていうのを聞いて「え?終わった?もう?」ってすごく肩透かしな感じがしました。
でもそれからが地獄で…。すぐに高熱が出始めて、40℃越えの熱が何日も続いて、治まったかと思うと今度は下痢が続く。毎日2リットルとか普通に出ていたし、それが落ち着いて来たら肌に症状が出て来て。色が真っ黒になって水疱が出来て、触らなくても潰れてずる剥けになって。包帯とかでは覆えないぐらい全身に拡がってました。血尿も出てましたけど、先で固まっておしっこが出なくなって、お腹がぱんぱんに膨らんで。
骨髄移植をした後も髄外再発が続いて、何度か抗がん剤治療を追加して。
最初の入院から最終的に退院するまでに5年かかりました。
けどそれから13年、髄外再発はあったものの、一番直近の再発から7年経った時まで骨髄再発は抑えられていました。これもGVL効果(移植後にドナー由来のリンパ球が増加し、患者さんの体内に残っている白血病細胞を攻撃し続け、排除することで再発を抑えこむこと)のおかげだったんでしょうね。
退院後は制限はあったものの、普通に同学年のお友達たちと学校生活を送れるぐらいにはなっていたので。でも、それも息子にとっては「いばらの道」だったみたいですけど。
2度目はハプロ移植
20歳の再発の時は大学生活を送っていた頃、親からも離れて初めての一人暮らしでまさに青春を謳歌している時でした。楽しいことをたくさん知ってからの再発は本当に辛かったと思います。
そんないろんな思いを飲み込んで、移植としては新しいハプロ移植(これが末梢血幹細胞移植になります)を受けました。
この移植の時、私と娘は病院に行ってたんですが、私たちは部屋から出され、先生たちが大事そうに冷凍保存された夫の造血幹細胞を出して点滴から入れて。この時も時間でいうと5分足らず。前回見ていたので「ああ、そうやったね」って思ったことです。
でも今回は前回よりもGVHDははるかに楽そうでした。高熱が続くとか出血性膀胱炎とか吐血とかはありましたけど、そこまで長く続いたわけではなくて。でも起こりうる副作用に備えて準備をしてたからそれぐらいで済んだのかなとも思って。ハプロ移植を受けてから退院までは、わずか2ヶ月ぐらいでした。
退院した後、2ヶ月ぐらいして再発。ハプロ移植からは4ヶ月ほどしか経っていません。なんとなくGVHDとかが少なかったからかなとか思ってしまって。早期再発だと抗がん剤の効きも悪くなるとか言われているし、ましてやあの強力な薬を弱っている身体にさらに追い打ちをかけるように使うとか…。
最後は臍帯血移植
それに次の移植は臍帯血移植。やる前から臍帯血移植は他の幹細胞移植に比べて感染症の合併が多いとか生着不全(移植したのに造血が出来ないこと)が多いとかを聞いていました。でも他に方法がないからしょうがないですよね。
この時は病室もICUに移っていて、移植の時にちょうどお見舞いに行ってたんですが、先生が「蔵く〜ん、今から入れるよ〜」って言ってゆるっと部屋に入って来て。「あの…、私、出てましょうか?」って聞いたら「ううん、大丈夫。これ入れるだけだから」って注射器を見せてくれて。今まで2回移植はしてますけど、実際、注射器に入っているのを見るのは初めてでそれを目の前で一気に点滴に入れて…。「はい、終了」って。すごくあっさりと終わりました。
その後、高熱が続いてとか合併症が起こって「このお薬が効かなかったら…」とか言われたこともありました。先生には「今すぐ再発してもおかしくありません」って何度か言われましたけど4ヶ月ほどで退院出来ました。
息子があとで「若い細胞ってすごいね。顔も名前も知らん赤ちゃんに助けてもろうた。たったあんだけの量でGVHDもいっぱい起こすし。人体の不思議や。お産の時に捨てるもんやったら取っておいてぜひ人助けに使ってもらいたいよね」って言っていました。本当にそう思います。
本人に聞いたわけではないのですが、ずっと横で見ていた私の感覚ではやはり最初の骨髄移植の時が一番しんどそうでした。それに大人になってからの移植は、前にやったことがあったから気持ちの上で準備が出来ていたのかもしれませんね。
その後の通院の時も白血球が高いとかこんな症状が出てとか言っても「様子見で」ばっかりで。要するに莫大な量の抗がん剤を使って3度目の移植を受けて生きてる人ってあんまり居なくて統計取れるほどデータが残ってないから、どんな状況になっても「とりあえず様子見で」ってなったのかなって。
最終的にその時の移植のGVHDの閉塞性細気管支炎で亡くなりましたけど、その時にも白血病の寛解の状態は続いていました。亡くなった時、病室に血液内科の先生が来てくださったので「先生、白血病は克服してましたよね?」って聞くと「はい」って言ってくださって。
初発から19年、ずっと悩まされ続けて来た白血病からは解放されていました。
患者側としては病院の先生(医療者)からの提案を受けるしかありません。改めて息子と話したことはないけど、そこでいくら泣いても心配しても良くなるわけじゃないから、それだったら家にいる時のように笑って過ごしたいよねっていうのが私たち親子の最初から最後までの一貫した考えだったと思います。事実、入院中、どんなに大変な時でも笑って過ごしてましたから。