エッセイ「さつまいもチップス事件」(テーマ:何故か覚えている記憶)
他人と話をしていて気付かされるのは、自分は「人生記憶」が全体的に薄いほうだということ。
どうやら大抵の人達には、幼少時の記憶も豊富にあるらしい。わたしはと言えば、小学校四年生以前は霞がかかってほぼ白いモヤモヤ。五年生の時に引っ越し・転校という大変化があったからか、そこからは多少思い出しやすいものの、断続的でスッカスカ。そして中学も高校も、社会人になってからでさえ、何を体験してきたかあまり振り返ることができない。
学問や趣味領域についての知識の保持にはむしろ自信があるので、心理的な要因だろうか。人生が全体的につらすぎて、足跡を消去しながら進んでいるのかもしれない。
明らかに強烈な出来事はさすがに忘れられないけれど、薄味なのに何故かポツポツと浮かんでいる断片もあるにはあって、少し不思議である。それをひとつ拾ってみよう。
小学校三年生ぐらいのころ、わたしは「あゆちゃん」という友達とばかり遊んでいた。いろんな子と広くつき合うのではなく、常にふたり組。休み時間も、放課後も、日曜日も。外から見れば「親友」としか表現しようがない関係。
住んでいたのが田舎地域ゆえ、自然は豊富、建物に入っても部屋数が多く、やることはいくらでもあったものだ。
脳裏に一瞬だけ焼き付いている場面は、ある日のあゆちゃんの家でのこと。学校にかなり近かったのでいつも入り浸っていて、慣れきった場所。その時はテレビゲームをしていた。
もはやひと昔前、当時はふたり同時にプレイできるソフトなんて少なく、画面を一緒に眺めながら、交互に操作をするのが標準的な遊びかただった。手ぶらの時間でもツッコミなど入れつつ、意外と楽しめる。
その日机の上には「さつまいもチップス」の大きめの袋があって、思い思いにつまんでいた。揚げてあって結構カッチカチに硬いけれど、噛んでいるとなかなか美味しいやつ。
で、ある程度食べたところで、あゆちゃんが「きょうの分はこれくらいにしておこう」みたいに言って、輪ゴムでその袋を縛った。自制の利いたシッカリ者である。
そしてゲームを続けていて……「あっ、何やってんの」という声にハッと我に返ったら。
わたしはまったく無意識に、モリモリと続きを齧っていた。輪ゴムを外した感覚すらなかった。
おなかが空いているとか、あゆちゃんケチだなとか、「欲」のようなものも心に浮かんでいなかった。夢遊病のようにその体勢に瞬間移動していたので、ただただビックリ。そして自分は意地汚いな、とガッカリ。
記憶はここまで。別に怒られたりはしなかったと思う。
わたしは以降も、けっこう「大食い」の類として生きている。とにかく食べている。なのに極端には太らずに済んでいる。特性として、いつも頭の中がわんわんと情報の洪水で、活動を停止しようとしてもうまくできない。そのことで、栄養を大量に消費する体質なのでは、と自己分析している。取り憑かれたようにお菓子をむさぼってしまったのも、脳が飢餓状態だったせいなのだろう。ハタ迷惑な行動をしたものだが、さいわい意識が飛ぶほどのことはあれ以来ない。
あゆちゃんとは、さつまいもチップス事件とも転校とも関係なく、いつの間にか疎遠になった。あんなに一緒にいたのに、小柄で活発な彼女と大柄でのんびりしたわたしは、よく考えてみれば正反対だった。
なにかの要素がピッタリとはまっていた時期は確かにあったのだ。でも、本質的にわたし達には違いがありすぎた。周囲に「親友だね」なんて言われる時、胸がムズムズとしたのは、心の底では初めから感付いていたから。
また幾度か相手を変えて、特定のひとりとだけ濃いつき合いをすることが続いた。でも、ずっと同じ。いまはベタベタしていたって、何かがズレていて、いつか別れが来るという予感。
成人後には、お金もガッチリやりとりするような、信頼のおける趣味仲間ができた。もう、わかっている。わたしとそっくりな人間なんか存在しない。違いがあるからこそ、掛け算みたいに何倍もの結果が出る。
本当はさびしいけれど、そうとでも思わないとね。
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