言語の散歩 第一話 「ポライトネスとは不気味な彼女を宥めるよりも面倒くさい」
私はさっそく地球へ参り、この地では数少ない楽園へと訪れた。あえて言う必要もなかろうが、今私がいるのは、いわゆる十人十色の彼女彼氏に癒されることができる楽園だ。ここには、甘えたがりの子もいれば、ツンデレクールな子もいて、実に飽くことなく幸せを堪能できる。
おっと。そういうことを考えていたら、彼女の一人が私にすり寄ってきた。もちろん、人間に化けた私の体に。
「にゃぁ」
彼女が鳴いた。
ちょっと、そこのきみ。不埒な想像をしてもらったら困る。もし、私に対していい加減な妄想を抱いておられるなら、今すぐお宅の仏壇に向かって般若心経を唱えられることをおすすめする。聞けば、修行で煩悩を亡くすのが、経典の目的であるらしいではないか。
「にゃあ~」
すりすりと、甘えん坊な彼女が私の膝に頬を擦り付けてきた。
ああ、やはりここはパラダイス(楽園)だ。それも、猫カフェという名のーー。
◯
カフェに、二人の男女がやってきた。男の方は、申し訳ないが私のレベルにはちょっと足りないかな、と思われるなかなか顔立ちのいい青年で、女の方は猫カフェという空間が実に似合いそうな愛らしい子であった。
「優くん、猫って可愛いいでしょ?」
女の方がそう言った。どうやら、男は優くんと言うらしい。
「うん。可愛いいね」
「でしょ! やはり猫が一番可愛いね」
とたんに男の眉がピクッと動いた。
まあ、男の動揺もわからぬではない。というのも、猫は確かに可愛いには可愛いが、一番かと言われたらなかなか即答はしずらい。
なにせん、一番可愛いのは私である。
「まい……うん、そうだね。猫も可愛いよね。猫にしかない可愛さがある。猫も可愛い」
「あ……。確かに、わんちゃんもかわいーと私は思うよ? でも、猫ちゃんって、他にはない魅力があるのよねぇ。だってほら、猫ちゃん以外には、下僕になりたいなんて思わないでしょう?」
「いや? 僕はめちゃくちゃ下僕になりたいよ? お犬様の」
「やだー! 優くん。どちらかというと、わんちゃんは忠誠誓う側でしょ?」
「忠誠てか愛を与えてくれるけど、それ以上にこっちが与えたくなるからね」
優とまいの間には、パチパチと見えない火花が舞っていた。
こんなとこで喧嘩をするなと言いたいが、これはこれで人間を観察するいい機会である。
私は、引き続き彼女たちの会話に耳を傾けた。
「まぁ、今日は優くんに猫の魅力を存分に味わってほしいんだ!」
「ありがとう。癒されるよ」
「ふふふ。きっと帰る頃には、猫が一番! てなってるよ」
「想像できないなぁ、ははっ」
「ふ、ふふふふ」
お気づきであろうか。
彼と彼女は、お互いに気を遣って会話をしている。優の方は、きっと犬より猫を好きになるはずはないと思っており、一方まいは猫こそ一番だと考えている。両者は自分の意思を曲げるつもりはないが、それをストレートに相手にぶつけると人間関係に溝ができるのを知っているため、努めて婉曲的な主張をしようとしているのである。
ふむ。
私は脳内のメモを起動させた。
【ポライトネス: 相手のフェイスを侵害しないように、社会的考慮を会話に入れること。フェイスは面目に近いが、面目だと英語の face を十分に説明できないため、フェイスと呼ぶ。
例: 友人にお金を貸してと言われて断りたいが、「やだ!」とも「むり!」とも言えない。代わりに、「最近金欠でさぁ」とか「お金を下ろすのを忘れてたなぁ」などと言って、遠回しに依頼を断る。結果、ストレートに断る時に比べて、相手のフェイスを侵害しないですむ。】
そして、そのメモの下にはこう続けてある。
【インポライトネス: 相手のフェイスを傷つける発話。傷つけられるフェイスには、ポジティブフェイスとネガティブフェイスがある。
ポジティブフェイス: 相手によく思われたいという欲求。
侵害される例: 友達のために合コンをセッティングしたら「余計なお世話」と言われた。解せぬ。
ネガティブフェイス: 相手にあまり荒らされたくない部分。
侵害される例: 人付き合いが嫌いな僕が月一の飲み会に参加したら「彼女いるの?」と聞かれた。どうして男は皆彼女をほしがっていると思うのか。放っておいてほしい】
メモは以上である。
改めて優たちの会話に振り返ってみると、先ほど、優とまいは互いのフェイスを傷つけないように気をつかって話していた。すなわち、ポライトネスを意識していたわけだ。
となると、優とまいは、まだ関係が浅いのかもしれない。あるいは、恋人成り立てのホヤホヤか。いずれにしても、互いに互いを考慮した会話であることには違いあるまい。
ふと、二人の方を眺めてみる。
驚くことに、彼らはいまだにポライトネス戦を繰り広げていた。まさに終わりなき戦いである。
もう終わってくれていいですよ、とそんな期待をポライト的に視線で寄越してやった時だった。
「もう! 優くんのわからず屋!」
まいが叫んだ。
それにゆうくんがびっくりしてにゃあと鳴いた。あ、猫の方のゆうくんである。
猫カフェは、なんともいえない沈黙に包まれていた。他の客たちは、気まずげに、あるいは迷惑げに、ちらちらと二人の様子を伺っていた。いわゆる、君たちこんなところで何をやっているんだい、という冷ややかなメッセージである。はっきり主張しない点ではポライトネスに部類されるであろう。
「にゃあ」
続いて、クール猫、ミルキーちゃん様が鳴いた。
人間には分からぬであろうが、私のような高次知能生命体には手に取るようにしてその内容がわかる。人間の言語もこうして易々と綴れるのだから、猫の言葉だって当然分かるに決まっているのだ。
確かにミルキーちゃん様は言った。
うっせぇ!夫婦漫才は帰ってやれ。
そう、言ったのだ。
彼は存分にインポライトネスを発揮した。本来なら、関係性にひびがはいる行為である。
だが、あろうことか、まいは「きゃあ、可愛い」と言ってミルキーちゃん様にハートを送っていた。
ふむ。
私は考える。
人間社会とは、常に関係性に悩まされる複雑な構図をしている。ゆえに、人は発話につけて、なにかと相手のポライトネスを尊重し、インポライトネスを避けようと躍起になるのだ。
ところが、この世には、そんな人間たちの苦悩を嘲笑って、堂々とインポライトネスを侵して見せるつわものがいる。
「にゃあ」
ええ、その名も、ミルキーちゃん様こと、猫である。
この場合、ミルキーちゃん様の発話は人間には理解されてはいないので、会話におけるポライトネスとは言えないのだろうか。
いやしかし、まいは「その冷たい眼差しも、す、て、き」と呟いている。つまりは、ミルキーちゃん様の意図は、少なからず伝わっているということである。
やはり、猫様は特別なポライトネス使いなのかもしれない。
私は、再び記録を開いて、新たなメモを追加した。
【猫、すごい。人間は怖い】
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