5月6日 サンダルと、ブラジャー【今日のもじょもじょ】
サンダル、右足の中央部分
今日は雨が降っていたので、サンダルを履いた。
昨日のイベント出展でちょっと仲良くなった子が出るということで誘ってもらったイベントの会場まで、住んでいるところから歩いて40分のところまで歩いて行った。
帰りにカフェと本屋に寄って、すっかり暗くなった神戸の街を、また歩いて帰ってくる途中、右足の真ん中が痛い。
ストラップが丁度かかるところの骨。足が木になったような感覚。木になったような硬い感覚があるのに、私の神経はやわらかく痛みを持っている。その奇妙さ。
足を硬く動かしているから良くないのかと思い、ぐにゃぐにゃと可動域を広げながら歩いてみる。それでも結局変わらずに痛いので、再度足を木にする。この硬さは痛い足を庇うためのものだったのだ。
呼吸が浅くなっているのを感じる。うっすら私の裏側に隠れている涙を、ずっとこらえているような感覚。
私は触覚が過敏だったわりに痛さには鈍く、怪我や病気をした際にも発見して病院に行くのが遅くなり、親はときどき虐待を疑われていた。
今も痛みには結構強い方だと思っているが、痛覚が鈍いのか、感じてはいるが我慢する力があるのか、どちらかはわからない。
でも私は、この浅い呼吸の感覚を、生きている時間の結構多い割合で感じているかもしれない。
ブラジャーという、作為的な胸部圧迫装置
私はブラジャーが嫌いだ。社会の中で、自分の女性性を自分に対して社会に対して露わにするもの全てがとにかく嫌い。(この不快感についても、また深く掘り下げていく必要があるが、これは経験上なかなかに込み合った不快感でもあるのでまた後日)
小学校高学年ころから周りの女の子たちに第二次成長が始まっていくのを横目に見ていて、静かに、でも激しくおののいていた私。
自分の胸がああして女のようになっていくのは耐えられない。腰回りも、足も、腕も、全てが”女性らしく”なっていく彼女たち。生理が始まった子たちもいる。見ている限り、その主な要素は脂肪であるように見えた。
だから私は、絶対に肥えないようにしようとした。軽度の拒食症だったと思う。
家で出された食事は完食しなければ母の機嫌が極端に悪くなるので食べていたが、間食は基本的せず、そのときできる最小限の食事をし、なにかしら動いて身体を絞っていた。
その努力の甲斐もあり、私の胸は胸筋ほどに成長するだけでとどまった。
そんな私の胸は、どのブラジャーをつけてもカパカパになる。
市販されているものは無駄に大きく見せられるものばかりで、本当に嫌になる。私の求めるものを何もわかっていない。
だから、小学生がブラジャーを使う前に保護者から与えられるような、胸元が2重になっているシャツとかを普段着ているが、ちょうどいいサイズで大人でも着れるようなものはあまり多くない。
そんな中で、サイズを上げるようなものではないピタっとしたブラジャーを見つけた。竹でできていたり、環境配慮的なブランディングも相まって、結構気に入って買ったものの、これはこれで締め付けが強い。ナベシャツのようなものなのかもしれない。
いろんな試行錯誤を経てふと、なぜこんなものをつけなければならないのか、という苛立ちが自分の中でふつふつと燃え上がってきたのがここ最近である。
この苛立ちにはもう一つのきっかけがあった。
私は障害者向けグループホームで宿直のバイトをしているのだが、そこの利用者である若い女性が、「ブラジャーを付けていないこと」をその人が通う作業所から指摘された。
それを、同年代で同じ女性である私から注意してほしい、と言われたのだ。
そのとき私は、だぼっとしたトレーナーを着ているからとブラジャーを付けずに出勤していた。私にはそれを注意することはできない。
なぜブラジャーを付けなければならないのか、別にいいんじゃないかとそこにいた同僚のおじさんたちに言ってみても、「さすがにねえ」と言うだけでその理由は何も出てこない。
男の人たちの勃起は、見ても見ないふりをしている社会の人々なのに。それができる人たちなのに。
なぜ私たちは視界に入ったその突起を脳内から抹消しながら、自分の突起を人の目から隠すために胸元をきつく縛りつづけなければならないのだろう。
その疑問を抱いてしまってから私は、ブラジャーを付けることにこれまでより一層の抵抗感を感じるようになってしまい、最近はほとんど付けていない。
それでもまだぴたっとした服を着るときにはやっぱりなんだか居心地が悪いので、ブラジャーを付けている。今日は半袖のニットの服を着ていたので、久しぶりにブラジャーを着た。やっぱり苦しかった。
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