最後の治療 2

移植が出来ない⁈

8月の終わり頃から持って行った差し入れ(毎日電話で次の日の差し入れの指定がありました)にも手を付けず、そのまま返される日が多くなって来ました。電話で「大丈夫?」って聞いたら「うん。大丈夫」ととりあえず答えてはくれますが、実際会ってないので真偽のほどはわかりません。

9月に入り毎日電話で話していたのが話をするのもしんどいとLINEで連絡を取り合うことが多くなりました。その時も明日の差し入れとかオムツが無くなったとかの内容でした。
9/7に病院から夫と2人呼ばれて「状態があまり良くないので京都の方に移植の相談をしたが出来ないと言われた」と先生に言われました。京都の病院では、白血病の寛解から3年経たないと肺移植は出来ないという決まりがあるらしく、息子は寛解から2年と9ヶ月だったので、その規定には達していませんでした。どこか他の施設でやってくれるところはないか、他の施設を探して欲しいとお願いして、その時は帰りました。息子にも会う予定でしたがその日は会わずに帰りました。

私は家に帰ってから、前に日本で肺移植をされていた先生が外国でやられてるっていうのを聞いていたのでネットで情報を探しました。その先生は今はカタールで移植をされている、姫路第一病院でセカンドオピニオンをやられているということが分かりました。夫にそのことを伝えると「今は病院の方に他の施設を探してもらっている。その返答次第ではその先生に連絡しよう」と言われました。
自分の中では「そんなん間に合わんやん」ともやもやしていましたが。

次の日、また病院に行くと先生からあまり良い答えは頂けませんでした。
でも一応息子には伝えないといけないし、前日も待っていたみたいなので病室に行くと、今までどんな時でも座ってゲームしたりケータイをいじったりしていたのが、ベッドに横たわり「ああ、久しぶり」って言われました。その時のショックは忘れられません。顔は浮腫んでいて、ただでさえ痩せていたのがそれどころではなく、体重も29kgとは聞いていましたが手や足は骨と皮になっていました。病院に居たのにこんなになってしまうなんて。
先生から「京都では出来なくなりました。やはり最初の3年っていうのはどうしても譲れないらしくて。でも他の施設を探しています」って告げられるとその時は「そうか」とだけ答えていました。差し入れに持って行ってたスープと出汁茶漬けを「食べや」と言うと「食べさせてくれんと食べれん。起き上がるのがしんどい」と言うので起こしてあげて口まで持っていくと「ああ、美味しい。久しぶりに食べた。やっぱり米は美味いね」と半分ぐらい息つく暇もなく食べていました。

その夜、息子と電話をした時に「あー。なんとか早く移植してくれる所見つからんろうか」と言われた時に外国の先生の話をしようかと思ったのですが、もしまた出来ないって言われたらとかいろいろ考えてしまって「どこか探してくれるって言ってたからもうちょっと待ちや」とかありきたりなことを言ってしまいました。

今まで5年生存率が10%未満とか、このお薬が効かなかったらとか散々言われて来ましたが、どんなに最悪なことを言われても「その10%に入ればいいがやろ」とか「この薬が効けば治るんやろ」とか脅威のポジティブさでここまで乗り越えて来た息子にとって、移植が出来ないというのは初めて命の期限を切られたことになります。それは死がすぐそばまでやって来ている、どうやっても逃れることが出来ないということで、本当に絶望しかなかったと思います。でもそんな時でも絶対泣き言は言いませんでした。

え?カタール?

次の日、姫路第一病院に早速電話をしてセカンドオピニオンをお願いしたい、もう1〜2週間って言われてますって言うとその日の夕方にオンラインで先生にお会い出来ることになって。
「京都で出来ないって言われたのですが、他にどこか出来る施設はありますか?」とお聞きしたら「いやー。京都が無理だったら日本では無理ですよ」って言われて。夫と2人「あー、やっぱり無理かぁ」って落ち込んでいたら「それだったらカタールに来たらいい」って言ってくれて。

「え?カタール?」

詳しく聞くと「今すぐは体力的にも難しいから、とりあえず家に連れて帰ってご飯をしっかり食べさせて運動させる。体力ないけど出来る運動はあります。」って言われました。夫はそんなの無理やろっていう顔をしてたと思うのですが先生に「無理だと思ってますよね。でも最初から無理なことをしようとしてるんです。それを無理やり、やり通すんです」と言われて。ハッとしました。確かにそうだ、その通りだと。
そして先生のお話を聞いてるうちに「ああ。絶対にこの先生に任せたい」って思うようになりました。そして夜になったらこのことを絶対息子に伝えようと思いました。

その日の19時過ぎ、病院から電話がかかって来て「息子さんが急変しました。すぐ来てください」と言われ急いで病院に行くと「あー。あー。」と吠えているような声が聞こえて来ました。誰の声かと思いながら病室に近づくとそれは息子の声でした。よくよく聞くと「分からん。分からん」と言っているよう。たぶん意識が飛んで行くことがすごく怖かったんだと思います。
呼びかけてもただただ叫ぶだけで何の反応もありません。

やった!聞こえた!

コロナの真っ最中で面会もままならなかった時期でしたが私だけ病院に泊まらせてくれることになりました。ずっと息子の手や足を摩っているとふいに目が合ったので「お母さんで。分かる?」って聞くと「うんうん」。「京都の先生には出来んって言われたけど、お母さん、外国の先生見つけたきよ。その先生がやってくれるって」って言うと、酸素マスクをつけていたから声は出なかったけど「本当に?」とすごく嬉しそうな笑顔を見せてくれました。

やった!聞こえた!

その日、朝までもたないかもと言われていましたがそんなことはありませんでした。

昼間、夫や娘に交代してもらい夜は私が泊まる。
そうやって4〜5日経った頃、娘が病院にいる時に電話がかかって来て「お母さん!お兄ちゃんが急変した!急いで来て!」
夫と2人急いで病院に行くと、血圧が70まで下がっていましたが、みんなで呼びかけていると100ぐらいまで上がります。
それからその日はずっと病室で声をかけ続けました。「早う元気になって帰ろう」とか「みんなでカタールに行くで」「カタールってどこにあるろうね」「家族で初めての海外旅行やね」「お金はクラウドファンディングでなんとかなる」とかずっと呼びかけていました。

朝方、息子は眠るように息を引き取りました。たぶん私たちの声はずっと聞こえていて最後は「うんうん。分かった、分かった。その話は後で聞くき。今は眠いきちょっと寝るね」っていう感じだったと思います。私たち3人が見守るなか本当に穏やかに全く苦しむ事なく眠るように息を引き取りました。

息子は最期まで前を向いて生きていました。移植が出来ないと知った時の絶望感は計り知れないのですが、でも最期の最後に希望を与えることは出来たのかなと思います。あの時の笑顔は1年経った今でも脳裏に焼き付いて離れません。

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