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母が亡くなりました

久々です

ですが介護日記はこれが最後になります


というのも、

10月からこっち、母が入退院を繰り返し
今度こそお迎えが来たことを確信していた10月終盤

いつ病院から呼ばれるか
いつ施設から呼ばれるか
全く予想のできない中で仕事も気を抜けず
着信音が鳴るように設定したスマホを枕元に置き

ぐっすりと眠れない日々の中

この緊張しっぱなしの状態に疲れた私は
不覚にも2年半ぶりに熱を出すほどの風邪に侵されてしまいました(;^ω^)

そんな発熱して意識ぼんやり〝 もうだめぇ~ 💦〟って時に
施設からのお呼びがかかったのでした


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と、いうわけで

11月1日 16:50

・年を取ること
・認知症に侵されていくということ
・それによりいかに一人の人間の尊厳が失われていくのか
・どんな過程を経て、人間は自身が創り上げてきた人生の最期の締めくくりをさせられるものなのか

実に最後の最後まであらゆる経験と学びをくれた母が亡くなりました

実に38度の発熱中の私でも
母の遺体が一人部屋に安置されていたおかげでその顔を見るコトができ
その死に顔に

「よく頑張ったね」

と、言葉をかけることができました


あの世に召され

「あっれぇ~???」という感じにきょろきょろしている母

火葬場でお経をあげてもらい、お焼香の煙とともにやっと状況を理解し
想像以上に身軽になっていることに驚きと喜びではしゃいでおりました(笑)


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埋葬は、母はもともと一心寺志望

よって、葬儀は無しで直葬で対応し
火葬の翌日には納骨というスピード感!

でも、
一心寺で正式なお位牌を作成していただきお経上げていただく中で
母ははっきりと自分が肉体を離れ次の世界へと旅立てること

これまでの地球上での人間としての人生が
いかに狭い世界の出来事であったのかを見るに至ったのでした

その日、
私の元で

「おかぁちゃん、なんにもわかってなかったわぁ」

としきりにつぶやいておりました(笑)


母の火葬の際
結局棺桶の小窓から死に顔を見せてもらえると葬儀屋に言われていたけれど
直葬でお願いした成果結局最期の母の死に顔を
遠路はるばる来てくれた姉と義理の兄は拝むことができず
それがかなったのは風邪で発熱する中施設に母の死亡確認に行った私だけとなりました

その3週間ほど前には叔母が亡くなっており
姉と義理の兄の香典を私が預かって行ったんだけど
近くに住んでいる私だけが叔母の死に顔を拝むことができました

そうしてさらに先日

こういうことって重なるもので

私が夜の蝶として顔を売り名を馳せその界隈で不動の地
位を確立するに大きな力となってくれた方が亡くなったので
お通夜へはせ参じてまいりました

大勢集まってみんなで飲んで食べて楽しく歓談
まさに彼の望む形だったのでしょうか....
こんな何もない私が
そこに集まる大勢の方々を知らないなって人はほとんどなかったことに驚きこれだけの人を集める彼のすごさに驚きながらふつふつと思い出していました

彼に出会っていなかったら
私はこの街で、こんなにみんなに知られることもなく
あんなにホステスとして学びの機会を得て
こんなに成長させてもらうこともなかったでしょう

今も思い出す彼との初めての出会いの日.....
まさにある種の運命の出会いであったことは否めません

折に触れ
私を思う愛情を目いっぱい注いでくれた大切な人
やはりこの時も、彼の死に顔を見させていただきました

叔母や母の時とは違い
お顔を見せていただくのになかなかの勇気を要し
一人で辛かっただろうなと 初めて人の死に後悔の念を覚える瞬間でした

感じることは......

みんな死んだらおんなじなんだなってこと

それは

同じだけみんな痩せこけて
同じように口が半開きで
同じように目も開いたりしてて
同じように肌は白く艶よくシワもなく
同じように骸骨に沿って顔の皮がぴったり張り付いて.........

外を歩く人々を見て
みんながみんな、実は何でもないただの仮の姿を借りて
今、この地球に存在しているに過ぎないんだと
深く深く感じさせられました

高齢の親御さんと歩く息子さんや娘さん
今、お世話していることをしんどいと思っているかもしれない
早く解放されたいと心のどこかで思っているかもしれない
あるいはできるだけのコトができる息子/娘でありたいと
日々心を砕いておいでかもしれない

もちろんお世話は楽ではない

お金のコト、時間のコト、世話をする立ち場の人間の体力的なコト、メンタルのコト.....いろんな思いが渦巻く中
一緒にその〝 時 〟を歩いていることだろう

お年を召して肉体の衰えを隠せない身体とともに
残りの人生があとどれくらいか全く見えない中で必死に生きている方々
身体のためにお散歩に励み、食べることも努力して
一応にみな同じ服装に身を包み
自分の人生の時をただ淡々と刻んでいる、
もたらされる最期に向かって.......

自転車や車で走り抜けていく若い世代の方々
背広や作業服に身を包み今の日本を支える中高年の方々

小さなお子さんを連れて
日中のお買い物やお散歩に出かけてきている若いお母さんたち

私の自転車の横を元気に走っていく
まだまだ夢と希望にあふれた中学生や小学生

「死」なんてものを深く感じたことはないだろう

でも、だれもだれもが
みんながただそこに 仮の姿で存在している


あなたのその姿はみんな正真正銘のあなたではないんだょ

真のあなたを包み込んで仮の形を呈しているだけなんだょ

それなのに
何故美しさを気にするのか?
何故見た目を気にするのか?
あなたの真の姿はどこにある?
あなたの真の姿は誇れるものになっている?
あなたの真の姿をいつ何時も堂々とさらけ出すことはできる?

一つの魂として
そんな瞬間を意識したことがある?

肉体は嘘のあなたに過ぎない
肉体はあなたの全ては語らない
肉体は逆にあなた自身をごまかす立役者になっていないか?

人間って
どれだけ幻想の中に存在する虚像なんだろうか.....

毎日のようにたくさんの人が亡くなって
多かれ少なかれいろんな形で〝 死 〟に触れさせてもらって
今の姿が虚像であるという事実を無残にもはっきりと見せてくれている

もう、「知らなかった」や「わからなかった」では済まないところまで来ている
そろそろみんなが気付くときだ

自分を含め目からうろこの仮の姿という事実に
更に生きるのが楽になったなと感じる私であります



最後まで読んでいただいて

ありがとうございます


Norico

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