【廻るピングドラム考察2】 愛による死を自ら選択した者へのご褒美の林檎とは?

※この記事はネタバレを含みます。

「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」
「運命の果実を一緒に食べよう」

引き続きピンドラの考察記事です。前回の記事ではピンドラの3つのキーワード、「運命」「愛」「罪と罰」のうち「運命」と「罪と罰」について取り上げました。

ということで....今回は「愛」についての記事です!!!!
私はピンドラで描かれる「愛」が本当に大好きなのです。


1. 最終話 「愛してる」 を振り返る

最終話、冠葉と晶馬は二人で愛する人の罪を引き受けて蠍の炎に身を焼かれて命を落としました。

自己犠牲による解決は、他人の幸せと引き換えにその人自身は不幸から抜け出せずに終わり、やりきれない気持ちになることが多いです。なので、一見するとバッドエンド...のはずなのですが、不思議と見終わった後のやりきれなさは残りません。

なぜなら、「死を選択したご褒美の林檎」を受けとり、犠牲になった冠葉と晶馬も幸せを手に入れられたハッピーエンド、というように描かれているからです。

「つまり林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。」
「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」
「おしまいじゃないよ! むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ。」

でもそれってつまりどういうことだ?

アニメを見ていたら林檎=愛ということはなんとなくわかると思います。
つまり「自己犠牲によって林檎を受け取る」は単純に考えると「自己犠牲と引き換えに愛(感謝の気持ち?)を受け取った」ということになります。
んん??待てよ??人は「犠牲」の代償に「愛」を得られるっていうそんな損得感情的な話だっけ?

なんだかこれは違うぞ!ということで、他の方の考察サイトを巡りつつ自分なりにもう一度考え直してみました。
この記事では、私なりの答えについて書いてみようと思います。

2. 結論 : 愛による死を自ら選択した者がご褒美の林檎を手に入れられるのは...

結論として、「愛による死を自ら選択した者が林檎(=愛)を手にできる」のは「人間は自分が愛している人にしか自分の罰を渡せない」から、「誰かの罰を引き受けることができたという事実は、自分がその人から愛されていることの証明になるから」ではないかと思います。

3. 誰かに愛されている=罰を背負うことができる?

「ピングドラムを手に入れる」ことで、彼らは「運命の果実」を、「愛」と「罰」を分け合うことができました。

ここで注目したいのが、運命の果実を分け合ったということは「誰かを愛する=罰を背負うことができる」が成り立つと同時に「誰かに愛されている=罰を背負うことができる」が成り立っているということです。罰を一緒に背負いこむことで救済するためにはどっちの図式も成立している必要があるのです。

「誰かを愛するからその人の罰を背負うことができる」はなんとなく分かります。君のことが大好きだから、君の苦しみを引き受けても辛くない!という気持ち。

しかし、この一方的な気持ちだけでは人を救うことはできないんだということが物語の中で示されています。途中、冠葉は自らの体を削りながら愛する陽毬の罰を引き受けようとしましたが、二人とも苦しそうでした。上手くいかなかったのは陽毬が眞悧的な冠葉を愛する(=受け入れる)ことができなかったからです。「誰かを愛する=罰を背負うことができる」だけでは「運命の果実を分け合う」のには不完全なのです。

だからこそ、「誰かに愛されている=罰を背負うことができる」(=愛している人に自分の罰を受け渡す)が成り立ってなきゃいけないのです。「罰」はその人の心の深いところに根付いているものなのだと思います。だから人間は自分が愛し、自分を愛してくれている、心の深い場所で自分とつながっている人にしか、その「罰」に触れてもらうことや受け渡すことができないのではないでしょうか。

4. 身近な「愛されているからこそ背負える罪」

わかりにくいので少し具体的に考えてみましょう。

例えば、自分がうっかり友達の大切にしていた高価なものを壊してしまったとしましょう(ものを壊した罪)。その罪を償うためには「自分を責めてもらって精神的苦痛を受ける」とか「お金で弁償する」といった罰を受けなければなりません、嫌ですよね。

さて、この罰を誰かが一緒受けてくれるとしたらどうでしょう?
例えば家族。両親が友達に一緒に謝ってくれて、弁償するお金を少し負担してくれた。情けない気持ちもあるかもしれませんが、確かに少し気が楽になる気がしませんか?

ここで、たまたま横にいた無関係の人が勘違いで罰せられそうになったらどうでしょう?「ラッキー!」と思う人もいるかもしれませんが...あなたのモヤモヤは残ったままになるのではないのでしょうか?だって関係ないその人が罰せられても自分の罪は消えません。「罰」は消えても打ち消せなかった分の「罪」は残ります。

はたまた、自分はそこまで好きでは無いけれど、いつも積極的にアプローチをしてくれる、きっと自分のことが好きなあの子。「一緒に怒られにいくよ!」といったらどうでしょう?ありがたいけれども、その申し出を引き受けてもやっぱり罪悪感が残るのではないでしょうか?

そうなのです。罰はというのは信頼している人としか分け合うことができないのです。誰かが罪を背負うことを申し出てくれたとしても、その人に自分が心を開いていなかったらその人は罪に触れることすらできないのです。自分の信頼する愛する人が自分の犯した罪を受け入れ、引き受けることを申し出てくれたことで、やっと救われることができるのです。

5.最悪の罰は最高の愛

「死」とは最悪の罰であると考えられます。つまり、誰かの最悪の罰を受け渡してもらうことで、その人は自分に最高の愛を与えてくれていることを確かめられるのです。この愛こそが「愛による死を自ら選択した者へのご褒美」と言えるでしょう。

運命の果実を分け合った二人の片方が死をもって罰を受けることで、残された方は果たさなくてはならなかった罰から解放されてようやく社会の望む生き方ではなく、自分らしく生きることが許されます。

では死を引き受けた片割れは不幸せなのか?と言われたらそうではありません。最高の愛と最悪の罰という強いつながりで結ばれた時点で二人の心にもはや区別は無いのでしょう。相手の幸せは自分の幸せ、自分の苦しみは相手の苦しみ。相手の心=自分の心。だからたとえ肉体が滅んでしまったとしても開放された相手の心の中で自分の心も共に生き続け、「そこから始まる」ことができるのです。

「つまり林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。」
「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」
「おしまいじゃないよ! むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ。」

6.まとめ

改めて言葉にしてみると、ピンドラで描かれている「愛」の考え方は本当に崇高で美しいものだと思えます。綺麗事である、とさえ言えるかもしれません。でも、だからこそ本当であって欲しいと願ってしまいます。

なぜなら、私はいつも失敗してばかりだし欠点もたくさんあります。だから私の側にいてくれる人たちには、私の失敗や欠点に振り回されるという「罰」を常に与えていることになります。時には、大切な人を自分の「罰」に晒し続けてしまうことがとても嫌になって消えたくなります。でも、そうやって自分の「罰」を素直にさらけ出すことで、誰かに「苦しみ」だけではなく「愛」を分け与えられているとしたら。

もしそれが事実なら私はこれまでよりも少しだけ肩の力を抜いて生きることができるでしょう。


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