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寂しさの埋め方について考えてみる。その1

寂しいと口にすることは簡単だけど、その寂しさをいつも他人に埋めてもらうばかりじゃいけないな、と思い始めて数年。

やっぱり、一人がさみしいときの対処法は他人に頼ることでしか私は解消できないのでは、と思い始めている。

さすがにそろそろ一人暮らしをしなければ、という年齢なのだけれど。
なかなか一歩を踏み出せずにいるのはなにも金銭的なことだけが理由でない事も、自覚している。

家をしばらく空けていた両親も帰ってきて、子供たちが全員社会人となったことも相まって家のリフォームの計画も少しずつ進んでおり、いつ自室がなくなるのかと半ば怯えながら両親のリフォーム計画を耳に挟む日々。

じゃあ実家を出て誰かと住む方向に舵を切ればいいのかもしれないのだけど、そうも簡単にいかないのが人生。

何か一人でできる趣味があればいいのかなぁ、なんて考えていた時にとあるきっかけでゲームを始めることになった。

自分だけのハードを手に入れるのは初めてかもしれない。
(太古の昔、ゲームボーイカラーだかゲームボーイアドバンスだかというものをサンタクロースからもらったことはあるけれど、すぐに弟が使うようになった記憶)

これがまた、寂しさを増幅させる機会になるなんて思ってもみなかった。

ゲームって一人でコツコツとやるものだと思っていたのは大きな間違いで、いや、よくよく『ゲーム』にまつわる記憶を思い返せば明白ではあったのだけど。

通信の発達した今、遠隔でも容易に友達とチームになってゲームができるのだ。

この一文、いかに私がいままでゲームをやってこなかったのかが本当ににじみ出ていると思う。

唯一たまに触れていた将棋ですら、相手がいないと成り立たない『ゲーム』であるのにね。

時差というものは非情で、友人たちが盛り上がっているだろう『通話中』の文字を横目に仕事に勤しむ日々が続いて、「わたしもやりたいな~」と思ってしまった時には遅かった。

なーんだかなー。

でも、一方でとても嬉しいこともあった。

そのゲームを通して、数年ぶりに連絡を取り始めた人がいたり、新しい知人の輪ができたり。

なにより本当に本当にゲームと縁遠い人生を送ってきたから、改めてその経済規模やコミュニティの規模に驚きが隠せないでもいる。
NintendoとPlayStationの誕生した国に生まれてきた、というのが自覚できる母国の誇りの一つにもなった。
(うーん。いや、やっぱりこれはまだちょっと大げさかも)

新しい世界が広がっていくことはとても面白くあるけれど、「通話中」を横目に仕事をする時間はちょっと寂しい。

(少なくとも今回私の始めた)ゲームは一人で打ち込める趣味ではない、という事がわかったけれど、では果たして、私に必要なのは本当に「一人で打ち込める趣味」なのだろうか。

気が向いたら今度は、「一人で継続をすること」という点から考えてみたいなと思う。もしかしたら、違うテーマかも。気分次第。



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