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気どったり、ぶったりしない、そのまま!そのままで行きましょう!

禅の言葉に「無碍自在」(むげじざい)というのがある。

これは、心に何ら執着のないときの心の力が、その融通性を100%にして、その可能率を向上するという意味を喝破したものと思う。

これは理屈でなく、心に何らの執着もない場合は、言い換えると心が何もの何事にもとらわれていない時には、これを形容すれば、円転滑脱、(えんてんかつだつ:物事が円滑に進んで滞らないさま)自由自在に、臨機応変の対応ができるものであるということは、我々が人生において経験する事実がしばしばこれを証明している。

反対に、心に何かの執着、すなわちとらわれがあると、心の力はたちまちに萎縮して、その可能率が著しく低下する。

要するに、この事実の消息を考察すると、人生に活きる際、気取ったり、ぶったりすることが、どれだけ無駄な損失を自己の人生に招致するか分からないということも明白に理解されるはずである。

ところが、この明白な事理が歴然としているにもかかわらず、世の人の多くはやたらに気取ったり、ぶったりすることを、さながら常習として行なっている。

しかも、それが自分を偉く見せようとか、あるいは安っぽく見られたくないとか、また強いように見せようとか、バカにされたくないとか等々、それがもうすでに価値のない執着、すなわちとらわれになっているという事に気づかずに、盛んに気取ったり、ぶったりするという事に苦心する。

むしろ腐心  (ふしん:あることを実現しようとして心を痛め悩ますこと)  すると言ってよい実状である。

自己擁護のために、気取ったり、ぶったりするのである。そしてその結果、前述した通り、知らず知らずの間に心の力を著しく低下させている。

しかし、それは何のことはない、鉛を金に見せよう、石ころを宝石に見せようとするのと同然で、それは異常な精神消耗の原因となるだけである。

本当にできているという人というものは、決してぶりも気取りもしない、いわゆる天真流露(てんしんりゅうろ:作為のない天然自然さがあらわれているさま)そのままである。


これは私が日露戦争直後、朝鮮で当時の韓国統監であった伊藤博文さんから直接耳にした話であるが、あるとき伊藤さんが、


「君は、頭山満(とうやま みつる:玄洋社創始者)の薫陶を受けたそうだが、あの人は実に偉い人である。現に自分が私淑している、新井石禅(明治、大正期の禅僧)が、かつて頭山君に相会したときの感想として、今までいろいろの人に会ったが、頭山氏のような、どう見ても少しも偉く見えないで、しかも本当に偉いと思う人に会った事が無いと非常に感激していた」


と話されたが、まさに確かに、頭山恩師は、石禅師の言のごとく極めて平凡に見える、少しも偉さを表さないという偉い人であった。

いつも同じ状態でいられたお方である。

察するに恩師の眼中の中には貴賤貧富(きせんひんぷ)の分け隔ても、老若男女の差別もなく、いっさいすべてが平等視されていたとしか考えられない。

名声にも富にも権威にも何ものにもとらわれのない高潔な恬淡(てんたん:心がやすらかで無欲なこと)さにあったと思う。 

ぶるとか、気取るとかいうのは、要約すればにせものを本ものに見せようとするのと同然で、言いかえると虚勢を張っていることなので、それには相当無理な努力から生ずる精神消耗が付随し、活きる命に大きい損害を与えるだけである。


あるがままにわれある世として活き行かば

   悔いも怖れも何ものもなし


by  中村天風




虚栄心

自分を偉く見せたい、強く見せたい、見られたい

安っぽく見られたくない、バカにされたくない。

人のことはバカにするのに、自分はイヤだ。

価値のない執着心。


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