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わたしの夢

こんにちは、らっくすとーんです。

突然ですが、これを読んでくださっている皆さんのうち、どれくらいの人が夢を持っているんでしょうか。
というのも、わたし自身が「これが!私の夢です!」とスパッと言い切れるものがなくて、その点ずっと所在ない気持ちで居続けているので、仲間がいれば嬉しいなー、なんて思っているのです。
ただ、故郷を離れて生活をする中で、「海賊王に俺はなる」的な夢はなくても、なんとなく人生で目指したい方向性は定まってきた気がします。
そんな折、わたしの知り合いのnoter兼Youtuberのひよりちゃんが自分が医師を志そうとした訳をnoteで執筆しているのを見て、自分もその「なんとなくの方向性」を言語化してみようと思いました。
そんなわけで、今回はわたしが今自分の将来について考えていることを、大変抽象的にはなりますが文字に起こしてみようかと思います。

誰が為に医者になる

わたしのこの道の始まりは決して自発的なものではありませんでした。
ある時を境に両親に医者になることをしきりに薦められるようになり、最初こそ抵抗したものの徐々にその抵抗すら億劫になって、心の底でそう思ってなくても「医者を目指している」と言うようになりました。
ところが、小学6年生の時にわたしは祖父が膵臓がんを患い、ホスピスで最期を迎える様子を目の当たりにすることになりました。
その中で、わたしは祖父の生い立ちについて母から聞かされました。
祖父は戦時中の満州で生まれ、幼少期には貧しい生活を余儀なくされていたようです。そこから祖父は「お金があれば幸せになれる」といった価値観を持つようになり、それに終始した生涯だったようです。
その価値観は、夫婦間の不仲を招き、娘である母の心に影を落とすことになりましたが、その一方でわたしたち孫世代は祖父の投資に助けられて今も生きています。わたしの大学の学費は祖父の遺産から出ているそうです。
そんな祖父の生涯とその終着点を垣間見たことを通して、わたしはこのように終末期医療を通して「人生の終着点を少しでもいいものにするためになら医者になっていい」と思い、ここでようやく本気で医者を目指す理由ができたのです。
そんな思いで中高6年間必死で勉強に励みましたし、大学に入ってからも必死に医学に取り組みました。
途中、医系技官に興味を持った時期もありましたが、それでも心のどこかで終末期医療に従事するんだという気持ちで過ごしていました。

ところが、臨床実習の中でその気持ちが完膚なきまでに叩き潰される出来事に出会うことになるのです。
学外での地域医療実習でわたしは中枢神経の疾患で終末期を迎えている患者さんを担当することになりました。
中枢神経を侵されていれば当然多少の精神状態の変調もやむを得ないものですし、その患者さんは治療のためにステロイドを内服していたので、その精神状態は非常に乱高下しやすいものでした。
その患者さんのもとには毎日回診をしに行くわけですが、最初の日にはさほどおかしい様子でもなかったのが、次の日に行ったら開口一番
「あんたに話すことなんか何もない」
と突き放されて、全く意思疎通ができずに病室から撤退せざるを獲ませんでした。
またある日には、ひたすら「死にたい」「早くお迎えに来てほしい」と希死念慮を口にされ、挙句、息子に遺書を書くからメモを取れと言われたこともありました。
たまたま他の先生が見かねて対応してくださりましたが、今でもあの時どうすればよかったのか分かりません。
このような患者さんと向き合う仕事を40年生業にすることは不可能だと、その時に限界を感じました。
思えば地域医療実習としての2週間は神様がわたしの終末期医療に対する適性を占うために与えた試練であり、その結論として「お前は終末期医療に従事できる器ではない」と宣告されたのかな、と。
10年の時間を共にしてきた幻想も、現実の前には無力でした。
わたしの医師になるモチベーションはかくして水泡に帰したわけです。

そこから、「自分はどうして医者になるのか」という考えが心のどこかで堂々巡りしながらでしたが、最近ようやく「仮の答え」が自分の中で見つかった気がします。
わたしが終末期医療に関心を持ったのは、祖父の人生という物語に今からでも寄り添いたいと思ったからであって、自分のその思いの根源は「自分に近しい誰か」でした。その根源だけは今も変わりません。
究極的には、顔も名前も不確定の通行人Aに全てを捧げるために医師になったわけではなく、自分の大切な人の力になれる「究極の手段」としての医学をわたしは切に望んでいるのだろうと気づきました。
もちろん社会的に責任のある仕事なので、どのような患者に対しても期待値が最大になるような診療をする覚悟はできています。
しかし、医療に従事する中でわたしの心が満たされることがあるとするならば、わたしが積み上げていく経験や知識が、ある日わたしにとって大切な人たちを助けるために役立ったその瞬間だと思うのです。
真っ先に思い浮かぶのは小中高の友人です。そして最近ありがたいことにTwitterを介して多くの方々との交流が生まれるようになりました。
僕は彼らに何度も助けられてきました。僕が彼らに手を差し伸べるその日まで、研鑽を重ねていきたいものです。

僕だけのものでない「僕の命」

これまでの人生で良くも悪くも最も意味のあった体験だったのは、小学3年の秋に原爆資料館に連れて行かれたことです。
親父が広島旅行を計画してくれて、1日目は宮島観光で楽しかったのですが、その楽しい記憶のほとんどは2日目の出来事で消し飛ぶことになりました。
それまでの人生に何一つ不穏な要素などなく、平和ボケの中に生きていたわたしは、「原爆」という単語は知っていても、その単語の持つ重みは全く知る由もありませんでした。
思えば、あの日が自分にとって初めて世界の残酷さを思い知った日でした。
新館は主にヒロシマ・ナガサキ以降の核開発の歴史について扱っており、まだわたしの平和ボケを矯正するに足りませんでしたが、新館と本館の間にあるスペースで見せられた10分ほどのアニメ映画で、わたしはそれまでの自分の軽い認識を死ぬほど後悔することになりました。
(そのアニメの名前を書くだけでも少し辛くなるので、ここではその名称や内容についての言及は割愛させてください。)

人間はこんなに残酷に死ねるものなのか。
同じ人間に対してここまで残酷な仕打ちができるものなのか。
そしてこの残酷物語は今からそう遠くない過去に顕現していたのか。

目に映る全てが信じられず、放映が終わってもモニターの前でしばらく呆然としていたのを覚えています。
そこから後に行った本館も、当時の惨状をありとあらゆる展示物を用いて強調したものであり、小学3年生の認知力でもはっきりと核兵器の恐ろしさを思い知ることができました。
そして、この時の記憶はしばらく頭を離れず、5年以上経ってもたまに夢に出たり、寝る前に思い出して寝れなくなったり…ということが続きました。
そんなことは高校3年生になっても続き、ある日寝れなくなってとうとう自宅で夜なべ仕事をしている母親に相談することにしました。
母はわたしの悩み、そして恐怖心を聞いて
「原爆で犠牲になった人たちはあなたを呪ったり襲いかかったりなんかしない。みんなあなたを天から見守ってあなたを後ろから支えてくれているんだよ。」
と言ってくれました。
その言葉で心が軽くなり、恐怖心も解消され、今ではその恐怖で悩まされることはほとんどなくなりました。

時は流れ、医学部に入り4年の時が過ぎました。
ちょうど1年ほど前のこの時期、色々な事情があってわたしの精神は今までで一番荒んでいました。
どのくらい荒んでいたかというと、大学に入学するまでは滅多に湧かなかった「生きている価値がない」「死にたい」という感情が頻回に起こるようになり、ふとしたきっかけで涙が止まらなくなり、そのような感情が好きなはずの麻雀で負けた時にすら起こるようになったほどです。
ある日、またしても麻雀で負けて、1人で電車に乗り、周りの目を気にして涙を必死で堪えている時に、ふと高校3年生のあの日のことが思い出されました。
そして、次に浮かんだのは数日前に見た臨床実習の様子でした。
外来でわたしは外耳道癌の患者さんに出会いました。
外耳道癌は予後の悪い癌です。そして美容的な意味でも相当ショッキングな疾患でもあります。
しかしそれでもその患者さんは絶望を見せることなく、笑顔とは言わずも終始穏やかな様子で話していました。
この人はもしかしたら癌のせいで未来が長くはないのかもしれない、そう考えると恐ろしくも切なくもなりました。

そんなことをふと思い出し、そして我に返って「死にたい」と思う自分を省みて、「死ぬわけにはいかない、僕はここで死ねない」と気持ちが切り替わりました。
広島・長崎で尊い命を失った人たちは生きたいと思っていたはずなのに生きることすら許されなかった、自分が数日前に目にした外耳道癌の患者さんも癌にさえならなければ…と描いていた未来があるかもしれない。
未来を望んでもそれが許されなかった人たちがたくさんいるのに、こんな身勝手な理由でその未来を手放すなんてその人たちにあまりにも面目が立たない。

そう思うと、「死にたい」といった感情はすっかり消えていました。

「お前の命はお前一人のものでないことを忘れるな」
『ウルトラマンレオ』の物語終盤、防衛隊が敵襲に遭い、その防衛隊と運命を共にしようとするレオ=おおとりゲンを叱咤するダン隊長=ウルトラセブンの言葉です。
この言葉の重みが今になって少しずつ分かるようになりました。
先に話した、わたしの考えは少し大袈裟かもしれません。
でも家族がいて、苦楽を共にした仲間、頼りにしてくれる後輩がいて…そういう人たちはきっと自分が死んだら悲しむことを考えると、やっぱり自分の命は、逆説的に「決して自分一人の意のままにはできないもの」だと気づかされます。
もちろん多少は自分の快楽のことも考えて生きていますが、何よりもこの命には「たくさんの人が叶えられなかった未来」「自分が死んだら悲しむ人たちの存在」が懸かっていて、そういう人たちのために生きたいと思うところです。

やっと見つけたMenter

「憧れの存在」、現実世界における、そう呼べる存在が23歳になってもピンときてない自分がいました。
あの人かなこの人かな、と思案したことは何回もあります。
そういう人たちにわたしは何度もお世話になってきて、とても魅力的な人たちだとも思います。
でも何かが足りない…そう思うことの繰り返しでした。
そんなわたしも遂に「憧れの存在」を見つけることができたのです。

その憧れの人は、わたしの大学の小児科の先生です。
どれだけ頑張っても、この人のことを超えられる気はしない、そう思わされる人です。
先生との出会いは共用試験であるOSCEの事前に行われた実習です。
ある領域の実習で担当教官がその方でした。
その時はいかにも大学病院にいそうなしごできな女医さん、といった印象でした。
そして先生とは次にOSCE本番で出会うことになります。
先生は実習で担当していただいた領域の試験の試験官でした。
そして、OSCEとCBTをクリアしたわたしが臨床実習で最初に回った診療科が小児科でした。
実習生の教育担当だった先生は実習中のある時、OSCEの時のことについて「こんな短期間でここまで成長すると思わなかった。少し感動した」とわたしに話してくれました。
そこから2週間の小児科実習を通して、先生にはたくさんお世話になり、わたしはどうやら先生にOSCEの一件でかなり期待されるようになったんだな、と感じるようなりました。
そこから1年少しが経ち、わたしは再び小児科での実習に4週間臨むことになりました。
先生の専門は小児循環器であり、わたしは最初の2週間小児循環器を中心に見て回ることになったので、先生が病棟で小児患者と向き合う場面に何度も立ち会いました。
先生は小児循環器グループのトップ、というわけではなかったですが、グループで話し合ってる場面を見かけるたびいつもイニシアチブを取っていて、病棟でも外来でも全力を注いでいることがその背中や眼差しから伝わってきて、それでいて学生の話にも耳を傾けてくれて…ととても熱意に溢れた人だということを肌身で感じました。
もちろん知識量もとても膨大で、この熱意と聡明さの掛け算に一生敵うことはないと確信を得ました。
笑った表情がとても素敵な方ですが、わたしは先生が患者と向き合う姿がとても好きで、眉間に皺を寄せて真剣な眼差しを向ける先生のことをいつまでも見ていたいと感じるようになりました。
ずっと探し続けた「憧れの存在」は、5年前に苦渋の決断で故郷を離れ辿り着いた辺境の地にいました。

自分にとって「医師」という道の遥か遠いところにいる先生ですが、どうしてか先生はわたしのことを目にかけてくださって、先生の期待を時に重いとすら感じるほど感じています。
自分の憧れの人に大きな期待を寄せられていることは、時に重圧となりますが、とても強烈なモチベーションです。
先生の期待に絶対に応えたい、成長したところを見せたい、ある意味では不純な動機だとは思うのですが、そのような感情を駆動力に今日もわたしは勉強に励むわけです。

さいごに

Xでポストを見てくださってる皆さんには多分とっくのとうに解られていると思いますが、

わたしは元来ネガティブ寄りの思考をする上に、自己肯定感がバチボコに低いです。
落ち込んだらなかなか元には戻りづらいし、笑顔でいるよりは眉間に皺寄せてることの方が多いと思うし、「最悪の場合こうなるだろう」を想定して行動することの方が多いです。
大好きな麻雀をしてる時ですらこうですからね。
昔友だちに「麻雀してる時お前いつも悲しそうな顔してるよな」と言われたことがあります。

イメージ図

そして、この性はもう一生このまんまなんだろうと半ば開き直っています。
ウソップも「いつも皆が前を向けるわけじゃない」って言ってますし。
しかし「こうありたい」という渇望や、自分が心血注いでいることに対する情熱は誰にも負けない自信があります。
そのためなら、持てる知識は総動員し、できることは全部やってきた人生でした。
わたしには力になりたい人たちがいる、背中を押してくれるものがある、そして目指す道の果てで待つ人もいる。
そのすべてに応えるという一心できっとこれからも、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍び、そして前に進んでいくんだろうなと思います。

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