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隅っこに積もってたもの。

仕事を辞めて一年が経った。
このタイミングで、たまたま出会った「まとまらない言葉を生きる」荒井 裕樹(柏書房)を読んでいて、現在の社会で蔓延している言葉というもののチカラ、危機感を改めて考えさせられたり、紹介されている障害者運動家の方々の言葉に感動したりしていたところだった。マイノリティな立場に置かれた人々の感情を他者として想像しながら読み進めていたのが、終盤、ふいに、自分の体験が思い出されて心がきゅっと固くなった。
 前の環境で自分を削っていったもの、それは結局、「言葉」たちだったんじゃないか、と。一年経って思った。具体的な言葉も、文字も、ぼんやりとしたものも、心の隅の方にホコリのように溜まっている感じだ。
そんな些細なことで。
何クソと蹴散らしていけばよい。
そういうもん(環境・人・慣習)だからと諦めてやり過ごせばいい。皆我慢している。それが世の中を渡っていく術だし、過去を振り返ってもしょうがない。

でも、そうして蓋をして鈍感なフリをしているということは、
誰かに浴びせられている言葉に対しても、同じような我慢を求めることにもなる。他人に対してもどんどん鈍感になっていく、ことなんだ。

まずは、自分が感じていた本当の感情を、一旦は認めてあげたいと思う。
ちょっとしんどい作業だけど。

削られて、飲み込んで
平気なフリをする
やってられないよ、と冗談交じりに愚痴って
自分が発するネガティブな言葉も心の隅っこに降り積もっていく
でも日々をやり続ける
我慢して、続けてなんぼ
もっと上手くやれるやろう、という負けず嫌い
昭和のスポ根

どこも全然よくない。

そこに居続けたこと、それは私が間違っていたし
申し訳なかったとも思う

去れない理由はいくつもあったように見えたけれど
仮の自分 と割り切っているつもりでいても、かなりの時間の私を
私の顔を形成していた。

どこかのポイントで「おやおや?」とつつく心の違和感を
それ正解!という自信もなかったし
誰主体の正解?でいいのか、判断を迷っていた

組織の中に居ても、動かしているのは言葉を使う人間だから。
うまくできればいい、ことがおさまればいい だけなら正しく
「人間じゃなくていいんじゃないですか」
(この言葉は 大阪中之島美術館ー民藝 美は暮らしのなかにある
で小鹿田焼の窯元の方が語っていらした言葉)

遅いスタートだけれど、此処から研ぎ澄ましていこう。
まだチャンス(人生)は続いてるようだから。
そしてやっぱり「言葉」のチカラはある。
「まとまらない言葉を生きる」を入り口として、また自分の心が
熱く、温かくなるような言葉にもっと出会える予感がしている。
(荒木裕樹さんありがとうございます)

…それにしても、我が子に投げかけている自分の言葉を反芻して
何万回目の自己嫌悪。
これはホントに修行である…

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