見出し画像

004:京都

7年ぶりの京都。

前回訪れたのは大学2年生だった2009年の夏、初めての一人旅。
横浜から夜行バスに乗って、炎天下だった京都の山奥の坂を登り、たどり着いたのは亀岡にある小さなお寺。

変わり者が集まる大学のゼミに入り、絶対に負けてなるものかと、とにかく別人になるが如く成長したかった20歳の頃。「変わる=禅修行」という安直なイメージで、google検索で見つけたのが禅寺宝泉寺が行っていた禅修行体験。

インターネットも化粧もお酒も禁止。朝6時に起きて、太極拳をして、座禅して、皆で朝食の準備をして、戒律を厳守しながら食事を頂き、庭の草むしりをしたり、写経したり、座布団を塗ったり、図書部屋で読書したり、縁側で池の蛙を眺めたり。

夜の最終の座禅が終わると数十分だけ、体験者同士がお菓子を摘みながら談話する時間があり、そのときに初めて交流が生まれ、もう会わないと知っているからこその無責任な情が生まれたり。

ほとんどの体験者が3泊4日だったので、15日間の修行だった私は、毎日誰かと出会っては、誰かと別れる日々。切れ者のエンジニア、不登校の女子高校生、食事の戒律が守れず1日で帰っていった令嬢風の女性。いろんな人が訪れていましたが、殆どが根底には似たような「もどかしさ」を抱えていた気がします。

15日間の修行が終わり、変わったかと言えば変わりましたが、15日間で得られる変化は数日で戻ります。それでも得たものといえば、自分の許せないところは100以上あるけれど、1くらいある良いところで十分に楽しく生きていけるという実感でした。

その後、関東に戻った翌日に一人で人生初の富士登山へ。あまりの過酷さに、登山中に深い後悔に襲われるくらい辛かったですが、しっかりと登頂できて、お鉢も巡れて、そこでも得られたのは、変わることができた実感より、頑張れる自分も「いた」のだと知った意外感でした。

「わたしは大理石を彫刻する時、着想を持たない。わたしの手はその形を石の中から取り出してやるだけなのだ」というミケランジェロの言葉がとても好きなのですが、それは、未完成に見えるものも、すでに完全性を内在していると思わさせてくれるから。誰かに出会い、経験することは、決して自分をレベルアップさせたり、武装強化していくことではなく、ただの何でもない本質を露わにしていく「彫刻作業」なんだと思います。

とにかく変わりたくて、全身が痒くてしょうがなかった7年前。現代的で刺々しく思えた駅ビルも、再び訪れた今日は、とても懐かしくて暖かくて、戻ってこられて本当に嬉しかった。次はより堂々と歩けるように、もっともっとそぎ落としていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?