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便利さの代償

コーヒーがすきだ。豆を挽いて淹れている時の匂いと、その後の部屋に充満する匂いがたまらなくすきなのだ。

コーヒーを飲むときのカップはぽってりするっとしたフォルムで他にはない魅力があって気に入っている。岐阜県で活動している成田周平さんのコーヒーカップ。玉つくりという手法(手びねりの一種だそう。削ったり磨いたり塗ったりするらしい)でつくられている。

わたしの癒やしの時間には手間がつきまとう。
使っている電動ミルは蓋がボタンと一体になっていて、手で押しながらでないと動かない。豆が挽けたらフィルターに粉を移して、ミルの中についたくずをはらわなければならない。(これがかなりやっかい、若干の水分とか静電気とか?で蓋や本体に粉がこれでもかとはり付く)
コーヒーカップは飲み終わったらすぐに洗わないと匂いがついてしまうし、完全に乾燥させないと食器棚にしまうことができない。



もっと効率よくするために道具を変えることも手だとは思う。
でも、今はなんだか、その不便さを大事にしていきたいと思うのだ。

スマホがあれば大抵のことは調べることができる世の中だし、サブスクがメジャーになってからはすきなときにすきなだけ音楽を聴いたり動画を観ることもできる。
でもなぜかすぐに飽きたり忘れてしまったりする。簡単に手に入れるということは、わたしにとってひとつのもの(こと)に対して思い入れが少なくなるように思う。またはどうしたらより良くなるのかを考える時間が少なくなって不便さが教えてくれる気づきを逃しているように感じる。

不便なルールがあることで身が引き締まるし(ひとりだとどこまでもだらけてしまう)興味を持つ機会や省みる機会を得ているように思う。

便利になればなるほど、あることがあたりまえになって熱い気持ちでものごとを享受できていないなと思う。

あえて不便さを取り入れること。
あえて不便さをそのままにしておくこと。

も時には大事なことなのかもしれない。

おしまい!



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