【書評】渡邉雅子『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』-今、歩むべき道-
はじめに
常識とは何か
論理的という言葉がある。日々の生活でもよく耳にする言葉だ。どうやら現代社会においては、論理的であるということに価値があるらしい。実際私も論理的であるという評価を受けることがある。(それと同じくらい理屈っぽいとも言われるのだが)その部分に着目すると、論理的という一つの型があり、その型は普遍的であるという印象を受けるだろう。
だが、それは違うと渡邉雅子は主張する。
渡邉によると論理や思考の源泉にあるのは「書く型」である。その差異が結果として論理や思考の差異として表出したのだと言う。
つまり、「論理的な思考」とは、複数社会において共通とされる普遍なものではなく、むしろ、それぞれの社会において観測される特殊なものであるのだ。渡邉は応用言語学者であるロバート・カプランの研究を引用し、続ける。
論理的と感じる根拠が感覚に起因するものだという指摘。私達の思考、その基盤にあるものが、実は作られたものであるという事実。渡邉の研究は私達のもつ常識を根底から覆す。さながら、映画『マトリックス』のように。
渡邉は「論理的思考」の基盤にあるのが、作文・小論文教育に見られる〈論理〉と、歴史教育に見られる〈推論〉であると指摘する。そして、それらの教育は各国の明確な意図の基に構成されており、その過程を分析することで、各社会における「論理的思考」を比較できると主張した。
この書評では、渡邉の主張を紹介しつつ、私達の考える常識が、どれほど脆く危ういものなのかを指摘する。読了後、読者諸兄姉の見える世界が変容することを約束しよう。
長い旅路へと向かう前に1つ注意点がある。以下の引用を見てほしい。
本論並びに渡邉の主張する「論理的思考」の基盤となる〈推論〉は、論理学における〈推論〉とは違うのである。今回述べる「論理的思考」とは蓋然的論理に依拠した〈推論〉を基盤としているのだ。つまり、多くの人が、「論理的だ」と思う、あるいは判断する思考法を指して「論理的思考」と表現している。この点に注意して読み進めてほしい。
加えて、もう1つ。私はこれからの文章において、1つの大いなる矛盾を書いている。賢明なる読者の皆様なら、それが何か見破ることができるはずだ。その矛盾とは何か。それを考えながら読んでほしい。
教育原理の4分類
教育の目的と手段
「論理的思考」の基盤が作文・小論文教育、ならびに歴史教育にあるという渡邉の主張から考えると、その教育原理に立ち返る必然性が生まれる。教育原理を分析することで、実際の教育を演繹的に比較できるからだ。
各国の教育原理はその目的(何のために教育をするのか)と、その手段(どのような方法で教育をするのか)とによって分けられる。この2つを軸とした対立構造として、表現できるのだ。
まずは目的として技術目的と価値目的の2つをあげる。
技術目的は、知識習得、技術獲得を目的におくため、明確な基準で達成の度合いを測ることができる。そのため、目的に対する手段として教育内容が合理化され、「模倣的学習」が親和的な学習方法なのだ。
一方、価値目的は、人格の形成を含む理念的な目的を定めている。そのため、目的に向けて努力する態度と行為が評価の対象となる。これは、対象の認識的・行動的変化を促す「変容的学習」と親和的であるということを示す。
次に、経験的知識と体系的知識という2つをあげる。これは、各国の教育原理の中で、どのような知識を重視するかを示す。どのような知識を重視するかが分かれば、必然的に、どのような手段を用いて獲得していくのかが明らかになる。そのため、この2つを手段という軸に配置した。
経験的知識はその字面通り、人間の経験を重視する。ここでの経験は個人の体験に限定されるものではない。加えて、五感によって得られるものであり、実証主義と親和性が高いと渡邉は主張する。
更に渡邉は、体系的知識は、文献を通して伝えられ、文献の暗記や厳密な引用を通して知識が伝授・活用される文献主義と親和性が高いと示す。
ここまでの主張を総括すると、目的と手段という2つの側面から、各国の教育原理を大別することができることが分かる。このように整理されると、この事実が自明のものであると受け取りがちだ。国によって教育原理が違うなど、当然のことだ、と。
しかし、重要なのは、なぜ違うのかと問題意識をもつことである。加えて、教育原理が違うことでどのような差異が生まれてくるのかと思考することだ。
各国の教育原理
経済原理は技術目的×経験的知識で表される。この教育原理を重視する代表的な国がアメリカ合衆国だ。ここでは、経済を支える労働者の育成が目的となる。そのため、教育目的・内容・方法は、いかに効率よく知識を習得し、技術を獲得するかに集約される。
ここで重視されるのは徹底的な合理化だ。教育の成果や目的達成度は制度化され、誰が見ても明らかな基準に照らし合わせて評価される。換言すれば、データをベースとしたエビデンスが重視されるのだ。
政治原理は価値目的×体系的知識で表される。この教育原理を重視する代表的な国がフランス共和国だ。ここでは、自律した政治的主体としての市民を育成することが目的となる。重要となるのは、市民それぞれが公共の利益を考え、政治参加するために、個人よりも集団を優先とする知識の伝授だ。
ここで重視されるのは継承されてきた共通教養である。長い歴史の中で受け継がれてきた価値観や、先人の知恵を、如何に体系的に紐づけ知識として獲得しているか。個人において求められるのはその運用である。加えて、それらを取捨選択しながら、複数の視点から問題を吟味する思考法も必要となる。
法技術原理は技術目的×体系的知識で表される。この教育原理を重視する代表的な国がイラン・イスラム共和国だ。ここでは、宗教的、思想的、科学的に確立された「真理」を、「規範」として修得することが目的となる。重要なのは、絶対的な権威をもつ書物を暗記し、行動や思考を原典に立ち返って意味づけることの習慣化だ。
ここで重視されるのは「真理」に帰結させることである。この教育原理においては、「真理」は既に絶対的な知識であり、いかにして、この結論へと導くプロセスも、技術として体系化されている。体系的知識を重視する点はフランスと似ているが、イランで求められているのは、その体系的知識に向かう技術の修得であり、その点でフランスと決定的に違うのだ。
社会原理は価値目的×経験的知識で表される。この教育原理を重視する代表的な国が日本だ。ここでは、他者および自己との対話を通じて、社会秩序を成り立たせる道徳心を育成することが目的となる。重要なのは、他者との相互関係という「場」に応じて、知識や思考を柔軟に活用する力の育成だ。
ここで重視されるのは教育全体の「過程」であり、その「過程」を経てどのように変容したのかを、メタ認知することにある。ここがアメリカの教育原理とのはっきりとした違いだ。アメリカでは「どのような」知識を修得したかが問われるが、日本では「どのように」知識を修得したかが問われる。
これらの4分類を図式化したものが以下である。次章では、この4分類を基に、「書く型」の違いが「論理の型」「思考の型」にどのように影響しているかを見ていく。
4カ国の思考表現スタイル
経済原理(アメリカ)-エッセイの論理と思考法-
アメリカのエッセイでは素早く効率的に話のポイントを伝えることができる。これは最初に結論である主張を述べてしまうエッセイの構造に起因すると、渡邉は指摘する。
最初に結論を述べるというアメリカのエッセイ。これは技術目的×経験的知識で示された経済原理が根底にある。この原理で重要視されるのは、多種多様な情報から、最も早く確実な手段を選択して目的を達成することだ。
エッセイにおいて求められるのは、主張を簡潔に述べることと、その主張を支持する事実を端的に示すことである。その事実は明証的なものでなければならない。そして、主張と根拠となる事実との繋がりを示すことで、その主張は論理的であると示される。
アメリカ型の論理的な思考とは、目的と手段との強固な繋がりによって生まれる。それを明確な型として示したのがエッセイだ。エッセイの型に沿って思考することで、必然的に目的と手段とが一致した論理的な思考になる。その思考の流れを、渡邉は「逆向きの因果律」で設計されていると指摘した。
日本型の論理的な思考との相違点は、時間軸的な独立性にある。日本型では時間軸に沿って論理を展開することが是とされる。だが、アメリカ型にとってはそれは悠長な歩みであり、主張と事実との分離を生む、非論理的な行為なのだ。
政治原理(フランス)-ディセルタシオンの論理と思考法-
フランス式小論文であるディセルタシオンは導入、展開、結論の三部から成り、展開部分は〈正-反-合〉の弁証法を基本構造としている、と渡邉は述べる。
展開部分で繰り広げられる〈正-反-合〉の弁証法。これは価値目的×体系的知識で示された政治原理が根底にある。この原理で重要視されるのは、自律した政治的主体としての市民を育成することだ。そのために必要となるのは、あらゆる命題に対してその本質となる定義を抜き出すこと。そして、その定義を〈正〉〈反〉異なる立場から吟味し、〈合〉を導き出すことである。
ディセルタシオンで求められるのは、過去の体系的な知識を適切に配置する能力である。先人達から受け継いできた知識という結晶を、「どのような見方の知識か」と再分類し、論理の型に当て嵌めていく。そうして組み上げられた論理構造は、系譜学的な幹に支えられた強固な大木となる。
フランス型の論理的思考とは、様々な視点から問題を論じることから生まれる。そして、その視点とは体系的な知識に立脚したものでなければならない。過去の知識に現代の知見という息吹を吹き込み、ルネサンスさせることが求められるのだ。知識や技術はただ在るだけでは意味がない。それを適切に配置させることが重要であるのだ。
日本型の論理的な思考との相違点は、当事者意識の有無にある。日本型では個人の経験や科学的な証拠が論理を支える根拠となる。加えて、その経験や証拠を知ることによって、自己がどのように変容したのか、あるいは自己がどのような立場にいるのか、当事者意識をもって表現する。
だが、フランス型では、あくまでも自己は論理を配置する外部的な存在であり、自己の主張は導入部分で定義される概念の中に内包されている。故に、フランス型の論理構造において、当事者意識は組み込まれないのだ。
法技術原理(イラン)-エンシャーの論理と思考法-
イラン式作文であるエンシャーは主題・序論・本論・結論の構造から成立している。
最初の特徴として主題が挙げられる。以下の4つはエンシャーの代表的な主題だ。
自然現象
社会・人間
宗教・道徳
国家(愛国心)について
これらの主題に対して、序論・本論・結論で意見を述べていく。本論の中で3つの意見が出てくる構造は、アメリカのエッセイと類似している。しかし、各論で述べられる意味づけと論理は大きく異なると渡邉は言う。
エンシャーでは頻繁に比喩や詩が求められる。この点は、哲学者達の引用を重視するフランス型のディセルタシオンと近い。これは、イラン型の教育原理である法技術原理が、技術目的×体系的知識で構成されていることに起因する。エンシャーもディセルタシオンも体系的知識を重視する点がこの類似を生む。
エンシャーで特徴的なのは結論があらかじめ決まっている点だ。ありとあらゆる命題を、決まった結論に帰着させる技術がそこでは問われる。法技術原理においては、宗教的、思想的、科学的に確立した「真理」を「規範」として伝えること。それこそが教育の目的であると渡邉は述べる。
構造的な部分を述べるだけで、日本型の論理的な思考との違いは明確だろう。渡邉の小括を引用する。
社会原理(日本)-感想文の論理と思考法-
日本の作文教育で特徴的な点は感想文だ。感想文は「序論」「本論」「結論」の三部で構成される。
「序論」で述べられるのは書き手の背景と、それまで対象に対してもっていた感想だ。書き手の心情や内面、価値観といった個人的な部分に焦点を当てる。
「本論」で述べられるのは対象を通した体験であり、その体験を通して何を学んだか、時間軸と共に整理していく。さながら時間という川の流れに身を任せるように。体験の最中に自己は思いを馳せる。
「結論」では、そんな体験を通じて変容した自己を紡ぐ。「序論」でもっていた自分の感想が、どのように変化したのかを述べ、今後の人生への展望を述べる。
社会原理は価値目的×経験的知識で表される。ここで求められるのは、他者及び自己との対話を正当化させる人格の形成だ。他者との共感性を重視し、他者との連帯によって社会秩序を確立する。日常生活の中から、自己を変容させるきっかけとなる出来事を切り取り、描写する感想文。それは、生活という他者との相互関係の中に、喜びを見出す目を養うことに他ならない。
更に、その体験を通じた自己の変容を肯定的に解釈し、経験として昇華させるのも特徴的な点だ。経験を重視する社会原理の精神がそこにはある。アメリカ型の論理的思考と違うのは、その経験はデータや実験結果といった明証的なものではなく、自己と他者との相互関係に立脚しているという点だ。
日本型の論理的な思考は、主張と共に、時間軸に沿って事実を述べる。論理の中で、思考の道筋を追体験するのだ。そうして同じ論理過程を相手と共有し、その是非を問う。その点が他国の思考表現スタイルと大きく異なる点だ。
ここまでが4か国の思考表現スタイルである。渡邉はスタイル間の優劣を述べてはいない。提示されたのは分析された結果である。それを元に私達がどのように思考し、社会へと参加していくか、それが求められている。
では、社会原理である日本の中で生きている一員として、私はこの知見をどのように生かすのか。私は論理的思考とは万国共通の論理的体系の枠内にあると考えていた。論理学の観点においてはそれは正しい。けれども、日常生活でのエンテュメーマにおいては間違っていた。
次章では、社会原理を下敷きに、私達がどのような価値観を重視するのか、1つの指針を述べる。
私たちはどう生きるか
歩むべきは絶望への道
常識は覆った。論理的思考という土台は、共通のものではないと渡邉の研究が明らかにする。それによって既存の価値観を見直す必然性が訪れた。この章では、その私がどのようにして価値観を変容したのか、その過程を述べる。まず依拠したのがヘーゲルだ。
ドイツの哲学者であるヘーゲルは弁証法的論理学を展開し、後世の哲学者に多大なる影響を与えた。彼の言う弁証法とは、フランスの政治原理でも述べたものと等しい。〈正-反-合〉のプロセスを経て、相反する2つの意見を止揚させた新たな意見を導き出すことそのものである。ヘーゲルはその主著『精神現象学』の中で以下のように述べた。
生活の中で思い込んでいた自分の中にある常識。それが否定される経験をヘーゲルは「絶望への道」と表現した。そして、それは何も特別な経験ではない。日々の生活において、他者と関わる中で頻繁に経験するものである。
ヘーゲルは意識の成長において、この「絶望への道」を重視した。真理というありかたを失っても尚、その歩みを進める意識の歩みを賛美する。信じていた〈正〉を否定する〈反〉と出会い、その先にある〈合〉を目指す営みを肯定したのだ。
フランスの政治原理でも、日本の社会原理でも、共通するのは価値目的という点だ。答えのない「良き市民」や「人格の完成」を目指す両者は、その過程において多様な価値観に触れることを求める。フランスではそれが体系的知識であり、日本ではそれが経験的知識であった。
ヘーゲルの言うほんらいの経験とは、先述したように、自己の信じる常識が否定される弁証法的な運動を含んだものだ。その過程を経て、変容した自己を生み出すものを、ヘーゲルは経験と呼ぶ。そして、それは感想文の倫理で見た、社会原理において求められる経験の相似形だ。
感想文で求められるのは経験を通じた自己の変容である。そして、変容に価値を置くことで、他者と協働する社会秩序を生み出していく。その過程は、ヘーゲルのいう精神の成長を生み出す経験に他ならない。
そして、ヘーゲルとはまた別の言葉で経験を述べる哲学者がいた。デカルトである。
先駆者としてのデカルト
フランスの哲学者デカルトは、『方法序説』の中で以下のように述べている。
多種多様な学問を修めたデカルトは、書物の中から学ぶ学問を離れ、世界との関わりの中に自らの身を置いた。そして、ヘーゲルの言う「絶望への道」を歩むことを選ぶ。彼が重視したのは経験だ。それも、自分に試練を課すような、反省を要求する経験を。彼の道筋は何を導き出したのか。哲学の歴史上において残り続ける彼の偉業を小林秀雄は書き記す。
デカルトの歩みから何を学ぶのか。私は、歩み続ける尊さを述べたい。小林が刻み込むように記した言葉の中に、それが示されている。真の発見とは、真理とは、ある日突然やってくるものではない。自己を否定する苦難の道の先にようやく見えてくるものなのだ。『方法序説』とは、そんな彼の苦難を記したタペストリーなのだと、小林は述べる。
そしてデカルトは、歩まぬ者へ痛烈な言葉を放つ。
東洋思想における「経験」
ヘーゲルとデカルトが経験の重要性を示した。日本を含む東洋ではどうか。ここで、孔子の問いた「中庸」という徳を用いつつ、「経験」が東洋哲学の中でどのように解釈されたかを示す。
江戸時代の思想家、伊藤仁斎は『中庸発揮』という著作の中で「中庸」について以下のように述べた。
中庸とは単なる知識ではない。知っているだけで効果を発揮するような徳ではない、と仁斎は言う。中庸とは知の働きであり、知を働かすその方法であるのだと続ける。孔子が「中庸は、其れ到れるかな」と述べているのは、この徳の定義よりも、働き方に注目しているからだと言う。
中庸という言葉だけを指して、それの意味しているところを解釈することに意味はなく、その両極端を経験してみない人に、どうして中庸の知恵が得られるのだろうかと仁斎は述べる。
ここでも重視されるのは経験である。孔子は「君子は中庸し、小人は中庸に反す」と述べ、それに続けて「君子の中庸は、君子にして時に中す。小人の中庸は、小人にして、忌憚するところなし」と述べた。その言葉を仁斎は味わうべき文章だと述べる。
両極端を経験して尚、中庸を執る力には差異が出てくる。つまり、経験したことをどのように体系づけ、自分に落とし込めるのか、その点に賢者と愚者との差が生まれるのだと言う。ヘーゲルとデカルトが経験に価値付けたのに加えて、仁斎と孔子は、それによって生まれる新たな価値観にもまた、深さがあるのだと述べた。
真実へと歩み続ける
渡邉の指摘を通じて、私は常識を塗り替えられた。それはヘーゲルの言う「絶望への道」を歩む行程に他ならない。だが、私はその行程を経て、もう一度自分の、自分の生きている社会を見直す機会を得た。
社会原理の中で、日本社会は経験を重視し、経験を通じた自己の変容を肯定する。だが、現代社会においては、その価値観は普遍的なものではない。自己増殖を続ける資本主義が経済原理を助長し、結果を出すことの価値が増大した。タイパやライフハックという言葉に代表されるように、如何に効率よく正しい結果を出せるのかが、今の社会では求められている。
けれども、それは絶対の答えではないことを渡邉は明らかにした。社会原理の中では、混沌たる他者との出会いを通じた経験が、それによって変容する自己が、価値のあるものとされていたのだから。そして、それは今も変わらない。
本を読んだ時、著者の記した言葉に揺らぐ自分がいる。そのことが、今まで積み重ねてきた教育が、今も尚心の中に残っていることの証左に他ならないのだ。
はじめにの中で、私は本論の中に大いなる矛盾が存在していると述べた。これは渡邉雅子『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』の書評である。それは即ち、私の解釈をもとに、渡邉の著作を纏めることに他ならない。いわば、私のしている行為は、経験を重視する社会原理の要請とは真逆の、結果だけを重視する経済原理の規範に従ったものと言えよう。
だが、私は確信犯としてこの矛盾を犯した。それは、読者諸兄姉にぜひ、この本を読んでほしいからである。ここまで読んでくださった聡明な皆様なら、「読むこと」そのものの価値が理解できる筈だ。
私は意図的に、渡邉の積み上げた論理を省いて記述している。渡邉の記す論理は、緻密に計算されたピラミッドのようなものだ。読むことで追体験してほしい。一歩一歩、その確かな石段を登る喜びを。新たな階段を歩む自分を。私達の生きる社会はその歩みを肯定する。それこそが、真理へと進む道なのだから。
参考文献
渡邉雅子『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』
G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』
小林秀雄『常識について』
ルネ・デカルト『方法序説』
荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』