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青森で山根キクの足跡を追う     ~八戸キリスト史跡と「キリスト祭」~

序》

   キリストは日本で死んでおり、その墓が青森にある――

 そんなトンデモ学説を私が知ったのは一体いつだったか。少なくとも30年以上前のことだ。以来ずっと、年に一度、6月の第一日曜日に開かれるという奇祭「キリスト祭」には興味があった。

 通っていた中学高校がキリスト教主義で、聖書やユダヤ人の歴史には馴染みがあり、日猶同祖論や秦氏に関する本なども読み漁っていた。
 しかし関西で生まれ育った私にとって東北は縁もゆかりもない、まるで外国のように遠いところだった。若いころはわざわざ青森にまで行くという発想はなかった。
 専門が西洋史なので、関東に越してきてからも専ら海外旅行が趣味だったが、コロナで海外に行けなくなったのをきっかけに、日本にも「いつか」行ってみたい所がたくさんあることを思い出した。

 そして今年ついに、マニアックな青森キリストツアーが実現した。なんと土地勘のある八戸出身の方がレンタカーの運転をかって出てくださったのだ!それも、これまで一面識もなかった方である。(私は車が運転できない&キリストの墓は車でないと行きづらい。)そしてこの方の存在が、のちに予想外の奇跡を起こすことになる。
 これほどの幸運に恵まれたのは、私以外の参加者のほとんどが占星術師だったこととも無関係ではない。まさに運命、これぞ星のめぐりあわせ!
 かくして、2024年6月2日(日曜)に青森県新郷(しんごう)村で開催される第60回「キリスト祭」に参加できることとなったのである。

 そもそもなぜ、キリストが青森で没した、などと言うトンデモ話が生まれたのか。
 そのきっかけは「竹内文書」(原本は空襲で焼失)にある。詳しくは各自ググってもらうとして、簡単に言うと竹内文書とは、皇祖皇太神宮(茨城県)の管長であった竹内巨麿(おおまろ/写真)が昭和初期に公開した、竹内家に伝わる古文書で、神武以前の日本古代の、ひいては世界創成の記録である。(現在は偽書とされる。)

 竹内文書によると、イエス・キリストは十字架上で死んではおらず、ひそかに日本に渡来し、ここ新郷村で106歳の天寿をまっとうしたという。
 しかもイエスは、パレスティナで人々に広く説教をし始める以前、21歳からの12年間(すなわち福音書における空白の時代)、日本に滞在していたそうだ。そして33歳でユダヤの地に一旦帰り、処刑を免れたあと再び来日したとされる。

 ただし、新約聖書の記述からイエスの公生涯(公の場で活動していた期間)は30歳ごろから33歳ごろまでの3年間と考えられているので、実は計算が合わない。(ちなみに竹内文書ではキリストだけでなくモーセも孔子も釈迦も日本に来ていたことになっている。)

 竹内巨麿は昭和10年に戸来村(現・新郷村)を訪れ、旧家で古くから大切にされてきた塚を見つけて、イエス・キリストの墓であると断定した。その塚は墓所舘(はかどこだて)と呼ばれる小さな丘の上に2つ並んであり、当時は小笹で覆われていて、もちろん十字架は立っていなかった。

 竹内文書に大いに影響され、また自らの信仰における疑問点を払拭するため、青森で綿密なフィールドワークを行ったのが、クリスチャンだった山根キク(本名・菊子)である。
 彼女は山口県に生まれ、横浜神学校を卒業し、その後は政治活動をするとともに日本古代史への関心を深めた。そして青森での調査の成果を昭和12年『光りは東方より』という書物にまとめたが、これはすぐに発禁処分となった。戦後の昭和33年、さらなる調査結果と、戦災で失われたために撮り直した写真を加えた『キリストは日本で死んでいる』が刊行される。 
 これら山根キクの著書が、キリスト青森渡来説および「キリストの墓」の存在を広く世に知らしめることとなった。(キクはキリストの享年を106歳ではなく118歳としている。)

 今回の旅は「キリスト祭」に参加するだけでなく、山根キクの、ひいては八戸市内におけるキリストの足跡をたどることも目標にしている。なお本レポート内の 太字の引用文 は全て、山根キク著『キリストは日本で死んでいる』新装第一刷、平成3年発行(たま出版)からの引用である。
 またキリスト渡来伝説とその周辺の出来事については複雑な経緯と様々な説があり、そのうちのいくつかを紹介したものに過ぎないことをお断りしておく。
 
 山根キクは昭和40年(1965年)に亡くなるが、その前年の1964年に第1回キリスト祭が実施されたので、今年2024年はキリスト祭が60回目を迎えるだけでなく、キクの60回忌でもある。
 そして我々が八戸を目指して東京から東北新幹線「はやぶさ」に乗り込んだのは祭前日の6月1日。くしくも山根キクの誕生日であった。

  「 いでや読者諸兄姉と共に、肉体を持った聖者キリストが、
    日本に残した実際の足跡に向かって、
    紙上探査の歩みを続けん。 」


【 DAY1 】

★キリストっぷで散財

 6月1日13時すぎ、八戸駅に到着。我々より1日早く八戸に帰省されていた八戸出身東京在住のA氏が駅で出迎えてくれた。
 今回のツアー参加者は総勢5人。私が最初に勧誘した(笑)某大学大学院のH先生、そして顔が広いH先生の呼びかけに応じてくれた、A氏を含む3人の占星術師、そして私である。

 八戸駅から、A氏の運転するレンタカーでただちに新郷村にある「キリストの墓」を目指す。祭当日は人が多いだろうから、事前に平時の「墓」をゆっくり見ておこうというわけ。
 八戸から新郷村を通って十和田湖へ至る道は「キリスト街道」と呼ばれており、市内から「キリストの墓」を含む「キリストの里公園」までは車で西へ小1時間だ。
 さあ、信号が一つしかない新郷村へGO!(昔は「信号のない新郷村」だったらしい。その方が言いやすかったのに…。)

 新郷村はむかし戸来(へらい)村といい、この「へらい」という音が「ヘブライ」に似ている、というのも(似ているだけなのに)キリスト伝説の根拠のひとつ。キリストの墓がある場所の住所も、「新郷村大字戸来~」である。
 道中、地元民のA氏がいろんな話をしてくれた。例えば「戸来」は地名だけでなく人の苗字にもなっているそうで、小学校のクラスメイトに「戸来くん」がいたそうだ。 
 地元の人にとってはなんでもないようなことでも、キリスト伝説マニアにとっては、ほう!お目目キラキラ!となる。

 さて最初の目的地に到着。それはキリストの里公園の駐車場にある土産店「キリストっぷ」である。名前からして「いいのか、それ」とつっこみたくなる。土日しか営業していない。しかも営業時間は

…そう。「10時から3時まで」ね(笑)。

 商品名もいちいちシャレがきいている。看板娘のおばちゃんたちも愛想がよくて商売上手。商品の説明が丁寧。私はいきなり一万円ちかく散財してしまった。なにせここで買えるお土産は通販を一切行っていない。ここに来なければ絶対に買えないのである。

 ちなみにレジはない。おばちゃん二人のうち一人が、私の買った大量の商品の名前と金額を言い、一人がそれを鉛筆でメモに書きつけ、最後に電卓で計算。途中、これいくらだっけ、とか言いながら。もはや計算が合っているのかどうかわからないが、この店に来られた感激のあまり(?)、言い値を支払った。(いやいや、計算はちゃんと合っているはず。)

 米など農作物は重いので少しためらったが、これこそ新郷村を応援することになる、と思い購入。いずれも有機栽培。

◎購入品リスト

・キリストっぷ タオル
・キリストの墓 タオル
・キリストっぷ ミニタオル(ブルー)
・キリストの遺言 手ぬぐい
・キリストっぷ ランチトート(バッヂ付き←お得ですよ、とおばちゃん)
・ピラミッド&キリストの墓 道路標示Tシャツ(ブルー)
・キリストの墓参拝記念 絵馬
・キリスト聖米(玄米ならぬ現米もある)
・キリストの墓の「そば」に行ってきました
・人はパンのみにて生きるものにあらず(要するにうどん)

 ここの定番(?)は
「キリストのハッカ飴」(墓=ハッカ/飴=アーメン)
なのだが、私はハッカが苦手なので買わなかった。いま店内の写真を見返したら「そばの実」を売っていて、そばより珍しいからこっちにすればよかった、と思ったりしている。

 上のお土産集合写真には、このあとで行く「キリストの里 伝承館」で購入した、
・第一回キリスト祭記念手ぬぐい(復刻版)
・ナニャドヤラ湯飲み
・ひょうたんキーホルダー
もいっしょに写っている。

 ずっしりと重い紙袋を受け取って店を出たら、この「キリストっぷ」を発案した店長のTさんがいらした。
 びっくりして思わず大声で「わああ、こんにちは!」と、まるで久しぶりに会った友達ででもあるかのようにあいさつしてしまった。あわてて言い訳がましく、そばにいたH先生に「あ、いや、知り合いではなく、ここの店長さんです」。
 するとH先生は「一緒に写真を撮ってもらったら」。おお、それはナイスアイディア!と思ったら、さらに続けて「この人、30年前からここに来たかったんですよ」と余計なことまで。恥ずかしい(汗)。

 ともかくも店長さんと一緒に写真を撮ってもらい、買い込んだお土産を車に入れて、いよいよ「キリストの墓」へ。

  「 以前は淋しい道に添うた丘を見上げて、草叢の生い茂った中の
    一本道の曲りくねった細道を頼りに登った辺りが、今は消えて、
    丘は切り開かれ、広い登り口となっている。 」

★気の毒な澤口氏  

 整備された上り坂の遊歩道を上がる。「キリスト祭」の幟がはためいている。これは明日の祭のためか、あるいは年中あるのだろうか。
 しばらく進むと左手に現代風の墓が何基か現れた。見れば「沢口家」とある。
 「キリストの墓」の墓守の一族、澤口家の墓ではないか!

 そう、「キリストの墓」を含む「キリストの里公園」一帯は、そもそも地元の旧家である澤口家の敷地なのである。
 キリストの子孫だとか、顔がキリスト(外国人)っぽいと騒がれた澤口家の当主はここに眠っているのか!
 墓誌を見ると、ちゃんと澤口三次郎氏の名前があった。その墓が見つめる先にこそ「キリストの墓」がある。

 山根キクは昭和12年(1937年)に、村人から「ミコのあと」とあだ名される澤口家の第5代当主、三次郎氏(1897~1969)と初めて対面した。
 彼を知る老人が2008年に語ったところによると、三次郎氏は細面で鼻が高く、不思議なことに目が青みがかっていたという。さらに澤口家の家紋はダビデの星(六芒星)に似ていた。(実際は花弁が5枚の桔梗紋。)
 私から付け加えると、キリストのことを“神の御子(みこ)”と呼ぶこともよくある。
 キクは澤口三次郎氏をキリストの子孫である、と世に紹介した。氏は一躍有名人となり、村でも「澤口家はキリストの血を引く家かもしれない」「三次郎氏はキリストに似ている」と評判に。(…似ているって、本物のキリストを見たんかい!とつっこみたくなるが。)
 あとで訪れる伝承館(資料館)の建物の正面には、澤口家の家紋が掲げられており、中には三次郎氏の写真も展示されている。
 キリストに似ている似ていると言われ、三次郎氏は徐々にその気になり、自分がキリストの子孫だと信じるようになった。

 ところがである。

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