お笑いと言語学あるいは教育と言語学ー言語学を追求する意味ー

皆さん、「言語学=言語を追求する学問」だと、そう思っていませんか?間違ってはいないのですが、それだと言語学の本質が伝わっていないような、そんなもどかしさを覚えます。言うならば、アンパンマンとバイキンマンの「敵対関係」という外部構造しか見ていないような・・・そんな感じです。しかし、彼らはそんな単純なもんじゃない。敵対関係こそあれど、共通の目的の前では協力関係を結ぶという深層部分での関係性というのが、彼らの魅力の一つなのです。同様に、言語学というのも、ただ言葉の構造を理解して終わり、というそんな単純なものではありません。

例えば、教育と言語学。それらは非常に密接に関わり合っています。幼児が言葉を覚える際、「パンが食べた」とか「手が拭いた」とか、本来「〜を」というべきものを「〜が」と表現することがあります。また、海外出身の日本語学習者が、「私は朝ごはんを食べました」と表現した時、私たちはそれを非日常的表現だと判断します。さて、一体どうしてでしょう?

いろんな仮説があるでしょうが、私が思うに、幼児の学習については、私たちの言語表現において重要なものは文頭にくる傾向があり、主語+『が』+動詞という使用が頻繁に見られるからだと考えます。また、英語などSVO言語を話す者にとっては、そのルールに当てはめてしまうので、日本語らしい表現から遠ざかるんだろうと思います。指導において重要な言語の習得過程を見るには、当然言語学の知識が必要であり、そういった点でも、教育と言語学は深い関係にあります。

そして、お笑いと言語学!
ぶっちゃけ、言語を追求することでお笑いの生産につながるんじゃないかなと思っております。例えばー・・・これは浮気に入るんでしょうか・・言語ネタのスペシャリストと言えば『バカリズム』さんが思い浮かびます。い、い、い、板倉さんも大好きなんですが、バカリズムさんも大ファンなので、今日はバカリズムさんを召喚したいと思います。(後から院生室の板倉ポスターに謝罪しときます。)

バカリズムさんの『いろは問題』って、本当に天才的ですよね。本当に大好きです(胸がチクチク)
あまりネタバレはできないんですが、バカリズムさんは『濁音』の使用というところに着目していらっしゃるんですよね。認知言語学でいうと、濁音がプロファイルされていると言えます。どういう意味かとかは今回の記事ではそんなに重要ではなくて、認知言語の用語で説明できるという事実が、言語学のお笑いへのアプローチの示唆となっています。もし、通時的変化として濁音が使われ出す前にスコープが当てられていたら、また違った構想のネタができるだろうし、ゲシュタルトとして文字を見れば視覚的ネタにも発展できる。専門用語がいろいろ出てきましたが、言語学的見方はバカリズムさんのネタにも十分に適応できるのです。

あのミスター天才が、どんなプロセスを経てネタを創発されているのかは存じ上げませんが、言語学学習者から見たらあのネタは、いたるところに言語学的見方がチラついているということはお伝えしておきたいと思います。

さて、一つの本を紹介したいと思います。吉村(2004)『はじめての認知言語学』(研究者出版)という書籍です。言語学というか認知言語学とはなにかを非常にわかりやすく説明されています。
冒頭を要約すると、

『売り切れ中』『故障中』『トイレ中』これらの表現は違和感がある。また、JR大阪駅の駅内アナウンスは「ドアが閉まります」から「ドアを閉めます」に変更されたが、開けるときは昔のままだ。このように、日常性生活には、多様な『違和感』が存在する。この違和感こそが言語研究の出発点であり、言語研究とは小難しい用語を知ることではなく、身近なことばの中から違和感を取り出すことから発展していく。(pp. 1-2)

といった旨が記されています。

そして、こうともー。

『ことばは無限の謎を秘めてあなたの前にたたずんでいます。さあ、あなたも、直感精読、語感を研ぎ澄まし、謎を発見し、その解明に取り組んでみませんか。』(p.10)

『はじめての認知言語学』吉村(2004).研究社.

どうでしょう?
堅苦しい研究分野という不名誉なイメージは払拭されたでしょうか?
言語学に対してワクワクを抱いていただけたなら幸いです。次回からは、認知言語学のより深い考え方を紹介していきます。


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