遠く離れた訃報でも、自分事にする①

長い間、日記を書いていなかった。
私は自分の癒しとして定期的にまとまった日記を書いていたから「あ、もう生きてて大丈夫だな」と思った日、つまりポジティブになってからは書く必要がなくなってしまった。
しかしこの2週間ほど、あれこれと考えることがあって、考える量が多くて頭が爆発してしまいそうになったので久々に投稿しようと思う。

韓国アイドルの訃報。
生前から知っていたわけではなかったのでどんな人だったかもわからないけれど、ただただ、悲しい。
私は企業でヘルスケアの仕事をしているからか、これはきっと労災の側面もあるなと思ってひたすらに悲しかった。
自分の仕事にも繋がるようで、
5日ほど泣いた。

この機会に自分の中で考えるきっかけになるのではないかと考え、気分転換などはせずにひたすら悲しみを受け入れた。
6日目でメンタルが壊れそうになり、強制的に思考を止めたけど、その後も少しずつ感情の扉を開け閉めしながら考え続けている。

何を考えているかと言うと、
①もし組織の中で苦しむ人が周りにいたら?
②自分は人に「生きてほしい」と言えるような人なのか?
③完璧主義の人が周りにいたらどう声をかけるか?
④身近な人を失った人にどう接するか?
⑤何を信じていいのか?
の5つ。
①②に関しては私なりの答えが出ており、
③④に関しては現在進行形で本を読んで考えを深めている途中で、
⑤はまだ答えが出ていない。
そのうち③④は記事を出そうと思っている。今日は①②をまとめたい。

①もし組織の中で苦しむ人が周りにいたら?
もしも私が今にも死に向かっている人の近くにいたらどうしよう、と思った。
例えば亡くなった方の周りにいる人だとしたとき、どう行動しただろうか。
何百人ものスタッフ、何万人ものファンが待っている中で、本人が「大丈夫だよ」と言っているのにSTOPをかけられるだろうか。
私だったらできないだろうなと思った。

人は周りの空気に押しつぶされたらもろいということを自覚しなければならない。
じゃぁどうすればいいのかというと、客観的な方針を設定することだと思う。
「こういう症状で、こういうのが○日続いたら、こうする」ということをルールとして置いておく。
「客観的ということは、『空気』で視界が悪くなってしまった主観的な視野から逃れる、ということ」(「藁を手に旅に出よう」より)
たとえば、「職場で調子の悪い人がいたら連携して」といってもほとんど連携されることはないが、
「職場で2日以上原因不明の当日欠勤があったら専門家(医療等)に連携して」というとだいたい連携される。
空気から逃れるための論理、客観性を常に持つことを忘れないようにと思い出した。
私は企業のヘルスサポートを担う担当者として、他人事だとは思えなかった。
ラインケア・セルフケアを社内の末端まで浸透させて、自分のことを大事にしながら働ける人を増やしたい。

②自分は人に「生きてほしい」と言えるような人なのか?
私は死にたさを乗り越えてからずっと、自分を死なせないためのカケラを集めてきた。
なぜ死んではいけないのか。なぜ生きる必要があるのか。自分なりに多く考えたし、本も読んだ。
今度は他人に対して死ぬなといえるようになりたい。

ただ、死ぬなというのは簡単なようで責任が伴うと思う。

推しや友人に対して「健康に、幸せに生きて」といいながら、職場の人の悪口を流したり、ネットで非難をしていないだろうか。
自分なんて生きていても仕方ないと自虐をしていないだろうか。

責任と言っても、日頃からの小さな行いの積み重ねが大事だと思っている。

人に優しく、礼儀正しく、尊重・尊敬の念を持って接する
話を聴く
助けを求められたら最大限に応える
悪口を言わない
自分を責めない・尊重する
大変な時は助けを求める

アイドルはよく、挨拶で「健康に、幸せに、楽しく生きよう!」と言う。
その言葉を本気で信じている。

私は自分にも他人にも、死ぬな、ということを伝えられるようになりたい。

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